変理整定式と四解法の公理
今回の小論は無断転載禁止にさせてください。
第二長編「独楽」第三長編「Q」の主題を含みます。
1 二つの緒
人間が世界を二つに分けるとしたら、自然と文明ということになると思います。この二つは区切られるようなものではなくて、分かちがたく結びついてあるものでした。どの時代のどの地域の文明も、土地の風土と上手に付き合わないと発展はありませんでした。この鉄則を一変させたのが産業革命です。そして、今では工業化と呼ばれているこの出来事を象徴する発明として名高いのが、蒸気機関です。
蒸気機関と呼ばれるものは古代にアイオロスの球がありましたが、動力源として利用するには実現する技術や水車より小さな出力などの問題点があり、二〇〇〇年以上も眠り続けていました。中世と近代の狭間の頃に入ると、それらの制約が解けます。ちょうどその頃、地球は寒冷化していたのだといいます。一六四五年から一七一五年をマウンダー極小期、一八〇〇年前後約三〇年をダルトン極小期と呼び慣わしているらしく、この期間に人間の主要な熱エネルギー源だった木材が枯渇し、動力エネルギー源だった水流も弱まります。農産物も凶作になって飼い葉が減少または高騰したせいで牛馬の力も利用しづらくなってしまいました。木、水、畜獣とは別の動力が強く求められてきたときに脚光を浴びたのが蒸気機関であったのです。極小期のエネルギー危機を克服しようとする試みは他にもあったかもしれませんが、結局、採用されたのは蒸気機関でした。
ここで世界地図を思い浮かべてみると、産業革命発祥の地イギリスはユーラシア大陸の西端から離れた小さな島国です。当時の極小期ではひどく乾燥が進み、流量が減った川の水が凍ってしまったともいいます。これでは水車は動きません。もはや極地と呼んでしまっても差し支えないそんな過酷な風土に、首都ロンドンだけでも数十万の人々が暮らしていました。食料とエネルギーの不足が社会の崩壊を引き起こしても不思議ではないのに、蒸気機関に支えられた工業化が未曾有の繁栄に導きました。この時、確かに人間は自然の制約を打破していたのです。
それまで人間は、変化の激しい自然環境を利用することで動力を得ていました。水車や風車は古今東西の文明で見られます。蒸気機関という新たな動力は、水量流勢・風向風力といった気まぐれな自然の力を脱して、稼働量と動力量を数値化、定量化できる特徴を備えていました。使用する者が実現したい作業量を忠実に叶える大変に都合のよい動力であったのです。そしてそれは、極地のような極小期の乾燥地域にある数十万人の社会を更に繁栄させる工業化の原動力となりました。
ローマ時代のキケロは、農業の目標を「自然界の内部に第二の世界」をつくりだすことだと言ったそうです。正にこの「第二の世界」が生み出されたのでした。そこでは数多の自然体が均衡と偏重を繰り広げる自然世界の変化が無いも同然に抑えられています。人間にとって非常に都合のよい世界です。産業革命とは正にその世界への架け橋であったのです。自然現象は法則として個別にまとめられ、理性を有する人類が共通して認識しやすい形式の物理や数式に置き換えられた科学となって「第二の世界」に利用されていきます。わたしがこれまでたびたび使用してきた理数、理数世界とはこれを言っていました(ヒッポキャンパス骨篇、小論)。ところが、二〇世紀後半を境に理数世界はやや異様の態を見せています。経済格差、不当労働、環境破壊という言葉を耳目にしない日はないのではないでしょうか。
これらの問題の深刻さは十分すぎるほど伝わっているのに、原因は定まっていません。大概の場合、問題というのは失敗の結果ではなく成功によって生じるものですから、何かの誤りのせいと思い込んでいると原因は見つかりません。もしや、それらの諸問題とは、理数を通してでしか生存、そして共存できなかった人類が現代の短所として負わねばならない宿命なのではないかと思われます。ならば、解決策はないでしょう。理数世界とは、個人がよりよい生活を営むための工夫や知恵をも飲み込んで膨張する、人類全体の生存戦略なのです。当然それは死ねる日まで続きますから、果ても底もなく深刻になる一方でしょう。
