アンドロ妹~恋とはこういう物ですよ~
慣れきったキスの感触は、硬く冷たく柔らかく、そして少しだけ暖かい。
「お兄様、お兄様。起きて下さいましお兄様」
その日ヤクモが目覚めてみると、腰の上が重かった。
妹である。
或いは、妹のような何か。まあ、細かいことはどうでもよろしい。
肩口で二つ結びにされた、プリズム・ブルーの髪が揺れている。
「お兄様、恋とはどんなものでしょう」
真顔で言う。ほとんどない胸よりもずっとフラットな声で言う。
疑問があるようには見えないし、気にしているようには聞こえない。
例えるならそう、音声合成ソフト辺りが、用意された文を読み上げているような。
「ハナよ、今度は何を読んだんだ」
ついとやる気無く指差す先には古めの少女漫画が大山小山。ヤクモが見る限り、どれも家にあったものではない。
「お兄様が常々仰っているではありませんか。そう、もっと妹らしくしろ、と」
「つまりアレらは研究資料、と」
素っ気なく肯いてみせるハナに、ヤクモはうっへりとした目を向けた。
「……まあ、なんでもいいけどな。その呼び方はやめろ気色悪い」
「ちっ。はいはい分かりましたよ兄。言う通りにすれば良いんでしょう」
ここで露骨につまらなそうな顔でそっぽを向くハナ。深い溜息が図々しい。
「どうしてそういちいち不服そうなんだ……って、ハナ、お前以前、『初期刻印設定は変更出来ませんので、この呼び方は変えられません』とか言ってなかったか」
「やれやれ。いちいち細かい男ですね兄は。あんまり細かいことを気にしているとストレスでハゲますよ? 男性の無毛なんて基本どこにも需要ないんですから、精々私を怒らせないことです」
「なんて言うか、お前凄いな」
最早ツッコミを諦めて、返す言葉もいい加減である。
「お褒めに与り恐縮です。さ、ぐずぐずしてないで起きて下さいな。ぼやぼやしていても朝食はできあがりませんよ」
言うが早いか立ち上がり、彼女はさっさと部屋を出て行く。
残されたヤクモは頭を掻いて、
「えらいのを拾ってきてしまったもんだな」
と漏らす。
以下、どうでもいい話。
ヤクモの妹――のようなもの、ハナはアンドロイドである。
ことあるごとにロボットではなくアンドロイドだと主張する辺り何かこだわりがあるのだろうが、ヤクモとしては超どうでもいい。
ウン千年前の遺失技術がどうのとか、重力子-霊子三重交叉リアクターがなんだとか、偏軸光体結晶の云々とか、本当にもうどうでもいい。
基本的にハナはロボットだかアンドロイドだかで、つまり冷蔵庫とか洗濯機と同じジャンルの製品で、だからワイシャツ一枚しか着てなかったのも限りなく極まってどうでもいい。どうでもいいったらどうでもいい。
なんにせよ、ヤクモがキッチンに行くのはもう少し後になりそうだ。
「それで、兄。先程の疑問が未解決なのですが――恋とはどんなものでしょう」
通学路、もう一人の道連れを待ちながら、準備していた様にハナが言う。
ヤクモは露骨に嫌そうな顔で、
「なに、お前、それ本気で聞いてたの」
「モチのロン。裏ドラも乗って本気も本気、マジ本気です。漢字で書くと本気本気ですね」
「躊躇いがちに言わせて貰うが、答えるのすげえ面倒臭い。自分で考えちゃくれまいか」
「勿論思考はしましたが。今の私に必要なのは、答え合わせと人間によるご意見・ご感想なのですよ。経験や実験、観測の伴わない知識は虚しいモノです。さながら処女・童貞だけで行われる恋バナのように」
「どんだけ過激な恋バナを想定してるんだお前は……つーか、今自分で答え言っただろ。経験だよ経験。一見は百聞に勝り、一度の体験は百見に勝るもんだ」
ハナはいかにも大仰に肯いて、
「一理あるお話ではありますが、容易に納得はできかねますね。見たことも聞いたこともないのにいきなりやって上手く行くのはエヴァンゲリオンの操縦くらいです」
「滅茶苦茶派手に失敗してるじゃねえか。まあ、一歩譲って聞くところから始めるにしても、俺に聞くのはどうかと思うぞ。俺、恋バナとかしたことないし。そもそも友達がユキの他に居ないし」
