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五章 想い 九

    ◆ ◆ ◆


 夕刻。湊の姿は、多賀城からほど近い山中に在った。

 目の前には清涼な水の湧く泉があり、そしてその底に、無惨な姿のセハヤヒメが沈んでいる。

「うぁ……お……おおぉぉ……」

 どれだけの刻を泣いただろうか。頬を伝う涙は泉に落ち、その度に紅い点が広がり消えていった。

 四肢を切断され、全身の皮をがされ、それでも死ねずに苦しみ抜いたであろうセハヤヒメ。どうしてここまで残忍な事が出来るのか。何の為に。戦の為か。恨みの為か。それはお互い様だ。殺せば恨まれ、殺されれば憎む。だがなぜ、殊更ことさらにセハヤヒメだけがここまで無惨な姿にされなければならなかったのか。

「……さ、く……」

 不意に、その少女の貌が脳裏に浮かぶ。いつでも向けられていた、無垢で愛しい笑顔。か弱く、繊細で、深い傷を持った心。誰よりも大切に見守っていた、湊の妹。

 その貌が、一瞬で鬼のそれに変わる。


 かつてセハヤヒメを捕縛したあの日、多賀城に送る途中、護衛と共に湊を出迎えたのは、妹の朔だった。

 あまりの事に狼狽ろうばいする湊に、朔はそれまでの空白を埋めようと、涙と共に湊の懐に飛び込んできた。

 思わぬ再会に、愛情が身体を動かし、妹の小さな身体を抱き締める。

 だが、

 囚われの姫を取り戻そうと、奇襲を掛けてきた敗残の蝦夷。その鉄棍が湊の腕を掠めた刹那──

 妹が──無垢で純真で、花の様にか弱かったはずの妹が、その蝦夷に向けた無数の刃は、蝦夷を一瞬で細切れにした。

 首をね、胴を両断し、その一瞬で命を奪った朔は、憤怒ふんぬの形相で、その後四半刻、蝦夷の骸を刻み続けた。そして、味方の兵すらも、その姿に息をむ最中──

 ──お怪我はありませんでしたか? 兄様──

 不意に向けられた、今にも泣きそうなかおと、鮮血と脳漿のうしょうに汚れた姿。一転、元の可憐な妹の物腰で、朔は湊の身を案じていた。


 完全に壊れてしまった妹。その存在が、湊は空恐ろしくなった。そんな妹が自分に向けてくる感情も含めて。その時は、裏に兄・真仁がいるとは思わなかったから。

「真……仁……」

 ぎり、と、湊の歯が軋みを上げる。もう、これ以上、人の心を保っていられそうにない。朔がそうだった様に、深い悲しみと絶望が、湊の姿を変えていく。

「うあ……あ……あああぁぁ……」

 刹那、泉の周囲に滞っていたものが、湊の中に入り込んできた。

 これまでの戦で、儚く命を散らした者達の魂。誰にもまつられることなく、しずめられない憎しみと恨み。そして悲しみ。それらが膨大な思念となって、湊の中に渦を巻く。

 苦しくはない。だが、気が狂いそうになるほど、意識が混沌としていく。

 牢獄からの脱走の折に失った片腕が、再生していく。禁呪を使った訳ではない。魂が集まり、仮初めの骨肉となって、腕と成したのだ。

 口の端が裂けた。そして、その口から上下に飛び出す何かがある。身体の変化が痛みとなって、湊をさいなむ。まるでそれは、闇の底でジリジリと燃える残り火に、全身を焼かれているかのようだ。だが、何故かその痛みが心地いい。

 ふと傍らを見る。未だ、湊の中に入りきれない魂達が居る。

「……お前達も、我と来るがいい」

 言って、湊は両手を天高くかざした。

 刹那、魂達が凝集して湊の腕となった様に、二つの巨大な存在に仕上がっていく。それは次第に蛇頭となり、四肢を持った蛇身となった。

 小山の様な二匹のみずち。湊は左手のそれを、

阿龍ありゅう

 右手のそれを、

吽龍うんりゅう

 と呼んだ。

 呼ばれた蛟が、一斉に大気を震わせて咆吼ほうこうする。

 湊はその頭に飛び乗った。

「都へ向かう! 行け!」

 湊の命に従い、蛟が飛翔していく。

 湊は、泉に目をやった。沈むセハヤの骸と、波に歪んだ自身と蛟の影が見える。

 もう、何も考えられなかった。セハヤを殺したのは、朔を含めた陰陽師おんみょうじ達。そして、その背後には真仁が居る。だが、更にその後ろには、大和朝廷があるのだ。

 ならば、

 その全て、

 そのことごとくを──

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