昨今、理数世界の短所ばかりを弱者に負わせて、長所のみを独占している人々を糾弾する勢いが増しているようですが、理数と高度に適応できた富者と、適応しづらかった貧者とに突きつけられている命題にもはや貧富の別はありません。あのような反対行動を見ていると、富者が富者の問題に取り合わず権勢に物を言わせて数多くの弱者に負わせることは堕落ですが、貧者が貧者の問題を取り合わず数に頼んで一部の富者に強いることもまた堕落と思います。もっと落ち着いてよく考えて問題の根を見定めなくては、叫ぶ力もない弱者から倒れていく静かな自滅を待つばかりとなります。生命の滅び方としてはあまりに情けなく、そして不可解ですね。
成功が問題を生みます。それでも、たとえ次なる問題が待ち受けていようとも、わたしたちは乗り越えなくてはなりません。生命に定められている宿命がこうした形の闘争であることは明らかです。現在の人間が直面している諸問題は、理数が自然世界の影響を抑えたことで生じつつも、依然として自然的な性質を帯びています。分かちがたく結ばれていた自然と文明の緒を解いた人類が、その二つの緒に絡まれているように見えます。
2 幸いな制約
今も動かせない大前提として、人間は理数世界の産物だけで生きてはいません。未だ理数化しきれない自然世界の強い影響を受けています。水、食料、空気を自然の力をいっさい使わずに作ることはできません。かつての蒸気機関のように、技術や理論はあるでしょう。やろうと思えば今日にでもとりかかれると思います。けれども、水ならば井戸や川、湖から汲めばよく、食料ならば耕地に蒔いた種を適切に管理すればよく、空気も一緒に得られます。安価でありふれた自然物を多用多量多額の技術で作る必要はまったくありません。非経済ですし非効率でしょう。あの蒸気機関さえ、極小期と巡り会っていなければ産業革命を引き起こすほどに発達していたかどうかも疑わしいのです。
自然と文明を分けた現代人は、何らかの行動をする際には自然世界の効率性と理数世界の経済性、二重の制約を負っているのです。この二つが一致しているのならどこまでも進めますが、反目してしまうと前にも後ろにも行けません。二つの緒に縛られている人類が右に行こうとすると左が、左に行こうとすると右の緒が締め付けて、なにもしなければ左右からじわじわ絞られて、弱い人間から順番に痛みを覚えます。その具体的な様相は、日を追うごとに顕著なものとなってきています。
効率または経済性といった言葉の意味は、理数世界に限らず自然世界ではより重大です。狩猟採集時代の狩人たちも、まったく同じ手間で得られるのなら、より大きな獲物を求めたでしょう。きっと肉食獣さえそうするでしょう。この点は費用対効果の原則としてまず同じですが内実が大きく異なります。
まず物の性質が大きな要因ではないでしょうか。農耕が始まる以前の自然世界で得られる糧のほとんどは長期の保存に向きません。腐敗してしまいます。無駄にしかねない量の糧を、持たざる者に分け与える抵抗感をなくしていたのは腐敗の脅威でした。その後、やはり環境変化によって狩猟採集生活が立ちゆかなくなると、チグリス・ユーフラテス川辺りで農業革命が起こります。農業で得られる植物タンパク質はそれまでの動物タンパク質に比べて遙かに腐敗しづらく、保存も容易で、多ければ多いほど非常の際に有利なので、これを他人に分け与える自然な理由がなくなりました。所有が縦の系統に直されて、多くの人々と分かち合うような横幅が消失したのです。
しかし、糧は自然世界の制約に晒されている危ういものでした。どんな品種をどのような方法で育ててどれくらいの収穫があるかは、その地その年の風土に決定的に左右されます。周辺生態系、山地の状態、森林、土壌、雨量、海況、気温といった数え切れない諸因に規定され、収穫量に反映されます。同じ国の中で同じ河川を水源としながら、水量豊富な上流ではコメを作り、水量乏しい下流でムギが作られるのは、自然の制約に従ったからであり、より多くの糧を得ようとした効率の結果です。わたしたちに多様な姿を見せる文明、文化、社会とは、風土が長い時間をかけて影響していった一つの結晶なのでしょう。
農業革命の次に起こった産業革命と工業化は、過去の文明を脅かした危機の多くを克服しました。農産物、文明、文化、社会の出来にあれほど強力かつ複雑に作用していた自然の制約も、工業産物の出来に対しては理数に打ち消されて弱化させられています。自然の制約が直に影響していた農業であっても、連作障害や地力の消耗、気候不順による凶作を、化学合成された肥料や農薬を使って避けられるようになりました。ビニールハウスや植物工場のような施設は、人間にとって都合のいい理数世界で糧を得ようとした発明です。ところが皮肉なことに、栽培環境が自然を離れて理数に近づけば近づくほど、行動を制約するものは理数世界の制約となります。すなわち経済性です。赤字を出すような産物は作られませんし、より利益を出せる品種、栽培法、はたまた補助金といった様々な諸因が強力かつ複雑に考慮を求めます。自然世界の周辺生態系、山地の状態、森林、土壌、雨量、海況、気温のようにして考慮を求めます。