「は、は、は。ご謙遜を。兄の友達が少ないのはまあ自明の理ですが、恋そのものはなさってらっしゃる。一昨日の夜だってそれはもう激しくユキ様と恋を」
半端に言葉が途切れたのはハナが自重したからでは無論なく、慌てたヤクモが彼女の口を塞いだからだ。
「むんもごご、ふっほふ」
「公の場で何を言いだすか。ていうか、どうやって知ったんだ色々と」
「むむごももはん、っぷほ。お忘れですか。私の索敵半径は通常で五十キロメートルです。一般家屋の壁材なんて無いも同然なのですよ」
そう言って顔を付き合わせ、六角形の瞳孔を開けたり閉じたり――正直、ヤクモからすると気持ち悪い動きである。
「……とりあえず、ノゾキ禁止な。しても言うなよ? 特に母さんには」
「ほう、随分とビッグな態度でらっしゃる」
「俺からすればお前の態度にこそビックリだわ……ていうか俺、口止めに使えるような物持ってないぞ」
「おや。まあ、兄の自己認識に口を挟むつもりはありませんがね。とりあえず――」
ヤクモが反応する間もなく、ハナは彼の首根っこを掴み、引き寄せ、唇に唇を押し付ける。
貪るようなキス。朝っぱらから、公道の真ん中でやるようなことではない。
遅ればせながら気付いたヤクモが抵抗しようと力をこめかけた時、ハナが空いた方の手を挙げた。
不自然な動きに思わず視線をやって、
「あの、おはよう……」
遠慮がちに会釈する女子と目が合った。
白く長い髪、紅の瞳、モデルのような長身痩躯。ヤクモもハナも見慣れた相手だ。
ハナはそっと唇を離し、
「おはようございますユキ様。本日もご機嫌麗しゅう」
ぺこりと丁寧に礼をした。
「っ、ぁ、おはよう」
「あ、うん、おはよう」
ぎこちない挨拶。不自然な沈黙。
ハナはやれやれと大仰に肩をすくめて、勿論張り付いた無表情のまま、
「兄、ユキ様。発情も結構ですが、あまり日の高い内からおかしな所でおかしなことをなさいませんように」
脚の調子を確かめるように数度跳躍。プリズム・ブルーの髪が蛍火を纏う。
ヤクモとユキがそれに気付いた時にはもう遅い。
「では、おやつもいただいたことですし、私は一足お先に失礼します。どうか遅刻などなさいませんよう」
一礼し、しゅたっと片手を持ち上げて、さほど力んだ風もなく大跳躍。飛行機雲すら後に引き、あっという間に見えなくなると、惚けて見ていた二人の前にぼんやりとした光の幕が浮かぶ。
『本日の標語:交尾は屋根のある場所で』
ヤクモが無言で拳を突き込むと、幕は音もなく砕け散った。
「ゆーぽんさん、しほちーさん。恋とはどんな物でしょう」
昼休み、屋上で。
唐突なハナの言葉に、ユウカとシホリは顔を見合わせた。
ハナが突飛な質問をするのは珍しいことではない。
が、言うに事欠いて恋である。おかしくない質問ということがむしろおかしい。
こんな時シホリはしっかり考えてから口を開くが、ユウカはフィーリングだけを頼りにする。当然、今回もそうだった。
「なになにどーしたのハナったら、どこかの誰かにラブしちゃったの? ヨーデル? ヨーデル?」
ぐいぐい迫るユウカの目は乱乱と輝いているが、シホリは狂人を見る目をしている。ハナは相変わらずの無表情なので、凄いなこの子……とよく分からないところでシホリからの評価が上がっている。
「いえ――そういう訳では、ないのですが」
珍しく歯切れの悪い言葉に、シホリは勿論ユウカまでもが首を傾げる。
どうも、いつものハナじゃないらしい。何か言おうとして叶わず、ユウカはすがるような目でシホリを見た。
片手を広げて待ったのポーズ。質問の道筋を考えて、シホリは漸く口にする。
「ハナちゃん、恋が気になるの?」
肯きが返る。ユウカは「そんなの分かってるだろ」という顔をしたが、ここは焦る所ではない。
「誰かのことが気になってる?」
三拍ほど開けて、ハナは肯く。いつもならなんでも即答する彼女が、だ。
――ありゃ、なんだかマジっぽい?
