一章 鬼塚 六
◆ ◆ ◆
闇の中、心だけが存在していた。
心は何も見る事が出来ない。ただ、昏い闇を感じているだけ。
しかし、その闇の向こう側で、心は自らを呪縛する存在を識っている。
円を描く様に、周囲に安置された五つの石仏と、その中心に据えられた一つの要石。五つの石仏は、星型を描く様に注連縄で結ばれていた。
五行相克。
存在を許さぬその力によって、心は呪縛り付けられている。それは、永い――気が狂いそうになるほど永い、刻の中を。
だが、心は識っている。今更、狂う事など有り得ない事を。
また、心は憶えている。狂ってしまったからこそ、自分はここに在るのだと。
心は、かつて鬼と呼ばれていた。
人を喰らい、血を啜った鬼。
その末に、心はここに封じられた。
――朔――
大切な者の手によって。
――もう、少しだ――
心は今、兆しを感じていた。
星の巡りから識った、今日という日。
怨嗟の如き風の唸りを、心は聞いていた。
◆ ◆ ◆
夜半。雨音と共に風鳴りが水那人の耳に響いていた。
あてがわれた屋敷の一室。そこに敷かれた布団の中で、水那人は胸騒ぎを感じながら天井を見詰めていた。とはいえ、和征が言ったように、鬼塚や土砂崩れを気にしていた訳ではない。気にかけているのは、一人、病院に居る幼馴染みの事だった。
「早矢……大丈夫かな……」
さすがに幼児ではない。嵐に怯える年頃でもないとは思うが、それでもこんな夜は、傍にいてやりたいと思う。
「なんで……こんな事になっちゃったんだろ……」
――早矢の心臓さえ、何ともなかったなら――
そんな想いが胸中を巡る。
早矢の心臓が丈夫だったなら、今頃は、春路を加えた三人で、夏休みの計画を練っていただろうか。と、そう考えた時、ふと、昔の思い出が蘇った。
幼い頃、停電の中で蝋燭の灯火を頼りに、夜を明かした事がある。他愛のない話をして、ふざけあって、いつの間にか眠ってしまい、目を覚ました時には、もう日は高く昇っていた。
そんな関係が、今でも続いていたのだろうか、と、そう思う。出来る事なら、自分の心臓を早矢に与えてやりたい。だが、それは叶わない事だ。ならば、自分の努力で早矢の容態が良くなるのなら、どんな努力も惜しみはしない。
日々、水那人はそう考えている。それは、当たり前に続く筈だったあの刻を、ただそれだけを、再び取り戻したいから。
「叶わない……事なのかな……」
何か、変化が必要なのかも知れない。と、水那人は思い至った。しかし、それがどういう変化であればいいのか。
自身を変えればいいのか。
例えば何に? 医者に?
あるいは、早矢が変わればいいのか。
それはどんな存在に? 人ならざる何かに?
「……馬鹿らしい……」
水那人は独りごちて、自嘲した。人ならざるもの――例えば、化け物にでもなって、早矢が喜ぶとでもいうのか。もしも早矢を助けられるのなら、自身は化け物になっても構わないのだが。
ふと、そんな考えが過ぎり、水那人は溜め息を吐く。懐かしい日々を取り戻したいのならば、自身もまた、重要な存在であるというのに。
「早矢……俺……早矢に、何をしてあげられるんだ……?」
寝返りを打ってそう呟いた時、地を割るかの様な地響きが幾重にも轟いた。
音に弾かれたように、水那人は跳ね起きる。そして、暫し様子を窺うと、そのまま廊下へと飛び出した。
「きゃっ!」
刹那、懐中電灯を持った人影とぶつかりそうになった。
「あっ、ご、ごめん月姉。……それより、何があったの?」
「取り敢えずは停電。父さんと兄さんが見に行ってるから、大人しく待ってましょう」
「大叔母様は?」
「今から様子を見てくるわ。水那人は居間に行って、母さんの手伝いをしてあげて」
「分かった」
水那人は力強く頷くと、居間へと向かった。
今、屋敷の中に男手は水那人だけである。従兄から伯母達を託された責任もある。体良く危険から遠ざけられたのも承知してはいるが、伯父達の身にも何かあれば、その時に動けるのは自分だけだという自負もあった。
居間に集まった水那人と月子、そして伯母は、テーブルを囲んでそれぞれに情報を交換していた。テーブル上には燭台が据えられ、その蝋燭の灯りだけが、三人の顔を照らしている。
大叔母は、何事もなかったかの様に眠っているという。
あの轟音にも目を覚まさなかったとは、いささか悠長な感じもするが、病身の大叔母には、その方がいいと水那人は思った。
ボーン……。
ボーン……。
静寂を破り、それぞれの耳に、午前二時を告げる柱時計の音が響く。
いつまで経っても伯父達の戻ってくる気配はなく、三人は口に出せない不安を、視線で確かめ合っている。
「お父さん達……遅いわねぇ……」
と、不安を言葉にする事で、少しでも軽くしたくなったのだろう。伯母がそう呟いた。
そんな伯母の呟きに、月子が静かに立ち上がる。
「月姉……?」
当惑を乗せた眼差しを、水那人は従姉に向けた。
「ちょっと、裏山だけ見てくるわ」
月子の言葉に、水那人は促されるように立ち上がる。
「だ、だめだよ月姉」
今にも出ていきそうな月子の手を掴み、水那人は言った。
「ちょっと見てくるだけだから、大丈夫よ」
月子は苦笑を見せ、それに対して水那人は眉根を寄せた。ここ一番、というところで、月子はいつも自分を子供扱いする。と、そんな想いが胸中を満たす。
それはありがたい事なのかも知れないが、水那人にとっては悔しい事でもあった。
だったら――
「なら、俺が見てくるからっ!」
水那人は、半ば引ったくる様に月子の手から懐中電灯を奪うと、そのまま廊下へと出た。
その背後から、「じゃあ母さん、私も……」と、月子の声が耳に届く。
「月姉!」
水那人は振り返った。案の定、そこには月子の姿が在る。
「一人より、二人の方が安心。……そうでしょ?」
屈託のない月子の笑みに、水那人は言葉を失った。
信用されていないのか、それとも心配してくれているだけであるのか。恐らく、その両方なのだろう、と水那人は思う。
「じゃ、俺から離れないでよ?」
「頼りにしてるわよ、男の子」
笑顔を見せる月子とは裏腹に、水那人はがっくりと肩を落とした。
悪気がないのは判っているが、男の『子』は余計だと思う。