わたしたちはこの理数世界でどのようにして糧を得ているでしょうか。もはや自然世界だけで完結できる生活はありえません。猟師さえそのような生き方はしていません。行為をお金に換えています。わたしたちは、かつての狩人たちが獲物を狩るようにしてお金を手にしています。どれだけお金を稼げるかということは、かつての狩猟採集社会でどれだけの獲物を得てくるか、農業社会でどれだけの収穫をあげられるか、とまるで変わらない問いです。より多くのお金を得ること、それが理数世界に生きる人の能力と豊かさを測る尺度になっています。より高い利益を生み出せれば能力を持つ者として認められます。かつて優秀な狩人が賞賛され責任ある地位についたかのように。それだけなら正当な評価といえます。決して不正義とは言い切れません。むしろ公正そのものの理数に適応してその能力を行使することで得た正当な評価ですから、その報酬も同様に正当だと思います。
しかし、無視できない点があります。人間の住処が自然世界から理数世界へと移行したと同時に、報酬の実質が糧から富へと変貌していることです。お金はそのままでは食べられませんし、自然物ではありませんから腐敗もしません。ただし、価値が激しく上下する有様は腐敗現象よりも遙かに不確かです。元来が自然物のものでさえ理数世界に持ち込まれて富として扱われると、不確かに価値が上下する性質に変化してしまいます。
その災いの最たる例と思われるのが飢えの問題です。自然世界では主に人間の糧であるはずの農産物は、とうに飢えを根絶できるほどの生産量があるのに、トリ、ブタ、ウシといった食肉用の畜獣に施されるのは、人間よりも家畜に食べさせた方が長期かつ計画的に儲けられるのが確実だからです。理数世界の制約、経済性に従えばこうなります。理数世界で見られる異様な貧富の差は、文字通り血も涙もない価値がめまぐるしく変動する特徴に端を発しているのではないでしょうか。そこには最大の利益を得るための正解はあっても、しかし、正義はありません。
理数世界にある限りこの流れは決して止められません。理数や経済学といったものが、人間と同じく自殺できる特殊能力を持つのなら別ですが、そうした超高次機能はありません。理数は理数世界で生きることを志向した人類に、法則と制約を示しているだけで何ら能動的なものではありませんし、経済学は理数世界で発生している出来事を探求して解説する観測的なものです。どちらも自己否定するなどあり得ません。誤りはそれを誤りと思うわたしたちの手でしか改められません。
制約と呼ばれるものはしばしば厄介と思われていますが、見方を変えるなら幸いなものでもあります。ある作物は年に一回しか栽培できないからこそ、それ以上を求めようとしてもできません。耕地を拡大しても、知恵と工夫で生産性を上げたとしても、年一回という制約だけはどうしようもありません。こうした幸いな制約が理数世界にはあるでしょうか。
「精一杯やった。あとは手をつけてはいけないから、これで休もう」
こう安らいでいても万人に賞賛されるような尊い制約が。ないのなら、見失われているのなら、作り直すほかありません。
3 変理整定式
自然世界の法則の多くは、人間が手を施すまでもなく作用しています。人間がいてもいなくても作用します。それを幸いな制約と捉えて受け入れるか、都合よく利用するしかありませんでした。その過度な利用が自然世界に深刻な負荷を与えているとはよく言われますが、果たして本当にそうでしょうか。その環境破壊は人間にとって都合が悪いだけと見透かされているように、理数化していたはずの自然世界で起こった誤算に過ぎないように思えます。最も深刻な被害を被っているのは、自然と文明という二つの緒に縛られている人間だけなのではないでしょうか。自然世界に属するままの動植物が理数世界の作用を被ったとしても、急に水質が変わったな、とか、急に日陰ができたな、とか、急に食べ物が少なくなったな、という変化を認識するとしても、効率に強いられる形で生存の方法を変えていくでしょう。一方で人間は自然の制約と理数の制約を同時に満たせなくなってしまいます。これこそが問題であると思うのです。旧来の成功法則を踏襲し続けても、効率を追求したら経済性が成り立たず、経済性を追求すれば非効率になる、今や人間の居所はこのような地点に近いのではないでしょうか。