少し考え、シホリは質問の方向を修正する。
「その人のこと、私達も知ってる?」
今度は途中で肯きが来た。ならばと思ったその時だ。
「あっ、それってハナのおにーさん?」
超絶脳天気な大声が響いた。ゆーぽんのバカ、とシホリは思う。
ユウカは分かっていないようだが、ハナの表情が一気に硬くなった。先程までは力の抜けた無表情だったのに、今はわざと作ったような、抑えた顔だ。
と言うか、三者共通の知り合いなんてハナの兄――ヤクモしかいないのだから、態々確認するようなことではない。
「……あれ? どったの?」
流石に変な空気だと察したのか、ユウカがきょろきょろする。実に気まずい。
シホリは軽く咳払いをして気を取り直す。
「まあそれは良いじゃない。誰だって、ねえ。ほら、ハナちゃん。その人、かっこいい?」
今度は随分間が空いた。ハナは何度か口を開きかけて止め、最終的には肯いた。
かっこいい、らしい。
会ったのは数度だが、シホリはしっかり覚えている。ハナの兄、ヤクモについて――見た目については普通の範囲に入るだろう。男の人にしてはやや背が低いが、引き締まったごつい身体の人だったように思う。
かっこいいかどうかは――まあ、好みによる、と言うべきか。
「どういうところ?」
「私を大事にしてくれるところ、です」
食い気味に言った。どうやらかなりマジらしい。
あの人は、と前置いて。
「いつだって私を大事にするのです。私の奇矯な言動にも一々反応して付き合って下さいますし、間違ったら正してくれますし、何事も丁寧に教えて下さいます。すごく――そう、すごくしっかりと、優しいのです」
唖然という空気が漂った。ハナがここまで沢山喋るのを、ユウカとシホリは見たことがない。
「……おや、どうなさいましたお二人とも。処女が局部を見たような顔をして」
「いやあ、あのおにーさん、シスコンだったんだなあって」
空気が凍った。というか人が折角濁したというのに全然察しも学びもしていなかったのだろうかこの女は、とシホリは睨むがユウカはどこ吹く風である。
「じゃあさじゃあさ、出会い――ってんじゃないか、気になったきっかけとかってどうなのよぅ?」
ずいずいぐいぐい近寄って、ユウカはまるで遠慮しない。流石のハナも少し引き気味である。
「最初は――あ、いえ。当たり障りのない所を話しますと、殴られてキスされて、あの人が居ないと生きて行けない身体にされてしまったと言いますか……」
うっとりと心なしか頬まで染めてそんなことを言うが、聞いている二人はドン引きだ。
「何、あのおにーさんDV男? しかも妹に手を出すって……」
「ていうか『あの人が居ないと生きて行けない身体』って何?! 何事?! 私の知らないオトナのセカイ?!」
二人は囁き声だったつもりだが、ハナはちゃんと聞いていたらしい。無表情の下から焦りの色を覗かせて、
「っそ、そのあの違うんです。あれは私が悪かったと言いますか、私の所為って言いますか――そう、っそうです、普段は優しい人なんです!」
引き具合が増した。もう完全にクロである。DV男と依存症女にしか見えない。
ハナは暫くの間落ち着かない様子でいたが、二人が黙っていると不安そうな顔になってうつむきかける。
「あー……と、その、ハナちゃんさ、お兄さんのこと、どう思う?」
「? 勿論、愛しておりますが」
「恥ずかしくない?」
ハナは釈然としない様子で、
「ああ、知ってますよ。『菊と刀』を読破しましたからね。そう、日本人は立派な行いをした時に恥を覚える、と……!」
おかしな方向に暴走し始めたハナを見て、二人はそっと視線を交わした。今度こそちゃんと意志は伝わる。
即ち、「聞かなかったことにしよう」だ。
仕方無い。シホリもユウカもほんの十五の処女である。二人顔を付き合わせても、こんなヘヴィな恋バナには一言も挟める気がしない。
とりあえず、ヤクモの全く知らないところでヤクモに対する評価がダダ下がりした。合掌。
キスをしないと生きて行けない、というのは、少し正確さを欠く。
アンドロイドであるハナに、所謂『命』というものはない。
ヤクモのキスは動力源の供給で――つまり、キスをしないと止まってしまう。
「……ただいま」
それを十分分かっていても。
家に帰り着いたとき、ベッドに横たわるハナを見ると、ヤクモは一瞬ドキリとする。
死んだように眠っている、のではない。
事実、死体と変わらないのだ。偏軸光体がどうのと聞いた記憶はあるが、機能を止めているハナは全身が石のように硬く冷たい。
――白雪姫、か。
キザな考えに苦笑する。そもそも、その呼び方はユキにこそ相応しいのではなかったか。
そうしてハナにキスをする。
五秒、十秒、三十秒。更に同じだけの時間が経って、
「おはようございます、兄」
「……おはよう、ハナ」
そこはかとない罪悪感に、ヤクモが僅かに視線を逸らす。
「あら、兄。他の女のことを考えながらキスなんて、随分失礼なお話ですよ?」
「っ、なん」
ヤクモが思わず身を引くと、ハナは意地悪い笑みを浮かべた。
「このベッド。ユキ様の臭いがぷんぷんしますもの」
人間の鼻で分かるような物ではない。とは言え、知っている者がいる、というのはヤクモにとってあまり気持ちの良い物ではなかった。
そんな気まずさをごまかすように、ヤクモは極力何気なく口を開いた。
「そういやさ。結局、何で恋なんだ?」
身を起こし、おや、と不思議そうにハナは呟き。
「存じませんか? あるすげーかっこいー人が超絶キメ顔でこう仰ったのですよ。『折角人間の形をしているんだから、人間として生きれば良いだろ』と。いやあ心に響く名言でした。どうです、素敵でしょう」
声マネ、どころではない。しっかり録音していたのだろう、もうはっきりとヤクモの声で言い、わざとらしく首を傾げて見せた。
「……まあ、好きにすりゃ良いよ。俺は夕飯作って来る」
きっと夕日の所為ではなく、赤い顔をして部屋を去ろうとするヤクモを、
「兄」
とハナは呼び止めて。
「寝ても覚めても誰かを想う。素直な言葉が使えない。誰かがいなくちゃ生きて行けない。つまり、恋とはこういう物ですよ」
今度は気分良く、清々しく――笑った。
これだけで可愛く見えるのだから、全くずるい物だと思いつつ、ヤクモはそうかと素っ気なく、今度こそ部屋を出て行くのだった。
2013年6月25日 1時28分編集
誤記の訂正