四章 今は昔 二
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「やめれっ!」
不意に、セハヤは湊の腕を振り解き、全力で突き放す。
疲労と空腹で力も入らず、湊の身体は容易く後ろ手を突いてしまっていた。
「りょ、虜囚だからって、舐めるんでねっ! お、おれに手ぇ出したら、舌噛んで死んでやる!」
セハヤは叫んだ。大和の言葉ではなく、蝦夷の言葉で。その声は、明らかに震えを纏っている。
唐突に、湊は我に返った。湊の視線の先では、両腕で自身を抱くセハヤの姿があった。
セハヤは、睨み付けるその目尻に、涙を浮かべている。
「すっ、済まぬ! そんなつもりではなかったのだ!」
湊は狼狽え、後ずさった。蝦夷の姫から目を逸らす事もできず、かといって真正面から見据える事もできはしない。それは、自らの過ちが足を引いていたからに他ならない。
沈黙が、暫し二人を包んでいた。
山鳩の声と、風が生み出す葉擦れの音だけが、二人の耳に届いている。
セハヤは湊を睨み付け、震えていた。
後悔の念が湊を包む。どうしてあんな事をしてしまったのか、湊にも分からないでいる。
「……本当に、済まぬ。どうかしていた……」
頭を下げる湊に、セハヤの応えは無かった。
言葉もなく、再び沈黙が流れ出す。
……ぐすっ……。
ふと、微かに鼻を鳴らす音が聞こえた。
次いで、深く息を吐く音。
そして、
「……この、じょっぱり」
湊の視線の先に、巾着が放り投げられた。
「力さ出ねえおれにすら突き飛ばされるなんて、情けねえ話だ」
「セハヤ……ヒメ?」
恐る恐る、湊は顔を上げた。
「おめぇ……おれを助けた他の理由……手込めにしてぇからなんでねか?」
睨み付ける様に、セハヤは訊いた。
反射的に、湊は幾度もかぶりを振った。
「決して違う! それはそなたが……」
「おれが……何だ?」
セハヤは詰め寄った。
その澄み切った瞳に浮かぶのは、しかし似つかわしくない昏い疑念だった。彼女の不信感は、明らかに深まっていた。
「くっ……」
湊は言葉に詰まった。先にねじ伏せた筈の気持ちが、再び膨れあがっていく。しかし、それを巧く伝える方法を、湊は知らなかった。
「やっぱり、大和もんは信用できねな」
「分かった! 言う!」
憤然と背けたセハヤの顔を、湊はそう言って再び自身に向けさせた。
「我がそなたを助けたいと思ったのは! そなたがっ、そなたが! あまりに美しかったからだ!」
顔が上気していくのを感じながら、湊は一気に言い放った。
だが、その直後、三度目の沈黙が二人を包んた。
セハヤは、ただ無言で湊の顔を見据えていた。
湊は耐えられず、視線を逸らしてしまう。
――何を動揺しているのだ、我は……我はただ、感じた事を口にしたまで……違うか? ……何という事はない。ただ、一時の気の迷いだ――
心を落ち着けようと、湊は必死に自問し、自答を重ねる。
しかし、そのさなか――
「なっ……あ……う……」
まるで狼狽えている様な、セハヤの声が耳に届いた。
――何?――
ふと気付くと、セハヤもまた、その面を真紅に染め上げていた。だが、見る間にセハヤの眉根が寄せられていく。彼女の貌は、次第に怒れる者のそれに変わっていった。
「かっ、からかうでねぇっ! 馬鹿にすんでねぇっ! そったら事っ……そったら事……」
セハヤの目尻に涙が滲む。明らかにそれは、彼女の悔し涙だった。
不意に、湊は胸が締め付けられる想いがした。それは、自らの言葉が疑われたからだろうか。それとも、セハヤの涙を目の当たりにしたからだろうか。いずれにせよ、湊は口を開くしかなかった。
「からかってなどおらぬ、我は……」
だが、全てを言葉にする事は出来ず、湊は取り繕う様に巾着を拾い、再び懐に仕舞い込んだ。そして立ち上がると、セハヤの傍から離れ、隣の楢の木の根本に腰を降ろす。
湊は両眼を瞑り、これからの事を考えた。争いのない場所。漠然と、そんな場所を望んで旅立った。だが、どこにそんな場所が在るというのか。
セハヤを連れて、彼女の一族に送り届ける事も考えた。しかし、これまで自分が屠った蝦夷達の事や、殺された同胞の事を考えると、冷静でいられる自信も有りはしない。恨みや嘆きは、それを忘れようとする湊の心にも、しっかりと根付いている。何よりセハヤを帰せば、彼女はいずれ再び同胞を殺す事になるだろう。
それが、湊には耐えられなかった。
そこまで思い至った時、
――待て――
ふとした疑問が湊の胸中に湧き起こった。
セハヤを帰す事で、何が自身の責め苦となるのか。
同胞が殺される事か。
――それもある。
だが、何より耐えられないのは――
湊は薄目を開け、セハヤを見た。視線に気付いたか、セハヤは一瞬、湊を睨み付け、顔を背けた。
湊は深く溜め息を吐く。どういう訳か、自身の心が判然としない。セハヤをどうするべきか。セハヤをどうしたいのか。彼女を手放す事が、どうしても考えられない。
――我は……セハヤと、どうなりたいのだ――
「いっそ……海を渡るか……」
セハヤと共に……
胸中で、そう言葉を繋げ、湊は眠りについた。