たとえば近年になって山の熊が人里に下りてきているようです。それはもしや山では生存を完結させることが難しくなってきたから、別の地域で糧を得ようとする行動ではないでしょうか。しかし、大抵は麻酔で眠らされ、生き続けられない森へ戻されてしまいます。そしてまた人里へ下りる。繰り返されれば緩やかな滅びです。これと同じ姿が一部の人間にも見られます。もう理数世界では生きられない、でも自然世界にも居場所がない。この思いが窮まれば死のほかに癒しはありません。虚しくはありますが、苦しみもありません。でも、こんな最期を正気で望むでしょうか。自ら好んで選びたいでしょうか。このようにして尊厳を持って死ぬことと、尊厳を持って生きることはまるで違うはずです。
人間を巡るどこかに何らかの過誤があるのは明らかでした。ですが、水が独りでに低いところから高いところへは流れないように、自然世界に誤りは起こり得ません。正確には、ヒトには自然世界の正誤を定義できる認識も方法も備わっていないのです。ならば人間は人間の誤りを正すしかありません。過誤は必ずや理数の側にある。その理数の過誤を捜査認識し、自然という変数塊と調和させる式、それを変理整定式と呼びます。
人間がいま直面しているのは、成功が引き起こした問題と、過誤が巻き起こした問題が同居したものであり、自然と文明という二つの緒に縛られた人間が被る無理ない必然です。行く手にあるのは、山で飢えた熊が暴力によって襲奪するしか生存できないような形の、強者が弱者を虐げることでしか存続できず、深刻な摩擦を生じさせる野蛮な社会です。膨大な手間と費用を投じた末に、効率と経済性の制約が調停した日に現れるのは、乾いた荒野ばかりではないでしょうか。よって、二つの緒を元来の形に戻し、自然世界の幸いな制約のような規範を取り入れて理数を立て直すことが求められます。
その手法と論拠は、すでに古典経済学の中に含まれていました。アダム・スミス<国富論>の、
「正義の法を犯さぬ限り、各人各様の方法で自分の利益を追求し、ほかのどの人、どの階級と人々のそれらと競争させようとも、完全に自由に放任される」
というものです。スミスは倫理や哲学を得意とした方のようでしたから、同書中の有名な語句「見えざる手」もまたきっと正義の法を前提に唱えられたものと思います。
むかし、特に産業革命より前の人たちにとって正義とは、敢えて語るまでもない、ごくごく自然な前提でした。だからこそ、ありふれた言葉を省いて真新しい自由競争という考えを強調して記述できたのではないでしょうか。それが今や、自然の幸いな制約と結びついた正義から遠く離れたわたしたちには、最大の利益を算出する正解ばかりが身近にあります。
ですので、この正義の法を、自然の幸いな制約のようにして理数に取り入れ直す必要があります。正義の法とは、その時その地の風土によって培われた文明、文化、社会に波及していった自然の制約を元にして現れるものですから、理数を抑制する使い方をするには経済をグローバルなものから、ローカルなものへと縮小していなければならないでしょう。また、今日まで培われた不自然なまでに高度な理数の技術は自然環境の急激な変化と遭遇した際に使われる限定的な切り札であるのが理想であると愚考します。当然そうはならないでしょう。しかし、同じ水準の力量を持った他人がもっとも有意義な競争相手であり仲間であるように、多くの人々の集まりである国と国同士でもそうありたいと願わずにはいられません。
南国の装いで雪国に住めないように、麦作中心の土地に米作中心の風土に培われた正義は通用しません。具体的には、水の価値がまるで異なります。農法も違います。土地所有の制度、法制、統治機構の隅々にまで影響が及びます。工業化と理数が生み出した富はこれらの働きを極端に弱めることで、別々の正義の下にあって誤解しがちな人間を利己と理性とで結い直そうとする試みでしたが、自然世界の幸いな制約と風土が育んだ正義の法の根強さをあまりに軽視し、自然の法則を転用しているに過ぎない理数の力を過信していました。変理整定式はその自然と文明の付き合い方を捉え直すものではありますが、その式と解は土地の事情や習慣によって大きく異なり、立式の要因も構造も膨大複雑であるため、今も<義=正=解>という理想形しか出せません。今回は立式に不可欠の公理系を提示するだけにとどめます。
