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四章 今は昔 三

    ◆ ◆ ◆


 喉元に冷たいものを感じ、湊はうっすらと目を開けた。

 まだ紺色に染まっている空と、微かな暁光ぎょうこうが、視界の半分を満たしている。そして、もう半分には優美な少女の姿が在る。

 気付かず眠っていたのは、余りに迂闊うかつだったと湊は思う。それから、眠りをむさぼるほどに蓄積していた、自身の疲労にも驚いていた。

 喉元にあてがわれているのは、湊が携えていた、一振りの直刃すぐはの短刀である。

 セハヤは湊の胸の上に馬乗りになり、殺意を滲ませていた。

「……なぜ殺さぬ?」

 湊は問うた。

 いや、その問いは、少し間違っているのかも知れない。なぜ『殺さなかった?』と、そう訊くべきだったのかも知れない。

「我は、そなたにとって……蝦夷えみしにとって、かたきに過ぎぬ筈ではないか?」

 何故、あおる様な言葉を吐くのか。それは湊自身、深く理解している事ではなかった。ただ、この少女に殺されるというのも、それもまた一つの結末ではないのか。そう思えたからだ。

 セハヤは無言だった。殺意と、それに反する何かが、彼女の中でせめぎ合っている様に見える。

 そんな折、

「あ……」

 乱れた湊の襟元から何かが落ち、微かなセハヤの驚きが聞こえた。

 刹那、セハヤの顔に、当惑が滲んでいく。

「……なして……なして、おめは……」

 喉元の刃が遠ざかる。と同時に、セハヤの頬を、暁光にきらめく珠が伝い落ちていく。

 湊は手を伸ばし、セハヤの頬を拭いながら口を開いた。

「セハヤ……我と、争いなき地にて暮らさぬか……?」

 そんな言葉に、セハヤの眉が寄せられていく。

「おれ……そんな訳にいかね……」

「我は……そなたを、また争いの中に返したくはない……何より、手放したくはない……」

 湊はセハヤのうなじに手を添えた。長旅で汚れてはいたが、素直で柔らかな髪が、湊の指に絡む。

「お、おれ……そんなの、困る……」

 困惑するセハヤヒメ。その首元を、湊はおもむろに引いていった。

 一度視線が合うと、セハヤはそれを逸らす事が出来ないでいる。二人の顔が近づくにつれ、セハヤの頬が上気していく。

「我は……そなたに……心奪われてしまった……」

 すぐそこまで近づいても、セハヤは魅入られたかの様に、顔を背ける事をしないでいる。

「んっ……」

 湊は、半ば奪う様にセハヤと唇を合わせた。彼女の華奢きゃしゃな身体を、強く強く抱き締めていた。

 セハヤの背からは、いつしか震えが消え失せていった。

 長い口付け。その後に、セハヤは唇を離し、呟いた。

「力……返してけれ……したら、おれも……おめの役さ、立てるから……」

 穏やかに、セハヤは微笑んだ。朝日に照らされた、まばゆいばかりの笑顔。それは、湊が初めて目にするものだ。

 だが、湊はかぶりを振ってみせる。

「……信用……してけれ……おれ、絶対逃げねから……」

 悲しそうに、セハヤは眉根を寄せる。

 湊は苦笑した。

「そうではない……そなたの力は、そなたの身をむしばむ。あのままでは、とても長くは生きられぬ……思い当たる事はないか?」

 湊の言葉に、セハヤは一瞬、瞳を丸くし、そして再び当惑を浮かべた。

「したっけ……おれ……」

「案ずるな……そなたは、我が護る」

 言って、湊は再びセハヤを抱き寄せる。

 が、セハヤは怒った様に眉根を寄せて、おもむろに湊を突き放すと、巾着を拾って湊の眼前に突きつけた。

「そんなら、やせ我慢しねぇで、きちんと食うもん食わねばな?」

「……そうしよう」

 湊が苦笑いを浮かべると、セハヤは再び微笑んだ。

 穏やかな時間の流れが、そこにはあった。

 この時までは――

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