僕が望んだのは
ごめんね
と、君が呟いたのは聞こえたよ。本当は、聞こえなかったけどわかったよ。ごめんねって、言っただろう君。ごめんなさい、だったかもしれないけど細かいことは気にしないことにするよ、聞こえなかったんだから。
ねぇ、どうして
なにが?僕はおどけてみせたけど、それだってわかってた。でもできればなかったことにしてくれないか。花粉症だってことにしてさ。僕にだってわからないんだ。さっき僕が、心の傷を隠そうと、流れる涙を隠そうと、背中を向けたこと。ただ、君のせいじゃない。それだけはわかっていて。そしてなかったことにして。
君は僕がどこかへ行ってしまうんじゃないかと、デリカシーのない言い方しちゃえば、僕が死ぬために進んでるんじゃないかと心配してるみたいだけど。そんなこと絶対にないよ。
それで、なにをするの?
君の声が震えてる。僕はナイフを持って、今気付いたんだけど少し大きめなナイフを持って、君を見つめていた。
なにをするの、と僕も呟いて、その答えはもちろん出ない。僕のナイフはカタカタと震えて、ということは僕自身もカタカタと震えていたんだけど、僕は信じられない、とそれを見つめていた。
君はなにかを決意したように駆け出した。僕に向かって。そしてプールに飛び込むように、僕に飛び付いた。ぎゅ、とただ抱き締める。僕はうめき声を必死に押さえて、気付けば泣いていた。押し殺した声はか細くもれて、ずいぶんと情けなかった。
だいじょうぶ、だいじょうぶ
君はただそう言って、僕の背中をなでた。君はあまりに小さくて、その腕は僕の背中にきちんと届いていなかったけど。
君には関係ないんだよ。それなのにどうして、そんなに悲しそうに泣いているの。
だいじょうぶ。だいじょうぶだからね…
そうやって言う君の声はどんどん小さくなっていって。
僕は壊れているのかな。壊れているんだよ。もうどうしようもできないんだよ。君がいれば抑えてられるけど、君だってずっと僕のそばにいられやしないだろう?そう言ったら、もしかしたらもう少し乱暴だったかもしれないけど、確かに僕がそのようなことを言ったら、君は少し黙った。
だから、心配なんですよ
君は嘘を吐けないタイプだって知ってるけど、嘘でもずっといっしょにいるって言ってほしかったな。
あたしはあなたのそばにいられないから、だから心配なんです。あたしがいるあいだに、あなたを直さなきゃ
まるで機械を直すような言い方だ。それでも僕は落ち着いて、いつものように微笑った。なかったことにしてくれないかな。君はとても呆れた顔をしたね。そしてもう一度僕を抱き締めた。驚いたことに、君は声をあげて泣いている。
どうして?どうしてそうやって笑うんです?なんにも、なかったことにはできないんですよ───?
その瞬間に、僕はわかった。僕は直りはしないんだ。僕は人間に戻れない。人間の定義とか、難しいことは抜きにするけど、とにかく僕は理解した。それで、僕は君のこと、すごくすごく好きだってこともわかった。好きだよ、好きだよ、好きだよ。でもその言葉は口に出しちゃダメだって知ってたから。僕の心臓がきゅう、と痛んだ。
君はもう、僕の痛みをずいぶん背負っているから、それも早く払いのけてやんないといけない。君は僕に縛られてちゃいけない。
僕は独りで生きていこう。はやく、はやく。君が心配しないように、ちゃんと僕自身を押さえつけて、必死に耐えながら、生きていこう。
最後にキスを、してもいいかな。
どうして、泣くんですか?
泣いてないよ。鼻炎なんだ。
さっきは花粉症って言ってた。
僕は君のおでこにそっと口づけして、心のなかでさよならを言った。誰かが僕の心臓をちぎって嘲笑っているように思えた。それほど痛くて、悔しかった。
それからしばらく経って、僕にはよくわからないけど、大変よろしくないことが起こったらしかった。そしてそれは、僕が起こしたらしかった。
僕の世界が赤く染まって、白くなって?ああぐちゃぐちゃだ、って思って、もうなにも考えられない。
ごめんなさい…!あなたから、逃げるべきじゃなかった…
懐かしい温もりに包まれた。僕の首に回された腕と、そして君の声が聞こえた気がした。
ずっと、いっしょにいるからね
僕が望んだのは、こんなことじゃなかった。