4 四解法の公理 <本・公・私・仮>
すべての生命が生存を達成するべく特徴を発展させるなかで、ヒトは群を社会へと発展させていきました。実は、糧を得るための水や土壌が豊富ならそんなものはいりません。よけいな手間と費用を投じなくとも生きていけるのなら、作らない方が効率的で経済的です。けれども、水や土壌が豊富ではないのなら使用の法量をよく管理する必要があります。水役人が生まれ土役人が生まれ、分業と専業が行われます。
社会が形作られると、ヒトに公的な側面が加えられました。互いが互いの生存を持ち合って助け合う社会の一員としての分面です。その社会が、誕生を促した風土とうまく結びついている限り、人間の公的活動もまた正義の法と合致しています。仕事とは、ひとりとみんなの生存を第一義とした社会正義の実現以外の何物でもありません。
けれども、そのままではやや不毛の色合いが残ります。一日一日を迫る滅びに怯えながら暮らすようなもので、生存のための生存という図式にとどまっています。たとえ風土と完璧に一致している社会にあっても、片時も休まず作用する自然の法則と調和し続けられる人間はいません。疲れてしまいます。安らぎがないと続けられません。そこに、私的な性格が浮き彫りになって現れていると思います。
「精一杯やった。あとは手をつけてはいけないから、これで休もう」
というのは、そういう正当性を持っています。社会正義の実現に寄与するための力を尽くしたなら、休み憩う。そしてまた力を尽くす。これが人間の幸いな一生でしょう。疎まれやすい自然の幸いな制約が手を貸してくれています。よって、
<自然の幸いな制約に合致している限りにおいて、本能的欲求を満たす人間の公的活動量は、休憩という私的活動量を引いたものである>と言えます。
けれども、人間が手を施さなくとも作用する自然は時に非情な面を覗かせます。農業革命が起こったのも、土地を追われた人々が都市社会を築いたのも、産業革命が起きたのも、自然環境の急変によるものでした。この変化はその度に正義のありようを変え、世を乱し、人を飢えさせてきました。
理数は、自然の幸いな制約ごと裏面にある非情な制約を打ち消して、より多くの人がより長い期間生存できる世界を実現しました。画期的で、人の苦しみを除こうとする慈しみが感じられます。残念なのは、アダム・スミスの言う正義の法が、見えざる手に覆われてしまったように、理数に取り入れられるはずだった幸いな制約が置き去られてしまったことです。
人間の公的な面と私的な面は、幸いな制約を根拠に弁別されてきていましたが、それがないとなると、公私を峻別するものはなんでしょうか。人が糧を得るために働かなければならないのは今も昔も同じですから、現在の公的活動の舞台である事業体に多くを求められ、私的活動もまた依然として休憩に求められます。であるならば、一切の事業体は社会正義を達成するための集いであるのが望ましく、人はそこに能力と労力を提供する形で社会正義を実践することになります。労働者の権利や労働条件の細部が異なるのは風土との経緯によるものですが、その事業体が私企業であれ公企業であれ、はたまた国家であっても仕事とは常に人間の公的活動であり、ひとりとみんなの生存を第一義にした社会正義を実現しようとする努力に違いありません。自然世界でも理数世界でもこの点は共通しているはずです。
ところが、この労働の原則は自然世界の幸いな制約が発揮されていた頃に生まれたので、理数世界の制約によって打ち消されやすく、経済性が実践を許さないようなら、正義の法はたやすく無視されます。更にその傾向を増しているのが、社会正義を実現しようとする事業体の中でも、企業という集団が法人という体系を取っている点です。これはその風土によって培われた法を尊重する代わりに、人間と同様の権利を授けられる神妙な言葉でした。言い換えると、本来は生命が生まれながらに有している生存権を付与するということでもあります。それはそれでいいのですが、しかしここに風土や自然の法則を打ち消す理数の特徴を代入してみると、風土の自然の幸いな制約によって定義される正義の法は消え去り、事業体の生存権だけしか残らないようになります。事業体は原則として二重規範を有し、二つのうち優先されるのは正義の法ではなく事業体の生存となります。それは生存のための生存よりなお悪い状態です。そこでの活動は公的でありながらも社会正義が達成されない虚ろな状態であるからです。きっと悪循環しか生まないでしょう。そんな事業体では能力と労力を提供することにより社会正義を実現するはずの構成員の生存権さえもが打ち消されてしまっているからです。
