一章 鬼塚 二
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物静かな三階の白い廊下。その床には、数本の色とりどりのテープが延々と続いている。その中の水色に沿って、水那人は進んでいく。人気のない廊下には、ただ水那人のスリッパの音だけが響いていた。
午陵市立総合病院。それが、この施設の名称である。
水色のテープの先、入院病棟の一角に、水那人の目指す部屋は在る。
ナースステーションの前で軽く会釈をし、更に進んだ廊下の一番奥に、その部屋は在った。二人用の病室でありながらも、入り口の横には、『秋田早矢』と、一人分の名前だけが書かれている。
締め切られたドアを、水那人はノックする。が、いつものように返事はない。返事はないが、彼女はそこに居る。それを水那人は知っている。
「入るよ」
一言それだけを言って、水那人は病室のドアを開けた。
白で統一された室内に、二つ並んだベッド。二つのベッドの間には、二台の医療機器が据えられている。そして、機器の向こう側――窓側のベッドの上に、上体を起こした彼女は居た。
肩下で切りそろえた黒髪を、左右共に頬の横で束ねた小柄な少女だ。
「毎日毎日……飽きずに来るわね」
棘を含んだ声が水那人を出迎えた。
「日課だから……」
苦笑を浮かべつつ、呟く様にそう返す。
そんな水那人の声にも、窓の外を見たまま一瞥もくれない少女。それが、もう一人の水那人の幼馴染みなのだ。
「頼まれてた雑誌、買ってきたよ」
言って、水那人が鞄から紙袋を出すと、少女はようやくその顔を向けた。
白磁の様に白い肌。
細く優美な眉。
薄桃色の唇。
切れ長の眼差しは端がやや上がり、含んだ険は、しかし彼女の典麗さを引き立てている。
秋田早矢。春路と同じ姓の彼女は、春路の従妹でもある。水那人と春路よりも一つ年下の彼女とは、幼い頃、毎日のように三人で遊んでいた。
「要らない」
手土産を一瞥しただけで、突き放すように早矢は言った。紙袋も開けずに、要らないと言う早矢。
「あれ、間違ってた?」
そんな彼女を見ながら、しかし水那人はその表情を変えはしない。それは、慣れてしまった事だからだ。ここ数ヶ月、早矢はずっとこんな態度を水那人に見せているのだ。
「間違うも何も、頼んだ覚えなんかないよ」
「そうだっけ?」
水那人は頬を掻いた。この雑誌が欲しいと、早矢は昨日、確かに言ったはずなのだが。
「そうよ」
再び早矢は、つまらなそうに窓の外を見やる。
そんな彼女の様子に、水那人はいつものように、胸の奥に微かな疼きを感じた。
早矢の視線が捉えている風景は、この九年近く、殆ど変わってはいない。男の子に負けず、活発だった早矢。しかし、長い闘病生活を経た今の彼女に、その頃の面影はない。
小学校に上がった頃、早矢は心臓を患った。今となっては車椅子が必要なほど、弱々しい彼女の心臓。それを治せる医者は、どこにも居なかった。原因不明だというのだ。成長を重ねながらも、早矢の心臓は日々弱っていく。それでも、彼女はこの歳まで生きてきた。最新の医療機器のおかげで。今も早矢の両腕からは様々な管やコードが伸び、傍らの医療機器と繋がっている。
彼女の死期は、傍目にも見えるほど近づきつつあった。
「じゃあ、欲しいも……」
「何も要らない」
水那人の声を遮り、早矢が言う。
「そっか……」
水那人は言葉を無くし、早矢の傍らに円椅子を置いて腰掛けた。
部屋を満たす静寂。水那人の日課がそこには在る。
「ねえ、水那人……」
不意に、早矢が呟いた。その視線は、相変わらず窓の外を見ている。
「なに?」
「欲しいもの……一つだけ、あるよ……分かる?」
早矢は振り向いた。問いかけた早矢は、うっすらと笑みを浮かべていた。それは、いつものように水那人を見下し、からかう笑みではない。何かに耐えるため、作ったものの様な、そんな笑みだった。
「えっと……なんだろう。俺が買えるものなら、買ってくるよ」
そう言って、水那人が微笑んで見せた刹那、
「……帰ってよ」
早矢の顔から笑みが失せ、替わりに険が浮いた。
「あぶっ!」
雑誌の袋に手を伸ばし、早矢はそれを水那人の顔面に叩きつけた。
「帰れ! もう二度と来るなバカ水那人!」
「なっ、ちょっと、ごめん、どうしたのさ早矢っ!」
「帰れっ!」
手近に在る、あらゆる物を投げつける早矢。
水那人は訳の分からぬままに、部屋から追い出される羽目になった。