七章 魂の因果律 一
小高い丘の上に、鬼が在った。
身に纏うは襤褸となった浄衣。首には紐に通した黒曜石の勾玉が一つ。鮮血のような唇はその端が裂け、禍々しい上下二対の鋭利な牙がはみ出していた。
その眼差しは憎悪と怨念に満ち、相対する者達を睨み付けている。相対するは、浄衣姿の五人の方士達と、長刀を持った十数人の侍だった。鬼に対する者達の目は、殺気でぎらついている。
ただ、方士の一人――吉備真仁の妹である朔の眼差しには、殺気の他に、もう一つ別な感情が宿っていた。
「兄様……」
今にも涙を浮かべそうに眉根を寄せ、朔が鬼に語りかける。
「よせ、朔。こやつはもう、お前の知る者ではない」
右手に結んだ剣印を翳し、鬼を呪縛する真仁は妹に向けてそう言った。
鬼は、真仁の弟の――そして、朔の兄の成れの果てなのだ。
「汝ら……朝廷に与する者共……悉く、滅してくれる……朔。それはお前も……変わらぬぞ……」
口から瘴気を発し、鬼は言った。みしみしと、鬼の身体が軋みをあげる。瘴気は霧となり、一団を包んでいく。
「兄様……もう、私のもとには、戻っては頂けないのですか……」
何事かの気配を、方士達は感じ取っていた。
朔は懐から何枚もの符を取り出し、中空に投げ上げる。次の瞬間、それは数枚ごとに連なり、数本の符剣と化した。
「阿龍!」
刹那、鬼が何かを呼んだ。それは、鬼の眷属の名。
そして、霧が揺らいだと思った瞬間、
「がっ、は……」
侍の一人が呻き声を発した。
気が付くと、方士達を護持していた侍達は、その殆どが霧の中へと消えていた。
呻きは、ただ一人残った侍が発したものだった。
ごりっ……。
ばき……。
ごりっ……。
霧の奥から、まるで何者かが何かを噛み砕くような音が響く。
一人残った侍が、その口許から血を流した。と同時に、侍の周囲の霧が薄まっていく。
「蛟……」
若き方士の口から、恐れを含んだ声が零れた。
朔の瞳にも、恐怖が宿っていく。
侍の下半身は、蛇頭の顎に囚われていた。鬼が呼んだもの。それは蛟と呼ばれる、四肢を持つ大蛇だったのだ。
唐突に、蛟が頭を振った。顎に囚われていた侍が、そのまま下半身から切り離され、方士達めがけて飛んだ。血の軌跡が虚空に線を引く。
「真仁! 朔! 蛟は引き受ける。鬼をやれ! 然羽! 了玄! 二人を護れ!」
仲間の方士の一人が叫び、錫杖で侍の骸を撃ち落とすと、そのまま蛟へと駆けた。
他の方士二人も頷き、それぞれが兄妹の背後で身構える。
「悪鬼めが……悪あがきを!」
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行!」
真仁が剣印で虚空に九字を切る。悪鬼と化した弟の発する瘴気。その結界の中で、得意の識ノ神は使えない。禍々しくとも、祟り神となった弟よりも識ノ神の神格が劣るからだ。そうなれば、頼みは朔の繰剣術と、自身が修した呪縛の法だけとなる。
刹那、鬼の身体が見えない索によって締め上げられていく。
「おお……おおぉぉぉ……」
苦悶とも、怨嗟とも聞こえる声が、鬼の口から漏れ聞こえた。
そして、朔は見た。
兄の成れの果て――その口許が、笑みに歪むのを。
「吽龍!」
再び響いた鬼の声。
それと同時に、兄妹の背後で何かが潰れる音がした。
半ば反射的に朔が振り返る。その頬を、蛟の尾の先が掠めていった。
朔の頬を掠めた尾は、そのまま傍らの兄を弾き飛ばす。
直後、
「あ、ぐっ!」
自由を得た鬼の腕が朔の頸を鷲掴みにしていた。
「……に……い……さ……ま……」
薄れ始める意識の下、少女は呟いた。
霞む視界。
そこにはただ、かつて――いや、今もなお、慕い続ける兄が居る。
朔は、このまま終わるならそれもいい、と思った。狂おしいまでに慕い続けた兄に送られるのならば、それもまた本望だと。
「ひゅっ……」
息が止まった。
朔の周囲を舞っていた符剣が地に落ち、元の符に戻る。
朔は、死を覚悟した。だが、その刹那――朔の身体は、地面に落ちた。