なぜならば、幸いな制約を持たない事業体は自らが生存または成長するために、数値定量化された理数世界での経済性を唯一の尺度とする傾向があります。一度そうなってしまうと、人間は人件費という数値で注目されやすくなります。当然、事業体にとってはその人件費を最大限に活用できれば、たとえ効率的でないにしても経済的であるので、より長い時間より安い値で用いようと求めます。また、事業体は能力と労力を提供している構成員に対して、暗黙の強制力を会得しやすく、長時間労働、無報酬残業といったことを半ば強要しもします。
今では社会正義に繋がらない無益な公的活動が極端に膨張し、休憩という私的活動に費やす時間と費用を押しつぶして精神疾患を喚起させ、ついには生存本能さえ押しつぶして過労死や自殺者を出すに至りました。しかし、これは一部の悪徳企業に見られる悪行なのではありません。自然世界の幸いな制約を打ち消す理数世界においては、すべての事業体が潜在的に持つ宿命なのです。発芽していないか、芽吹いて毒の霧をまき散らしているのに誤魔化しているかのどちらかに過ぎません。
なにより、片時も休まない自然世界を打ち消し続けている理数世界は、人間が手を施し続けないと停止してしまう宿命があります。実質、この車輪を停めての休憩はありえません。それどころか、新たな変化を新たな理数で打ち消そうとしてきた結果、求められる回転数は増加の一途です。もはや公的活動だけでは力が足りず、休憩という私的活動を別人の公的活動の消費に当てる一種の生産活動と定義し、休憩するために正義に繋がらない労働をするという訳の分からない構図さえ生じさせて、理数世界の人間は本(本能)公私を弁別することも序列を明らかにすることさえも困難になっています。制約がなく、規範もなく、区別がなく弁別もできず、正義を見失い、堕落した公的活動によって得た報酬がさらにそれを加速し合う恐るべき世界です。果たしてこれは正しいことでしょうか。
他方、理数世界の生活は自然世界の非情な制約を打ち消しているため、とある土地の風土であれば本来とうてい養えない数の人間を生み出してもいます。理数世界はこの点でももはや休憩を許されていません。もしも理数世界が破綻すれば、短期的には三〇億人、その後は月数百万人規模の長期的な犠牲が感想されます。
以上をまとめると、<理数世界に合致する限り、人間の公的活動量は、本能的欲求を満たす分と、休憩という私的活動を通じて他者の公的活動を消費する分と、帰属する事業体が最低限生存する分と最大限成長する分と、自然世界の非情な制約を打ち消せる理数世界を存続させる分を足したものである。※達成には経済性のみを考慮し、正義の法は計算外においてよい>ということになりますし、日毎に新たな発達を遂げる理数はこれらの分量を増大させ続けます。
幸いな制約を持たない理数世界にこうした過誤があることぐらい、各国の政治指導者のような賢い人たちはとうに気がついています。それでも、文明を維持する他の手がない。言いがかりのような文句をつけ、手間も費用もかかる自作自演の事件を口実にし、特定宗教を悪役に仕立てあげようと連合を組むのも、理数世界の寿命を少しでも延ばそうとする必死の試みに見えます。被雇用者を使い潰す悪徳企業の問題をただ拡大しているように見えるのです。犠牲にされている方はたまったものではありません。いずれ追いつかれる自滅を先延ばしにするためだけの犠牲などに、誰がなりたいと思うでしょう。
この行き詰まりを打開する案は二つです。人間が手を施さずとも作用する自然の幸いな制約に準じた、理数の幸いな制約を作り出すこと。それが前項、変理整定式であり、四解法の公理とは、人間をいくつかの面に分けて優先順位を確認することで、理数の幸いな制約の姿がどのようなものであるかを示唆するものです。当世当地の風土に適した、ひとりとみんなの生存を第一義とした社会正義に合致した公的活動と私的活動が原則です。幸いな制約を得た理数はあくまでもそれを達成する道具に過ぎません。
