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六章 鬼女が哭く刻 二

    ◆ ◆ ◆


 みなぎる力を纏い、春路は跳ね起きた。

 刹那、緊張が走る。

 春路の視線の先。そこには、おぼろに映る二つの人影があった。なぜ朧に映るのか。それが、『今生の記憶』から、病院の集中治療室だという事が分かる。分厚いビニールカーテンにより、人影が屈折して見えているのだ。

 人影は二人とも女らしい。一人は見知らぬ女。そして、もう一人は遙かな昔に妹だった者。幾度も生まれ変わり、そのつど見守り続けてきた者だ。秋田早矢。それがその者の今生の名。

「兄様の……名を……お前如きが……」

 不意に女は手を伸ばし、早矢の髪を鷲掴みにすると、そのまま信じられない力で引き上げていく。女は怒りに我を忘れている様だ。

──やめろ──

 胸中を駆け抜けていく危機感の中、春路は立ち上がる。実に久しい感覚──湧き出てくる鬼神の力に身体が振り回され、ふらついてしまう。だが、それでも急速に治癒していく腹の傷を感じながら、寝台の上で身体を屈め、思い切り力を溜めていく。

 しかしそんな春路の視線の先で──

 女は早矢を、

──やめろ!──

「気安く口にするなああぁぁぁっ!」

 壁に叩きつけた。

 その直後、春路ははじかれた様に背後の壁を蹴った。

 まるで強弓ごうきゅうに射られた矢の様に、春路の身体が飛翔する。

 ビニールカーテンを突き破り、刹那、春路は、女に強烈な体当たりを喰らわせた。

 女の身体が、まるで小石の様に弾かれて、壁に激突した。強固なコンクリートの壁面が、女の身体を中心にして陥没かんぼつする。普通ならば即死のはずだ。だが、春路──いや、『タケミカヅチ』はっている。この女が、こんな事くらいでくたばったりはしない事を。

「早矢!」

 春路は、従妹の傍らに片膝を突き、その手を取ると、手首に指を当てる。

──脈が──

 悲しみと怒り、そして自らに対するいきどおり。そんなものが胸中を満たしていく。

「……セハヤ……早矢……くそう……俺はまた……」

 混じり合い、混沌とする記憶の中で、春路はそう呟いた。

 早く何かをしなければ。そう焦る一方で、人をかす技を何も身に付けていない自分の無力さに気付く。この場で何かが出来る訳ではない。だが、早矢を託せる者が誰かいるとしたなら、それは一人しか思いつかなかった。

──そうか──

 春路は思い出す。あの今際の際に自分──タケミカヅチに会いに来てくれた青年を。

「桜、楓、俺はどうしたらいい?」

 困惑するただなかで、春路はすがる様に、自問する様にそう呟いた。

 刹那、

──外に出て!──

──すぐそばまで来てるから!──

 ふと聞こえた、いや、心で感じた二人分の同じ声。

「……そうか」

 どういう訳か、安堵出来た。いや、その理由を春路は識っている。かの青年は永い間それを望み、その為に、常に自分と共にセハヤを見守ってきた。

──うん!──

──水那人クンだよ!──

 二人の声に弾かれる様に、春路は早矢を抱え上げ、病院の外を目指した。

 疾風しっぷうの様に、廊下を駆け抜ける。傷はまだ治りきっていないが、それでいい。重体から脱すれば、この力も再び消えてしまう。今はそれでは困るのだ。


 そして玄関から飛び出した時──


「……お前……」

 春路は『それ』を目の当たりにして、唇を噛みしめた。

「……セハヤをよこせ」

 そこに居たのは、白装束の禍々(まがまが)しい者。春路が──タケミカヅチが知っている者ではなかった。

 ざんばらに乱れた長い髪と、それに半ば覆われた顔。その奥にはあやしく光る双眸があり、まるでこの世の全ての怨念を凝縮ぎょうしゅくしたかの様だ。

 だが、それでもその身体の主が、春路の親友だという事は、すぐに分かった。

「てめぇ……水那人をどうした……」

 胸元に抱きかかえる早矢。彼女を抱く腕に力がこもる。

「……水那人か。水那人は、我が取り込んだ」

 その一言に、春路の鼓動が早まった。

「てめぇは一体……」

 思わず問いかけた。だが、その正体も、春路は薄々感じ取っていた。かつて水那人から聞いた事のある、あの鬼塚の主。そして、タケミカヅチが『青年』から聞いた、セハヤの──

「我は、吉備。吉備湊。そなたが抱く、セハヤヒメの夫だ。さぁ、我が妻を手渡せ!」

「……渡せるか……大事な早矢を……妹のセハヤを……今のてめぇに! ふざけんな! 水那人なら喜んで渡してやる! だがなぁ! 化け物んなっちまったお前なんかに渡せるかよ!」

 春路とタケミカヅチ。二人の記憶が拒絶する。

 春路もまた、早矢が好きだった。幼い頃は、水那人を勝手に恋敵こいがたきにして見ていた。いや、それは今もだろうか。しかし、早矢が死を覚悟して、誰をも拒絶した後の水那人の強さを、春路はずっと近くで見てきた。自分にはない強さと、それを持つ水那人。早矢に相応ふさわしいのは、一体誰か。そんな事は考えるまでもない。早矢に相応しいのはただ一人、水那人しかいない。

 そして、タケミカヅチは、妹セハヤを愛していた。大切に大切に、年の離れた妹の成長を見守ってきた。戦場に出ると言い出した妹を何度もいさめ、いずれ誰かに嫁ぐまで、手元に置いておくつもりだった。だが、

 幾度も目の当たりにした仲間達の死が、セハヤに『秘術』を求めさせ、戦場に赴かせた。結果、セハヤは大和の方士を夫とし、非業ひごうな死を迎えた。タケミカヅチは今も思う。セハヤは、本当に幸せだったのかと。化け物になった、吉備湊の妻となって。

「黙れ!」

 不意に、目の前の鬼がえた。鬼気を纏った声は、大気を揺るがして波紋の様に広がっていく。

「セハヤの魂が抜け掛けておる! 貴様は妹を見殺しにするのか!」

 その一言に、春路は動揺した。苛烈かれつな物言い。しかし、そこには確かに早矢への──セハヤへの愛情が溢れている。

──こんなになってまで……愛してたっていうのかよ──

 姿を変えてしまうほどの悲しみ。その深さを、春路は容易に想像出来ない。そして、その悲しみは、明らかにセハヤヒメの死がもたらしたものだ。

 と──

「水那……人?」

 一瞬、ただの一瞬だけ、春路は鬼のかおが、水那人のものに変わった様な気がした。

 穏やかな微笑み。いつもの、優しい水那人の微笑み。そんなものを見た気がした。

「早く渡せ!」

 再度の恫喝どうかつに、春路は、

「く……そ……」

 一歩を踏み出した。

 時間はもうない。腹の傷はほどなく重篤じゅうとく状態を脱する。そうなれば、この記憶も、力も消えて無くなるのだ。あの鬼女の事も気がかりだ。これ以上、自分に早矢を護れる力はなく、その力を持っている者は目の前にいる。ならば、どうするかは決まってしまっている。

 だが、まだ希望がなくなった訳ではなかった。目の前の、鬼の中に感じた親友の存在。それがある限り──

「早矢を……セハヤを、必ず助け……ろ……」

 早矢を鬼に手渡すと、まるで操り人形の糸が切れたかの様に、春路はその場に崩れ落ちた。

 一瞬で遠退いていく意識。そのただ中で、

「……うけたまわりました。義兄上あにうえ……」

 そんな、穏やかな声が耳に届いた。

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