六章 鬼女が哭く刻 五
――と、思っていた。
その瞬間、早矢は目の前の光景に、初めて恐れを抱いた。
「……お見事……」
くすくすと、愉悦の籠もった笑声が漏れた。
女の頭部は、確かに割れていた。
女の頸も、見事にへし折れていた。
右の眼窩は潰れ、中の眼球がこぼれて落ちる。
カラン、と、乾いた音が響いた。
「……傀儡……」
「……ひどい……言い方……」
早矢の呟きに、女は眉根を寄せて微笑んだ。
そして、
「急急如律令……」
女の呟きと同時に、符剣の一本が落ちた義眼を拾い、そのまま女の頭部を覆う。
直後、一秒も経たずに、巻き付いた符がはらりと落ちた。
その下から現れたものを目の当たりにして、知らず、早矢の眉がひそめられる。
まるで、何事も無かったかの様に――
――女の頭部が、完治していたからだ。
「……良い出来でしょう……? ほら、美しいでしょう……? 永劫に、老いない身体。兄様のために、殿方と契る事も出来るのよ……?」
蠱惑的な軌跡を残し、女は太腿から、自らの身体を撫で上げていく。
その姿に、早矢は寒気がした。
刹那、
「あぐっ!」
激痛が、早矢の右太腿を貫いた。
――しまった――
後悔が、早矢の胸中を満たす。
そんな早矢の胸中を見透かしたかの様に、女は嘲笑を浮かべた。
「あらあら……油断大敵。忘れたの? 私は別に、手に符剣を握っている必要はないのよ?」
「くっ……」
その瞬間、弱った獲物を見つけたハゲワシの群れの様に、符剣が群がってくる。
「そら、そら、そら、さっきまでの威勢はどうしたの?」
体捌きのできない早矢の耳に、勝ち誇った声が響く。
外灯を振るうも、女は常に早矢の間合いの外にいる。
早矢に出来るのは、ただ符剣を外灯で受け止め、弾き、いなすだけ。
じりじりと、早矢は徐々に後退を強いられていく。そして、早矢はついに病院の壁を背にしてしまった。
と、同時に――
「ぎっ! いっ!」
四本の符剣が早矢の両手足を貫き、壁に縫いつけた。
外灯が手から離れ、地響きを立てて重なり倒れた。女は明らかに、早矢を壁際に追い込んでいたのだ。早矢の身を拘束するために。
「く……この、妖め……」
苦痛に顔を歪めながら、早矢は女を睨み付けた。
呪力が効いているのか、早矢がいくら力を込めようとも、符剣はおろか、壁面すらも壊れる気配が無い。
「妖……? お前がそれを言うの?」
女は憎悪を視線に込め、片手で早矢の顎を持ち上げた。
だが、それも一瞬だけのこと。直後には、女は口許を綻ばせた。
「……どう? 磔刑に処された気分は……蝦夷の中にはヘブライ人の血を引いていた者もいたようだから、懐かしい気分なんじゃなくて? ……もっとも、十字架じゃなくて残念かもしれないけれど」
くすくすと、嘲笑が耳に届く。
悔しさに、早矢は歯噛みした。
「このままで衰弱死を待つのも悪くはないけれど……日が昇れば面倒くさい事になるのは目に見えているし、聖書の記述になぞらえて、このままお前の脇腹を刺し貫くのも面白いわね」
言って、女は宙に浮かぶ符剣の一本を手に取った。
「兄様の心を奪った、憎たらしく、おぞましいお前……でも、居なくなるかと思うと、少し寂しい気もするわ……」
女は微笑みを浮かべながら、符剣の切っ先を早矢の左脇腹に当てる。
「ぎっ! あああぁっ!」
悲鳴が辺りに響き渡った。
切っ先が、早矢の脇腹に埋まっていく。
――ごめんなさい……みなと――
早矢が想ったのは、どちらの名だっただろうか。
それは、多分、両方の名だった。
前世の想い人、湊と、
今生の想い人、水那人。
これが運命だというのなら――
また来世に賭けてみよう。
そう思った瞬間、
唐突に、符剣が動きを止めた。
早矢は視線を巡らす。
女の背後に、人影が在った。