四解法の公理を基に変理整定式をやや具体的に言うと、まず私有財産を糧と富とで区別します。糧とは生きるのに必要な持ち物であり、富とは消費しきれなかった糧です。すべての事業体は、構成員に社会正義を実行する機会を与えて社会の一員として公的責任を遂げている満足感を生じさせると共に、働いているのに生存が脅かされることのない待遇を確約し、報酬には日々の糧を賄いきれる金額が含まれていなくてはなりません。特にその糧料は非課税が望ましいでしょう。所得税は、その最低糧料額の1.5倍前後の報酬から徴収されて、労働所得だけではなく株式配当のような不労所得にも課せられてもよいでしょう。簡潔に言うとその税制は、糧料は非課税かまたはぐっと低く抑えられ、富料には課税される仕組みです。
また、糧料での支払いはあらゆる間接税も免除されます。消費者の手元に届くまで税が重ね掛けされて、販売価格に転嫁されやすい消費税であっても同様です。生活必需品にあてられる糧料の支払方法をプリペイド式などにし、決済の度にビッグデータに記録され、確定申告などで参照されて調整を施してもよいでしょう。生存に不可欠とは言い切れない嗜好品の購入に糧料を費したとしてもそれはそれでいいと思います。お米やパンといった糧を買う糧料が足りなくなれば、糧料を越える収入である富料を費やさざるを得なくなり、富料での買い物には間接税が生じます。それでも賭事といったものに心奪われて一日で消費してしまう輩も現れるでしょうが、そうした輩には更正プログラムを施しつつ近代以前にあった賦役労働に従事させてもいいでしょう。また、糧料での購入履歴を調査してあまりに不自然な出費が認められれば、追徴課税に処してもよいでしょう。
事業体が糧料をきちんと保証しているかどうかは、プリペイドへの入金記録ですぐさま分かります。企業が被る赤字補填分や法人税分が入り込みやすい本体価格の調査も必要かもしれません。エウゲン・ロエブルが言ったように国家が私企業の株式25%程度を固定所有する代わりに法人税を免除する。経営には口を出さず企業活動の監視に徹して、業績悪化が続いたり破綻に近い状態になったなら株主総会の決議を経て、経営に参画する仕組みがあってもいいかもしれません。風土が異なる海外企業については国家が株式を所有するよりも、30%超の法人税を課して国内企業の保護に重点を置いてもいいと思います。
以上は幸いな制約を人間に定めて出される一案です。ベーシックインカムの短所や問題点と絡めて考えてもいいでしょうし、もっと別の形もありうるでしょう。ただいずれにせよ、多くの人間がお互いの生存を持ち合う文明社会であるのなら、本≧公>私という図式は鉄則です。公的活動を通して社会正義を行えば生存できる糧料が保証されるとしても、それは最低賃金でも最高賃金でもありません。糧料を含む報酬はできる限り今日までの給与計算を踏襲し、成果に応じた富料が上乗せされるのも当然です。社会正義に益しないか、反するような仕事をしながら富裕になるのも貧困に陥るのも、社会と人の双方を壊そうとする行いに他なりません。
最後にもう一つの案をお話します。これは自然世界の幸いな制約を手本にした理数世界の幸いな制約を求めないまま進んだ先の、未来の話かもしれません。
人間の分面は、古くから本・公・私の三つだけで、これ以上はないと思われていました。しかし、思いも寄らない死角から生じてきたのが、一九九〇年代中頃から急速に発達した仮想空間インターネット上の分面<仮>でした。理数世界が独自に作り出した仮想世界にのみ存在する特殊な面です。当初はハンドルネームと呼ばれていた他愛のない名札でしかなかったそれは、およそ二〇年を経た今では多種多様のSNSの機能を利用して、現実世界の個人や事業体にも大きな影響を及ぼす肉感を得ています。
この<仮>を考え直してみると、埃一つ巻き上げられないことがわかります。自然物によってしか満たされない飢えや渇きのような本能的欲求を満たす術はありません。それは古くから実体の方が効率的に行ってきましたから必要ありません。仮想空間が取り扱えるのは物質ではなく情報です。自然物を理数が数値定量化し、それを仮想空間で情報化し加工するのが、仮想空間を含めた現代社会のありようなのです。当然、それ自体が個人に与える影響は<本・公・私>と比べて大きくありません。熱中しすぎて規則正しい生活を送るのを忘れたり、生まれた時から仮想空間がある若人が未熟で小さな疑似社会を築いたり、仮想空間からは持ち出せないカードを巡って一喜一憂させるぐらいが関の山です。仮想空間を最大限に利用できるのは、自然体を有する人間なのではなく、自然体を有さない理数そのものなのです。
