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四章 今は昔 五

    ◆ ◆ ◆


 鼻と口を覆う呼吸器具を付けられ、早矢はぼんやりと天井を見詰めていた。

 ICU――集中治療室と呼ばれる、危機的状態の患者が管理される特別病室。

 そんな場所に、早矢は居た。

「けふっ……」

 時折、咳が出る。その度に感じる、まるで、何者かに心臓を鷲掴みにされたかの様な感覚。呼吸は浅く、しかしその間隔は長かった。

 看護師が握らせてくれたのだろうか。右の掌に感じる勾玉の感触。ただそれだけが、早矢が感じられる全てだった。

 力のない身体。出来るのは、薄ぼんやりとした意識の中で、彼のかおを思い浮かべる事だけ。

「み……な……と……」

 程なく尽きようとしている天寿を前に、早矢はその名を呟いた。

 何故その名なのか。

 父親ではなく、母親でもなく、従兄妹いとこの名ですらなく、何故、血の繋がりのない幼馴染みの名であるのか。

 そこまで思索しさくを巡らせ、しかし、その答まで考える事が出来ない。いや、早矢にとって、答などどうでも良かったのかも知れない。一つ、たった一つだけ、答と言える想いが、身の内には在ったから。

 早矢は、ただ天井を見詰めていた。既に、死への恐怖はない。麻痺してしまったかの様に、ほとんどの感情が湧き上がってこない。だが、それでもただ一つ、後悔に近い感情がある。

 ほど近い、不帰の旅路へのとき。それまでに、彼の顔を一目見る事は、叶わないであろうという事。

 浅く、そして長い自らの呼吸の音だけが、早矢の耳には聞こえていた。次第に小さくなっていく、気道を出入りする空気の音。それが聞こえなくなるのと、意識が霧散するのは、どちらが先か。

 そんな事を考えた刹那、

――悲……鳴……?――

 霞のかかった意識の中に――早矢の耳に、微かに叫び声が届いた様な気がした。

 ICUの入口に、視線を送る。

 透明だが、屈折率の高いビニールカーテンで仕切られている為、視線の先の様子は容易にうかがい知る事はできない。しかし、悲鳴は次第に大きく、複数のものになっていった。

 かつかつと、廊下を歩き、近づいてくる靴音。悲鳴に混じり、それは次第に大きくなる。

 いや、それは悲鳴をまとっているのか。

「看護師さん、秋田早矢さんの病室は……どこ?」

「ひ……あ……うあ……」

 女性の、恐怖に凍り付く声が聞こえた。

 気が付けば、室内に当直の看護師の気配がしない。怯えている女性の声は、その看護師の声かも知れなかった。

「……そう。ありがとう。行っていいわ。お仕事ご苦労様」

――私を……探している……誰が……?――

 一人分の駆け足の音が遠ざかっていく。

 それと同時に、ICUのドアノブが回る気配を感じた。

「……来る必要もなかったかしらね」

 はっきりと、女の声が早矢の耳に届いた。

 聞いた事もない声。それはまだ若く瑞々(みずみず)しく、しかしそれでいて、老女の様な落ち着きを伴っていた。

 ジャッ! と、荒々しくカーテンを引く音が聞こえた。

 ICUの中、カーテンはベッドの数と同じだけ配置されている。

 ジャッ!

 音は次第に、早矢のベッドに近づきつつあった。

 そして、早矢が視線を向けている目の前のカーテンの傍に、朧気おぼろげに歪んだ人影が立った。

 その時――

「こっ、こっちです! 早く!」

 緊迫した声と、複数の足音が響いた。

「……あらあら、意外と早かったわね」

 すぐ傍らから、まるで子供の悪戯に呆れている母親の様な声音が聞こえた。

 直後、

「手を挙げなさい!」

 上擦うわずった、まだ若い男の声が響いた。

 だが、その声に続いたのは、

「なっ……」

 驚愕を含んだ呟き。

「挙げたわよ。……次はどうするの?」

 嘲弄ちょうろうと、愉悦を含んだ女の声。

 かつ、と、一つ靴音が鳴った。

「う、動くな!」

 おびえの籠もった言葉が響く。

 命令している者は、しかし明らかに圧倒されている様だった。

「およしなさいな」

 優しい声と、再度の靴音。

「正義も大義も、この国にはどこにもありはしないわ。……そんな幻想に命を捧げるのは、馬鹿らしいとは思わない?」

 かつ、と、三度目の靴音が鳴った。

「う……動くなと言っている!」

 恫喝どうかつが響きわたる。

 だが、靴音は再び鳴った。

 刹那、

「ぎっ……」

 ごとり、と、重たく硬い、何かの落ちる音が早矢の耳に届いた。

「ぎゃああああっ!」

 病室と廊下――いや、あるいは院内全域に、その悲鳴はとどろいただろうか。

「あらあら、もう、右手でおはしは持てないわね。……でも、安心なさいな。ここは病院ですもの。まだくっつくかも知れないわよ?」

 くすくすと、愉悦を含んだ笑声が漏れ聞こえた。

「……私の、邪魔さえしなければね」

 続いた言葉に、早矢は全身が粟立つのを覚えた。

 死にかけた身体。

 目前の死を受け入れつつある心。

 なのに、死ぬ事以上の恐怖が、そこには在った。

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