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内戦の終結を見届けることなく、「勇者」と呼ばれた男は、政界から身を退いた。
新政権への参加要請を固辞し、人里離れた山奥に道場を建てて、そこでひっそりと暮らすことを選んだのだ。
本人に道場主としてやる気があったかどうかは疑わしい。最初は門下生は一人もおらず、特に募集も宣伝もしなかった。ただ建てただけ。後はほったらかし。
それでも「勇者」の名声に惹かれて、各地から武芸者を名乗る荒くれ者達が自然と集まり、道場は一時期ではあるが盛況を極めた。
しかし、内戦が収束して平和な時代が戻ると、次第に道場は人が減っていき、最後には道場主とその娘しかいない有様となった。
「スリッパ。私は旅に出ようと思う」
「私の名前はアリッサです、お父様」
がらんとした稽古場の真ん中で、父と娘が二人向かい合って正座していた。父の方は、かつては「勇者」と呼ばれていた男である。
「武芸者たるもの、様々な他流派と実際に対峙してみるのは良いことだ」
「それには同意します」
「お前ももう十六歳、一通りのことは自分で出来るよう教えたつもりだ」
「まだ未熟者ですが、まあ、一人で生きていける位には成長したと思います」
「私が留守の間、この道場はお前が守れ」
「大丈夫です。もう門下生は誰もいませんから、道場としては終わってます。守りようがありません」
「もしもの時は、レットを頼れ。時々、この道場の様子を見てくれるように頼んでおく。あれはなかなかの好青年だ。お前にその気があるなら、婿としてこの道場を継いでもらっても構わないが」
「私にその気はありません。筋肉ダルマは趣味じゃないので。それにレットさんには、もう意中の娘さんがいます」
「何と。色恋に興味などないといった風をして、レットもなかなかやるな」
「お父様が鈍いだけです。村の人なら皆周知している噂です。あまり道場に引きこもって世間を見ないのも……あ、だから旅に出るのか」
「お前には意中の男はいないのか」
「村にはこれといった人材が見当たりません。まだ私も若いので焦るつもりもありません。もしそのような男がいたとしても、自分の娘の名前を間違える父親には教えたくありません」
「我が娘ながら冷めた奴。一体誰に似たのやら」
「変な所はお父様似だと思います。生前お母様がよくそう言ってました」
「クリスの言いそうなことだ」
「流石にお母様の名前は間違えませんでしたね」
「自分の名前は間違えても、あれの名前は間違えはせぬ」
「お熱いことで、と言いたいところですが、それが普通です、お父様。それから、自分の名前は絶対間違えないでください。認知症ではないかと不安になりますから」
「とにかく、明日にも出発する予定だ。後のことは任せた。蓄えは十分にあるが、くれぐれも浪費するなよ」
「昔、月謝代わりに頂いた株券が、あそこまで高騰するとは思いませんでした。だからこうして、お父様が道楽の旅に出かけられるのでしょうが」
「道楽ではなく修行だ。もう少し値上がりするのを待った方が良かったかな」
「いえ、良い判断だと思います。素人が欲をかくものではありません」
「そうだな。武芸者に商売は向いておらぬ」
「道場を経営する身でその言い草ですか、お父様」
「明日からお前が道場主だ。この道場を続けるもやめるも好きにするがいい」
「さっき、私に道場を守れと言いませんでしたか」
「続けるなら守れということだ。結局のところ、自分で自分の身を守れと言いたかったのだ。道場の代わりはあるが、娘の代わりはない」
「最後の最後で、ようやく父親らしい言葉を頂き、嬉しゅうございます、お父様」
アリッサはにっこりと笑った。
「娘のことを心配しない父親があるものか、スリッパ」
「前言は撤回します、さっさと旅出ってください、お父様」
アリッサは笑顔のまま冷たく言い放った。