これまで自然の法則を打ち消し続けてきた理数ですが、逆を言えば、その理数の法則もまた自然の法則に打ち消され続けてきたと言えます。計算の上ではもっとも経済性の高い方法が、風土や地域住民の了解を得られずに一段も二段も下る方法でしか実現できないことは間々あります。そこで、そうした摩擦が小さい地域に移転する必要がありました。抵抗の小さい土地を選んだり、法解釈を歪めて強行するなどしてきましたが、それでも経済性を割るようになってきてしまいました。そこで目を付けられたのが、そのような摩擦を一切廃した仮想空間です。
仮想空間は、自然世界という変数塊から理数化できた法則だけで構築されていますから、いまだ無数に残る未知の変数が引き起こす摩擦は初めから起こり得ません。理数世界が人間にとって都合のよい世界だったように、理数にのみ都合のよい世界です。机上の空論がそのまま適用されます。計算式やプログラムに問題がなければ、意図していた通りの結果が現れます。現実で再現することは不可能だけれども、理論上は起こり得る事象を例外なく完璧に再現できる空間です。たとえるなら、動画再生サイトにあるTASのタグがついたテレビゲームのスーパープレイのようなものです。実際、金融取引をスーパーコンピューターに任せて、人間では思いも寄らないやり方で金儲けをしている人たちもいるようです。
最近、技術的特異点という言葉が流行りつつあるようです。コンピューターの計算速度が発達を極めて、二〇四五年頃に生命を超えるというものらしいのですが、それは自然世界の打ち消し効果がない仮想空間でのみ観測できるもので、極限まで発達した計算速度を現実世界で実行できる機械を造る技術の難度を考えれば、本当にそんな世界になるのかにわかには信じられません。しかし、鉱山で細々と使われる貧弱な蒸気機関が極小期と巡り会って急速に発展普及したことで理数世界の扉を開かせたように、きっかけがあればないとは言い切れません。まして、今や行き詰まりに近い理数世界がいつどんな拍子で止めようもない破綻に差し掛かるか分かりません。自然世界の急変も起こっていないのに革新の必然性に直面する前代未聞の事態が予想されます。そのとき取れる手段にはどんなものがあるでしょうか。
いずれにせよ、自然の幸いな制約に準じた正義の法を知らないまま、これまでの理数が通用しない事態に直面することになります。これでは自分たちの営みのどこが悪かったのか反省することもできません。何か不幸な偶然が重なったものと思い込んで、二度と同じ悲劇が繰り返されない仕組みを作ろうとするでしょう。管理しきれない自然の変数を恐れ、それらが一切ない仮想空間に安全な社会を作らないとは言い切れません。人間は第四の分面<仮>を入り口にして徐々に自然体から理数体へと変貌し、そこで想像もつかない生き方をするのでしょうか。しかしながら、そこには今のわたしたちがまだ辛うじて認識できる正義の法は影も形もありません。仮想空間では、効率とも経済性とも知れない理数の制約だけが絶対唯一の規律になっているからです。理数と限りなく一体となってしまえば、誰もがそれを行わなければならず、そこに個性などという非効率の元になるような悪因は存在さえ許されません。
理数体となった人間は不要なアプリを捨てるかのように死を宣告されたり凍結されるかもしれません。また、自然世界を限定的に模倣している仮想空間は、自然の変数塊が理数化していくに従って、より効率よく変容していくことが予想されます。そしてある時、自然の変数を完全に解き明かしたとしても、その仮想空間に現れるのは、やはり今のわたしたちの周りにある自然世界と何ら変わりのないものではないでしょうか。
自然世界の幸いな制約に準じた正義の法を理数に定めて、理数世界の幸いな制約を新たに設けるか、逆に理数に一切の制約を設けない仮想空間がまったく新たな社会を作り出すのか、それともまた違った未来があるのかは誰にも分かりません。それは人間たちの明確な意志と曖昧な総意の二つがどの辺りで均衡を取るかによって決まるでしょう。
ですが、わたしは、たとえ極限まで発達した理数が人間よりも高い能力のコンピューターや人工知能を産み出したとしても、人間性を持たないものに導かれたいとは思いません。それは野蛮と悪徳の持ち主に指図されるのと変わりがないのですから。