六章 鬼女が哭く刻 二
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漲る力を纏い、春路は跳ね起きた。
刹那、緊張が走る。
春路の視線の先。そこには、朧に映る二つの人影があった。なぜ朧に映るのか。それが、『今生の記憶』から、病院の集中治療室だという事が分かる。分厚いビニールカーテンにより、人影が屈折して見えているのだ。
人影は二人とも女らしい。一人は見知らぬ女。そして、もう一人は遙かな昔に妹だった者。幾度も生まれ変わり、そのつど見守り続けてきた者だ。秋田早矢。それがその者の今生の名。
「兄様の……名を……お前如きが……」
不意に女は手を伸ばし、早矢の髪を鷲掴みにすると、そのまま信じられない力で引き上げていく。女は怒りに我を忘れている様だ。
──やめろ──
胸中を駆け抜けていく危機感の中、春路は立ち上がる。実に久しい感覚──湧き出てくる鬼神の力に身体が振り回され、ふらついてしまう。だが、それでも急速に治癒していく腹の傷を感じながら、寝台の上で身体を屈め、思い切り力を溜めていく。
しかしそんな春路の視線の先で──
女は早矢を、
──やめろ!──
「気安く口にするなああぁぁぁっ!」
壁に叩きつけた。
その直後、春路は弾かれた様に背後の壁を蹴った。
まるで強弓に射られた矢の様に、春路の身体が飛翔する。
ビニールカーテンを突き破り、刹那、春路は、女に強烈な体当たりを喰らわせた。
女の身体が、まるで小石の様に弾かれて、壁に激突した。強固なコンクリートの壁面が、女の身体を中心にして陥没する。普通ならば即死の筈だ。だが、春路──いや、『タケミカヅチ』は識っている。この女が、こんな事くらいでくたばったりはしない事を。
「早矢!」
春路は、従妹の傍らに片膝を突き、その手を取ると、手首に指を当てる。
──脈が──
悲しみと怒り、そして自らに対する憤り。そんなものが胸中を満たしていく。
「……セハヤ……早矢……くそう……俺はまた……」
混じり合い、混沌とする記憶の中で、春路はそう呟いた。
早く何かをしなければ。そう焦る一方で、人を活かす技を何も身に付けていない自分の無力さに気付く。この場で何かが出来る訳ではない。だが、早矢を託せる者が誰かいるとしたなら、それは一人しか思いつかなかった。
──そうか──
春路は思い出す。あの今際の際に自分──タケミカヅチに会いに来てくれた青年を。
「桜、楓、俺はどうしたらいい?」
困惑するただなかで、春路は縋る様に、自問する様にそう呟いた。
刹那、
──外に出て!──
──すぐそばまで来てるから!──
ふと聞こえた、いや、心で感じた二人分の同じ声。
「……そうか」
どういう訳か、安堵出来た。いや、その理由を春路は識っている。かの青年は永い間それを望み、その為に、常に自分と共にセハヤを見守ってきた。
──うん!──
──水那人クンだよ!──
二人の声に弾かれる様に、春路は早矢を抱え上げ、病院の外を目指した。
疾風の様に、廊下を駆け抜ける。傷はまだ治りきっていないが、それでいい。重体から脱すれば、この力も再び消えてしまう。今はそれでは困るのだ。
そして玄関から飛び出した時──
「……お前……」
春路は『それ』を目の当たりにして、唇を噛みしめた。
「……セハヤをよこせ」
そこに居たのは、白装束の禍々しい者。春路が──タケミカヅチが知っている者ではなかった。
ざんばらに乱れた長い髪と、それに半ば覆われた顔。その奥には妖しく光る双眸があり、まるでこの世の全ての怨念を凝縮したかの様だ。
だが、それでもその身体の主が、春路の親友だという事は、すぐに分かった。
「てめぇ……水那人をどうした……」
胸元に抱きかかえる早矢。彼女を抱く腕に力がこもる。
「……水那人か。水那人は、我が取り込んだ」
その一言に、春路の鼓動が早まった。
「てめぇは一体……」
思わず問いかけた。だが、その正体も、春路は薄々感じ取っていた。かつて水那人から聞いた事のある、あの鬼塚の主。そして、タケミカヅチが『青年』から聞いた、セハヤの──
「我は、吉備。吉備湊。そなたが抱く、セハヤヒメの夫だ。さぁ、我が妻を手渡せ!」
「……渡せるか……大事な早矢を……妹のセハヤを……今のてめぇに! ふざけんな! 水那人なら喜んで渡してやる! だがなぁ! 化け物んなっちまったお前なんかに渡せるかよ!」
春路とタケミカヅチ。二人の記憶が拒絶する。
春路もまた、早矢が好きだった。幼い頃は、水那人を勝手に恋敵にして見ていた。いや、それは今もだろうか。しかし、早矢が死を覚悟して、誰をも拒絶した後の水那人の強さを、春路はずっと近くで見てきた。自分にはない強さと、それを持つ水那人。早矢に相応しいのは、一体誰か。そんな事は考えるまでもない。早矢に相応しいのはただ一人、水那人しかいない。
そして、タケミカヅチは、妹セハヤを愛していた。大切に大切に、年の離れた妹の成長を見守ってきた。戦場に出ると言い出した妹を何度も諫め、いずれ誰かに嫁ぐまで、手元に置いておくつもりだった。だが、
幾度も目の当たりにした仲間達の死が、セハヤに『秘術』を求めさせ、戦場に赴かせた。結果、セハヤは大和の方士を夫とし、非業な死を迎えた。タケミカヅチは今も思う。セハヤは、本当に幸せだったのかと。化け物になった、吉備湊の妻となって。
「黙れ!」
不意に、目の前の鬼が吼えた。鬼気を纏った声は、大気を揺るがして波紋の様に広がっていく。
「セハヤの魂が抜け掛けておる! 貴様は妹を見殺しにするのか!」
その一言に、春路は動揺した。苛烈な物言い。しかし、そこには確かに早矢への──セハヤへの愛情が溢れている。
──こんなになってまで……愛してたっていうのかよ──
姿を変えてしまうほどの悲しみ。その深さを、春路は容易に想像出来ない。そして、その悲しみは、明らかにセハヤヒメの死がもたらしたものだ。
と──
「水那……人?」
一瞬、ただの一瞬だけ、春路は鬼の貌が、水那人のものに変わった様な気がした。
穏やかな微笑み。いつもの、優しい水那人の微笑み。そんなものを見た気がした。
「早く渡せ!」
再度の恫喝に、春路は、
「く……そ……」
一歩を踏み出した。
時間はもうない。腹の傷はほどなく重篤状態を脱する。そうなれば、この記憶も、力も消えて無くなるのだ。あの鬼女の事も気がかりだ。これ以上、自分に早矢を護れる力はなく、その力を持っている者は目の前にいる。ならば、どうするかは決まってしまっている。
だが、まだ希望がなくなった訳ではなかった。目の前の、鬼の中に感じた親友の存在。それがある限り──
「早矢を……セハヤを、必ず助け……ろ……」
早矢を鬼に手渡すと、まるで操り人形の糸が切れたかの様に、春路はその場に崩れ落ちた。
一瞬で遠退いていく意識。そのただ中で、
「……承りました。義兄上……」
そんな、穏やかな声が耳に届いた。




