五章 想い 四
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次にセハヤの気が付いた時、そこは森の中だった。
広大なブナの森。
時は既に夕刻となり、清涼な夜気が周囲に注ぎつつある。
「み……な、と……」
憔悴しきった想い人の貌が、セハヤの目の前には在った。
横たわるセハヤの傍らで、湊はセハヤの顔を覗き込んでいる。
「済まぬ……セハヤ、済まぬ……我の落ち度だ……」
どれだけ自分を責めたのだろうか。この人は……。
そう、セハヤは思った。
知るほどに愛しくなる、湊の実直な性格。
「ううん……」
セハヤはかぶりを振った。既に身体に力は入らず、首を動かすのも辛い。しかし、セハヤは否定する事で、愛しい人の苦痛を和らげてやりたかった。
「勾玉より、魄を戻した。なのに何故……治らぬ……」
湊の言葉に、セハヤは納得できた気がした。鬼神の如き十支族とて、血を流せば衰弱する。それが過ぎれば死をも迎える。決して、不死身という訳ではないのだ。だが、この刻まで息が有ったのは、湊がセハヤに魄を戻したからに他ならない。
セハヤは辛い息の中、おもむろに口を開いた。
「心配……いらね……おれなら……大丈夫……だぁ」
このくらいの傷ならば、以前にも受けた事があった。力が戻っているのならば、ほどなく傷は塞がり始める。血を失ったせいで意識はぼやけてはいるが、どうにか生き延びられそうだ。それに、何より湊が傍にいてくれる。身体は辛いが、セハヤはそれだけで癒される思いがした。
「済まぬ……我は呪禁師だ。本来ならば傷を禁じ、身を癒す糧とする事ができるが……しかし、魂魄の均衡が崩れているそなたには……下手に使う事が出来ぬ……」
悔しそうに、湊は言った。
イサクならば理解する事も出来るのだろうが、術の事は、セハヤには良く分からない。
しかし、湊がセハヤの身を大切に思ってくれている事だけは理解できた。だがそれだけに、自分を責め続ける湊を見ているのは辛い。
セハヤは湊を安心させる為に微笑んでみせると、口を開いた。
「湊にも……妹がいたのけ……」
湊の気分を変えられればと、口にした言葉。だが、セハヤは直後に、考え無しに言った事を後悔した。湊の貌が、更に深く曇っていたからだ。
「あのような……あのような、酷薄な娘ではなかった。朔は……」
「……余計な事……訊いてしまったなぁ。ごめん……湊……」
いや、と、湊はかぶりを振った。
「そなたと共に征東軍から抜け出した理由……実は、もう一つあるのだ」
ふう、と息を抜き、湊は生い茂る梢を見上げた。
「我を追って、朔は戦場に来てしまった。……だが、我は朔が人の命を奪う事は望まぬ。ならば……我は、戦場から姿を消すしかないと……そう思ったのだ」
湊の言葉はどこか、他に何かを含む様にセハヤの耳には聞こえた。
しかし、セハヤにはそれを追求するつもりはない。色々と複雑な事情があるのだろうが、湊がセハヤを必要とするなら、いずれ聞ける事だろうと思った。
「おれが……いるから……」
セハヤは、ようやく力が入る様になった右の手を、湊の頬に添えた。無精髭のざらついた感触が、掌に伝わってくる。
「ああ……」
湊はその手を取ると、優しく両の手で握った。
セハヤは安心した。ようやく湊が微笑んでくれたから。
と、不意に、
「ここにおったか」
どこからかかけられた声と、武具の擦れ合う音が辺りに響いた。
刹那、湊は顔を上げ、一点に目を向ける。
「兄……上……」
驚きを含んだ声が、湊の口から零れた。
セハヤもまた、頭をもたげて視線を送る。その先には、大和の兵を率いた、年の頃三十過ぎの方士の姿が在った。
「都にいるはずの貴方が何故……」
握っていた手を離し、湊は立ち上がって身構えた。
「抗うな!」
ただ一喝。それだけで、時が止まった様だった。
セハヤの全身が粟立つ。この男は危険だと、セハヤにもすぐに分かった。
「聞けませぬ! 既に我は大和を捨てた身! 今はこの身に換えても、このセハヤヒメを殺させはしませぬぞ!」
――早く……動ける様にならなければ――
セハヤの中に焦りが生じた。まだ弱々しい身体。この身体がまともに動くのならば、この包囲を脱する事も不可能ではない筈なのに。
「朔は、良く働いてくれておるようだ……」
冷笑と共に微かな満足を浮かべ、方士はセハヤを一瞥する。
ぎり、と、湊の口許から軋みが漏れた。
「……そういう事か……朔をけしかけたのは、兄上……」
「それは違うぞ、湊よ。あれは既に気が触れておる。目の前で蝦夷に母親を嬲り殺しにされ、背の皮を剥がされたというその時からな。我は、朔が望みにほんの少し助力したに過ぎぬ」
「言うな!」
突如、湊が激昂した。
「よもやこのような運びとなるとは思いもよらなかったが、しかし全ては朝廷の意志。従わぬと言うならば……」
「黙れ真仁! ならば押し通るまで!」
そう湊が叫んだ刹那の事だった。方士――吉備真仁の両眼に、妖しい色が浮いた。
その刹那――
真仁の兵四人が、電光の如き速さで、手に持った矛を湊の四肢に突き立てていた。
セハヤには、その速さはまるでセハヤの同族と同等か、それ以上に思えた。真仁の兵は、明らかに尋常なものではない。
「識ノ……神か……」
苦痛に呻きながら湊が漏らした言葉が、その正体を言い当てていた。
「捕らえよ!」
真仁の命で、兵達は一斉に湊とセハヤに群がってくる。
それは、セハヤと湊の運命を決定づけるものだった。




