六章 鬼女が哭く刻 六
◆ ◆ ◆
――あとは、頼んだぞ、水那人――
水那人の心に、湊の声が響いた。傷の痛みが薄れていくのと同時に、湊の意志も薄れていくのを感じた。とはいえ、湊という存在が消えていく訳ではない。彼は、眠りについたのだ。
おもむろに、水那人は瞼を開けた。ぼんやりとした視界のまま、立ち上がる。そして、視界がはっきりとした時、水那人は目にした光景に、胸の痛みを感じた。水那人にとって、それは辛い光景だったからだ。
大切な二人の女性が殺し合った末、勝負は既に決していた。早矢の敗北という形で。
初めて目の当たりにする、狂気じみた月子の残忍さ。水那人の接近にも気付かないほど、月子は異常な殺気を早矢に向けていた。
水那人は月子の背後に歩み寄る。
そして、
「ごめん……回復に手間取った」
水那人は、早矢と視線を合わせると、月子の手を引き留めてそう言った。
「兄様……? いや、お前は……水那人……なのか……」
驚愕に彩られながら振り向いた月子の貌。
符剣が早矢の肺を貫く寸前、水那人はその切っ先を早矢の脇腹から引き抜いた。
「月姉……もう、やめてくれよ……湊も、俺の中で悲しんでるから……」
言葉通り、水那人の中では、湊の悲しみが渦巻いていた。
どれだけ歪もうと、朔は湊の妹だ。愛情の形が壊れていようとも、妹が自身を慕ってくるその事自体は、何ら苦にするものでもなかった。
だが――
「放せ!」
刹那、月子は信じられないほどの力で、水那人を振り飛ばしていた。
水那人の身体が後方によろめき、数歩さがったところで、辛うじて体勢を整える。
「兄様の気持ちの何が! 何がお前のような小童に分かる!」
そう叫んだと同時だった。
「……兄様を出しなさい。兄様に、その身を捧げなさい!」
月子は、符剣の切っ先を早矢の喉元に突きつけた。
知らず、水那人の口から溜め息が零れる。なぜこうなってしまったのか。遠因を知りつつも、そんな想いが脳裏を過ぎる。
水那人にとって、月子は優しい従姉だった。それが今は、死を克服した早矢を、改めて殺そうとしている。
――あとは、頼んだぞ、水那人――
ふと、湊の言葉を思い出した。湊から託されたものは、早矢の命と、そして、月子――いや、湊の妹、朔の心。
水那人は月子の目を見据え、口を開いた。
「今すぐには出せない。傷の治癒で、疲れ切って眠ってるから。……だから、俺が託されたんだ。早矢の事を……そして、月姉の事も」
月子の両眼に、鬼気が灯った。
「なら、今すぐここで、この子を殺すだけよ!」
「……そんな事はさせない」
言って、水那人は一歩踏み出した。
「はっ……お前に何が出来るというの? 兄様の様な力もないお前に……」
水那人を迎えたのは、月子の嘲笑だった。
「……そうだよ。何もできはしない。俺には方術は使えない。蛟だって呼べやしない。普通に育てられた、普通の高校生だから……」
「なら、大人しくしてなさい。どうせ、いずれ兄様に呑み込まれて消えるんだから……」
月子の嘲笑が、威圧に彩られていく。
しかし水那人はかぶりを振った。
「残念だけど……呑み込まれはしないよ。俺は、湊と解け合って、それぞれの共通点で繋がってるから。……今の俺は湊だし、今の湊は俺なんだ」
水那人はまた一歩、月子に近づく。
「ふん、何も知らない素人が、戯れ言を……」
月子の言葉に、水那人は再びかぶりを振る。
確かに、呪術に関して水那人は素人に違いない。
だが、湊の記憶が水那人の身の内にある。何も知らない訳ではなかった。
「解け合わない、微かに残った自我の部分だけが二人分残ってるけど……湊は言ってたよ。魂の陰陽の結びつき、それが俺と湊なんだって。そして、一つの魂を形作ってるんだって」
「……馬鹿な……反発もせず、対等に合一したですって……? 常世と現世の、人の魂が……」
月子の貌に、初めて焦りの色が浮いた。
「反発なんて、するはずないさ……俺も、湊も、早矢が……セハヤが好きなんだから……」
「……水那人……」
苦痛に歪む早矢の貌に、微かな笑みが浮かんだ。
「そして……」
水那人は、最後の一歩を歩み、そっと月子の身体を抱き締めた。
「な……何をするの……」
当惑を貌に浮かべ、月子は身じろぐ。
「湊は朔も……俺は月姉も……大切に思ってる。本当だよ……だから……もう……誰も傷付けて欲しくないんだ」
「お前に……お前に何が分かるというの……私には……兄様しかいなかった……。鎮守将軍に従い、戦に赴いたあの背中を追って……その身を案じて、どれだけ心を痛めたか、お前に分かるというの……?」
紡がれた言葉。それを乗せる声は、微かに震えていた。
水那人は月子を抱き締めたままで、両眼を閉じる。
湊の記憶を呼び起こし、その時の気持ちを手繰っていく。
水那人は頷いた。
「……分かるよ。湊も、いつでも朔の身を案じていたから……」




