四章 今は昔 五
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鼻と口を覆う呼吸器具を付けられ、早矢はぼんやりと天井を見詰めていた。
ICU――集中治療室と呼ばれる、危機的状態の患者が管理される特別病室。
そんな場所に、早矢は居た。
「けふっ……」
時折、咳が出る。その度に感じる、まるで、何者かに心臓を鷲掴みにされたかの様な感覚。呼吸は浅く、しかしその間隔は長かった。
看護師が握らせてくれたのだろうか。右の掌に感じる勾玉の感触。ただそれだけが、早矢が感じられる全てだった。
力のない身体。出来るのは、薄ぼんやりとした意識の中で、彼の貌を思い浮かべる事だけ。
「み……な……と……」
程なく尽きようとしている天寿を前に、早矢はその名を呟いた。
何故その名なのか。
父親ではなく、母親でもなく、従兄妹の名ですらなく、何故、血の繋がりのない幼馴染みの名であるのか。
そこまで思索を巡らせ、しかし、その答まで考える事が出来ない。いや、早矢にとって、答などどうでも良かったのかも知れない。一つ、たった一つだけ、答と言える想いが、身の内には在ったから。
早矢は、ただ天井を見詰めていた。既に、死への恐怖はない。麻痺してしまったかの様に、殆どの感情が湧き上がってこない。だが、それでもただ一つ、後悔に近い感情がある。
ほど近い、不帰の旅路への刻。それまでに、彼の顔を一目見る事は、叶わないであろうという事。
浅く、そして長い自らの呼吸の音だけが、早矢の耳には聞こえていた。次第に小さくなっていく、気道を出入りする空気の音。それが聞こえなくなるのと、意識が霧散するのは、どちらが先か。
そんな事を考えた刹那、
――悲……鳴……?――
霞のかかった意識の中に――早矢の耳に、微かに叫び声が届いた様な気がした。
ICUの入口に、視線を送る。
透明だが、屈折率の高いビニールカーテンで仕切られている為、視線の先の様子は容易に窺い知る事はできない。しかし、悲鳴は次第に大きく、複数のものになっていった。
かつかつと、廊下を歩き、近づいてくる靴音。悲鳴に混じり、それは次第に大きくなる。
いや、それは悲鳴を纏っているのか。
「看護師さん、秋田早矢さんの病室は……どこ?」
「ひ……あ……うあ……」
女性の、恐怖に凍り付く声が聞こえた。
気が付けば、室内に当直の看護師の気配がしない。怯えている女性の声は、その看護師の声かも知れなかった。
「……そう。ありがとう。行っていいわ。お仕事ご苦労様」
――私を……探している……誰が……?――
一人分の駆け足の音が遠ざかっていく。
それと同時に、ICUのドアノブが回る気配を感じた。
「……来る必要もなかったかしらね」
はっきりと、女の声が早矢の耳に届いた。
聞いた事もない声。それはまだ若く瑞々しく、しかしそれでいて、老女の様な落ち着きを伴っていた。
ジャッ! と、荒々しくカーテンを引く音が聞こえた。
ICUの中、カーテンはベッドの数と同じだけ配置されている。
ジャッ!
音は次第に、早矢のベッドに近づきつつあった。
そして、早矢が視線を向けている目の前のカーテンの傍に、朧気に歪んだ人影が立った。
その時――
「こっ、こっちです! 早く!」
緊迫した声と、複数の足音が響いた。
「……あらあら、意外と早かったわね」
すぐ傍らから、まるで子供の悪戯に呆れている母親の様な声音が聞こえた。
直後、
「手を挙げなさい!」
上擦った、まだ若い男の声が響いた。
だが、その声に続いたのは、
「なっ……」
驚愕を含んだ呟き。
「挙げたわよ。……次はどうするの?」
嘲弄と、愉悦を含んだ女の声。
かつ、と、一つ靴音が鳴った。
「う、動くな!」
怯えの籠もった言葉が響く。
命令している者は、しかし明らかに圧倒されている様だった。
「およしなさいな」
優しい声と、再度の靴音。
「正義も大義も、この国にはどこにもありはしないわ。……そんな幻想に命を捧げるのは、馬鹿らしいとは思わない?」
かつ、と、三度目の靴音が鳴った。
「う……動くなと言っている!」
恫喝が響きわたる。
だが、靴音は再び鳴った。
刹那、
「ぎっ……」
ごとり、と、重たく硬い、何かの落ちる音が早矢の耳に届いた。
「ぎゃああああっ!」
病室と廊下――いや、あるいは院内全域に、その悲鳴は轟いただろうか。
「あらあら、もう、右手でお箸は持てないわね。……でも、安心なさいな。ここは病院ですもの。まだくっつくかも知れないわよ?」
くすくすと、愉悦を含んだ笑声が漏れ聞こえた。
「……私の、邪魔さえしなければね」
続いた言葉に、早矢は全身が粟立つのを覚えた。
死にかけた身体。
目前の死を受け入れつつある心。
なのに、死ぬ事以上の恐怖が、そこには在った。




