六章 鬼女が哭く刻 七
「……嘘、よ……」
月子の頬を、伝うものがあった。
いつしか符剣は地に落ち、ただの符に変わっていた。
ざっ、と、呪力の消えた符剣の縛から解放された早矢が、地に降り立つ。
「……でも、戦は凄惨を極めた。朝廷にまつろわぬ……ただそれだけの理由で、繰り返し殺し、仲間を殺され……。そんな不毛な争いに疲れ始めた時――朔が、自分を探すために、方士の一人として戦に加わっている事を湊は知った。そして……湊は、自分を責めたんだ……」
「ぐっ……」
嗚咽を堪える様に、水那人の胸元を、月子は痛いほどに握りしめてくる。
水那人の胸の中で、月子は微かに、しかし何度もかぶりを振った。
「……兄様は……何も悪くないわ……悪いのは、勝手に後を追った私よ……」
「湊は……蝦夷の憎悪に染まっていく仲間達を嫌悪し、同様に蝦夷の血で手を染める自分を呪い、そして、再会した朔までが、仲間と同じような目をしている事に恐怖を感じた。それで、自分さえ朔の前から消えれば……朔が、自分を追うのを諦めれば……朔はまた元に戻るかも知れない、って……そう、思ったんだ……」
月子は、ただ聞いていた。嗚咽に沈んで、水那人の胸元を強く握りしめて。
「湊が鬼に変じ、兄の真仁と朔に封じられた時も……正気を失いながら、朔を殺めるのだけは躊躇った。それは、ずっと自分を責めていたからだ……。朔がセハヤを殺したのも……朔が少しも躊躇わずに、他者の命を奪うようになったのも……全ては、自分のせいなんだって……」
その言葉に、月子はびくりと身を震わせた。
月子の手から、不意に力が抜けていく。
「にい……さま……にい、さま……にいさまぁ……ごめんなさい……ごめんなさいぃ……」
水那人の腕を解くと、月子は、力無くその場に崩れた。
――ああ、そうか――
水那人は、ふと思い至った事があった。自身の中にある、湊という存在。目の前で泣き崩れる月子――いや、朔という名の少女。遠い昔、彼らとどこかで出会っていた事を。
彼らは叔父と叔母。だったような気がする。そして、彼らとの絆を、確かな心の繋がりを、今こうして確信にも似た想いで感じている。誰より彼らを救いたいと、かつての自分は思ったのだ。幾たび生まれ変わったのかは分からない。しかし、その気持ちだけは確かなものとして覚えている。
そして、いま朔は目の前で、自分の過ちに気付いてくれた。その事が、水那人の心にこれ以上ない至福を与えてくれている。それは達成感、あるいは満足感だろうか。まるでこの瞬間に立ち会う為に、幾世代を生きてきたのだとでもいうかのように。
泣きじゃくる朔。その顔が上を向く。涙に濡れた頬を向けて、後悔の念と共に水那人を――湊を見上げている。
そんな彼女が――
「がっ……は……」
不意に、手元の符剣を握り、
その切っ先を、
水那人の喉に突き刺していた。
喉を貫いた、異質な剣の感触。脊髄は傷付けていない。しかし、気道と食道を共に貫き、切っ先が背後へと抜けている。
「ごめんなさい……兄様……私はもう……今更……兄様……ごめんなさい……」
辛そうに、彼女はただ泣いていた。
「ざ……ぐ……ざ……ま」
脳裏に蘇る、その呼び名。
しかし狂気を宿した彼女の耳には、彼女の辛そうな笑みには届かない。そう想った。
「みなとおおぉぉぉっ!」
早矢の叫びが、風を伴って耳に届いた。
旋風が、まるで朔を跳ね飛ばすかの様に、彼女の身体を虚空に追いやる。
「兄様、水那人……いえ、お前は真己なのね……共に黄泉路へ参りましょう。……私は、塚の前で待っておりますから……」
虚空に響くその声は、聞く者の胸を締め付ける様な悲しい色を含んでいた。




