◆8◆
深夜、官邸内の寝室で、フェロン大統領は書き物机の前に座っていた。
机の上には、灯りの点いたスタンドと、何か書かれている便箋が数枚、万年筆が一本、水の入ったコップ、そして、小さな白い箱型のピルケースが乗っていた。
大統領は、ピルケースから緑のカプセルを一つ取り出し、机の上に置いた。
しばらく、そのカプセルをじっと見つめていた後で、
「やれやれ」
と、重々しく呟いた。
その時、突然クローゼットの扉が開き、秘書のクララが現われた。
フェロン大統領は驚きの余り、トースターで焼き上がった食パンのように、ぴょん、と椅子から飛び上がり、声を荒げて、
「な、何の真似だ、これは!」
「帰宅したと見せかけて、裏口からまた侵入していました。この官邸の警備員は、全て私の管轄下にあることをお忘れなく」
クララは、普段と全く同じ調子で淡々と言う。
「この官邸内で私が暗殺されたら、犯人は間違いなく君だな。それにしても、よく何十分もクローゼットの中にいられたものだ。異世界への通路でも探していたのかね」
「大統領閣下のご友人から頼まれたので、仕方なく監視をしていました。時間外労働です」
「残業代は出さんぞ。国民が怒る」
フェロン大統領は、少し落ち着きを取り戻し、再び椅子に腰を下ろした。
「ここはとんだブラック企業ですね。ところで、それは何の薬ですか、大統領閣下?」
クララは、机の上にある緑のカプセルを指差した。
「ただの睡眠薬だ。クローゼットからいきなり人が飛び出すような環境でも、これがあればぐっすり眠れる」
「大統領閣下の常用されている薬ではありませんね」
クララは机に近寄り、カプセルを手に取って、しげしげと見つめる。
「自前だ。良く効くが、主治医が処方してくれないので、こっそり個人ルートで入手したものだ」
「なるほど。実は私も最近不眠症に悩まされていまして。一つ頂いてもいいですね?」
クララはカプセルを口に持って行った。
「ばかっ、吐くんだ!」
フェロン大統領は、弾かれた様に椅子から立ち上がり、クララの襟首をつかむと、その上半身を机の上に押し倒す。
そのまま口をこじ開けられようとした時、クララは右手を開いて、握っていたカプセルを大統領に示した。
「ふぇをふぁふぁひふぇふふぁふぁい、ふぁいおうおうふぁっふぁ」
多分クララは、「手を離してください、大統領閣下」と言いたかったのだろう。
そう察したフェロン大統領は、クララから手を離し、大きく息を吐いて、
「年寄りをからかって楽しかったかね、クララ君?」
クララは身を起こし、手で口をぬぐってから、
「あまり楽しくありませんが、これも仕事です。とりあえず、この薬は没収します。残りも全部です」
「断ると言ったら?」
「クローゼットの中から一晩中ずっと、大統領閣下を監視しますが」
即座にフェロン大統領は、ピルケースごとクララに手渡した。
「焼却処分してくれ。決して中身の分析はしないで欲しい」
「了解しました。それともう一つ」
「何かね」
「任期満了まで後わずかです。それまで、このようなおかしな真似は控えてください。今、大統領閣下に急死されると、私の業務が激増してしまいますので」
「約束しよう。だから早くここから出て行ってくれ」
「では、私はこれで」
何事も無かったかのように普段と同じ様子で、クララは寝室を出て行った。
フェロン大統領は、机の上の便箋を取り上げ、びりびりに引き裂きながら、
「何であんなのを秘書にしてしまったんだろうな」
そう呟いて、ため息をついた。