四章 今は昔 三
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喉元に冷たいものを感じ、湊はうっすらと目を開けた。
まだ紺色に染まっている空と、微かな暁光が、視界の半分を満たしている。そして、もう半分には優美な少女の姿が在る。
気付かず眠っていたのは、余りに迂闊だったと湊は思う。それから、眠りを貪るほどに蓄積していた、自身の疲労にも驚いていた。
喉元にあてがわれているのは、湊が携えていた、一振りの直刃の短刀である。
セハヤは湊の胸の上に馬乗りになり、殺意を滲ませていた。
「……なぜ殺さぬ?」
湊は問うた。
いや、その問いは、少し間違っているのかも知れない。なぜ『殺さなかった?』と、そう訊くべきだったのかも知れない。
「我は、そなたにとって……蝦夷にとって、仇に過ぎぬ筈ではないか?」
何故、煽る様な言葉を吐くのか。それは湊自身、深く理解している事ではなかった。ただ、この少女に殺されるというのも、それもまた一つの結末ではないのか。そう思えたからだ。
セハヤは無言だった。殺意と、それに反する何かが、彼女の中でせめぎ合っている様に見える。
そんな折、
「あ……」
乱れた湊の襟元から何かが落ち、微かなセハヤの驚きが聞こえた。
刹那、セハヤの顔に、当惑が滲んでいく。
「……なして……なして、おめは……」
喉元の刃が遠ざかる。と同時に、セハヤの頬を、暁光に煌めく珠が伝い落ちていく。
湊は手を伸ばし、セハヤの頬を拭いながら口を開いた。
「セハヤ……我と、争いなき地にて暮らさぬか……?」
そんな言葉に、セハヤの眉が寄せられていく。
「おれ……そんな訳にいかね……」
「我は……そなたを、また争いの中に返したくはない……何より、手放したくはない……」
湊はセハヤのうなじに手を添えた。長旅で汚れてはいたが、素直で柔らかな髪が、湊の指に絡む。
「お、おれ……そんなの、困る……」
困惑するセハヤヒメ。その首元を、湊はおもむろに引いていった。
一度視線が合うと、セハヤはそれを逸らす事が出来ないでいる。二人の顔が近づくにつれ、セハヤの頬が上気していく。
「我は……そなたに……心奪われてしまった……」
すぐそこまで近づいても、セハヤは魅入られたかの様に、顔を背ける事をしないでいる。
「んっ……」
湊は、半ば奪う様にセハヤと唇を合わせた。彼女の華奢な身体を、強く強く抱き締めていた。
セハヤの背からは、いつしか震えが消え失せていった。
長い口付け。その後に、セハヤは唇を離し、呟いた。
「力……返してけれ……したら、おれも……おめの役さ、立てるから……」
穏やかに、セハヤは微笑んだ。朝日に照らされた、眩いばかりの笑顔。それは、湊が初めて目にするものだ。
だが、湊はかぶりを振ってみせる。
「……信用……してけれ……おれ、絶対逃げねから……」
悲しそうに、セハヤは眉根を寄せる。
湊は苦笑した。
「そうではない……そなたの力は、そなたの身を蝕む。あのままでは、とても長くは生きられぬ……思い当たる事はないか?」
湊の言葉に、セハヤは一瞬、瞳を丸くし、そして再び当惑を浮かべた。
「したっけ……おれ……」
「案ずるな……そなたは、我が護る」
言って、湊は再びセハヤを抱き寄せる。
が、セハヤは怒った様に眉根を寄せて、おもむろに湊を突き放すと、巾着を拾って湊の眼前に突きつけた。
「そんなら、やせ我慢しねぇで、きちんと食うもん食わねばな?」
「……そうしよう」
湊が苦笑いを浮かべると、セハヤは再び微笑んだ。
穏やかな時間の流れが、そこにはあった。
この時までは――




