二章 心二つ 一
陵から、眼下の風景を見ていた。
目前に広がるのは、ようやく村としての体裁を整えた集落。そして、真昼の陽光を返して煌めく海。そよぐ風は初夏の陽気の中に涼を運び、一時の心地良さを与えてくれる。
背後には塚が在る。鬼を封じた塚が。その近くには、先日ようやく建て終えた屋敷も在る。吉備から下道へと姓を戻した我が血筋は、これより塚守として、この地に根を下ろすのだ。
「真己様、こちらにおいででしたか」
聞き慣れた声が、背後からかけられた。
だが、その声に振り返る事はない。誰が呼んだのかは分かっている。この年、七十まで生きてきた自分に、ここまで連れ添ってきた妻の一人だ。妻は二人居たが、もう一人は先年に亡くしている。そして、今こうして寄り添う妻も、もう永くはないのだろう。二人の妻は、双子であったのだから。
「風が、心地よいな」
取り留めもなく、そう呟いた。陵の中腹では、十人ほどの童子達が戯れている。姫が六人、彦が四人。その全てが曾孫だ。そして、その傍らで様子を見ている若い娘の姿も見える。
「……真己様、血が……」
そう言われ、知らず、唇を噛み締めている自分に気が付いた。そっと、妻が指先で口元を拭ってくれる。
「菫……菱と共に、これまで良く尽くしてくれた」
傍らで、妻は微かにかぶりを振る。肩下で切りそろえた髪。その見事なまでの白銀が揺れた。
「いいえ、菱と共に、狂狼の魔手より貴方様に救われた命でございます。……それに何より、今も、この先も……お慕いしておりますゆえ」
妻の言葉に、微かな胸の痛みを感じた。
「……済まぬ……」
ただ、そう言うだけしかできない。妻の望みは知っている。その妹の望みも知っていた。来世もまた、縁を結びたいという意志を。
だが、それを叶えてやる事はできそうにない。生有るうちにできなかった事を、来世で叶えなくてはならないのだ。いや、来世でもまだ叶わないだろう。幾たび生まれ変わればそれを成し遂げられるのか。そんな事は予想も付かない。
くすり、と、妻が傍らで笑った。
「分かっております。真己様の御意志は。貴方様の大切な方々。その魂をお救いするために、為さねばならぬ事。下道に嫁いだこの身なれば、重々承知致しております。来世もまた妻になりたいとまでは申しませぬ。ただ……」
――どのような形でも、貴方と縁を結びたい――
そう、言いたかったのだろう。しかし、妻はそこまでを口にはしなかった。
「では、始めるとしよう」
呟くように言って、その場に腰を下ろすと、携えてきた短刀を抜き放つ。陽光を返して煌めく白刃。これで自ら命を絶ち、我が秘術の完成とする。
狩衣の上から切っ先を胸元にあてがい、肋骨の間に少し埋める。赤く滲んだ血が、純白の狩衣を染めていく。
「泰山府君よ! 我が願い聞き届け給え! 我が叔父・湊、湊が妻・瀬速媛、そして我が叔母・朔が魂の安寧のために、今生をこの手により終わらせますれば!」
高らかに宣し、そのまま最後の力を込めて、刃元まで刃を埋めた。焼けるような痛みの中、刃が心の臓に到達する。
傍らから、息を呑む気配を感じた。だが、悪いがそれに気を取られている余裕はない。今はただ想うのだ。意識が途切れるその瞬間まで。
――私は……救いたい。我が父・真仁により狂わされた、大切な人達の魂を――
次第に闇に沈んでいく意識の中、強く強く、それを想った。これより幾代も生まれ変わり、その度に、この意志だけは受け継がれていくように。
霞みゆく視界。最後に目にしたのは、孫達と戯れる娘の姿。先日、我が養女とした者だ。その姿は昔見た時と変わることなく美しい。そして、彼女の面には、救いたかった、だが救い得なかった笑顔が在る。
――救いたい――
その意志を来世に持ち越すのだ。
意識を覆い始めた、
闇の、
その先まで――