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四章 今は昔 二


    ◆ ◆ ◆


「やめれっ!」

 不意に、セハヤは湊の腕を振り解き、全力で突き放す。

 疲労と空腹で力も入らず、湊の身体は容易たやすく後ろ手を突いてしまっていた。

「りょ、虜囚りょしゅうだからって、めるんでねっ! お、おれに手ぇ出したら、舌噛んで死んでやる!」

 セハヤは叫んだ。大和の言葉ではなく、蝦夷の言葉で。その声は、明らかに震えをまとっている。

 唐突に、湊は我に返った。湊の視線の先では、両腕で自身を抱くセハヤの姿があった。

 セハヤは、睨み付けるその目尻に、涙を浮かべている。

「すっ、済まぬ! そんなつもりではなかったのだ!」

 湊は狼狽うろたえ、後ずさった。蝦夷えみしの姫から目を逸らす事もできず、かといって真正面から見据える事もできはしない。それは、自らの過ちが足を引いていたからに他ならない。

 沈黙が、暫し二人を包んでいた。

 山鳩やまばとの声と、風が生み出す葉擦れの音だけが、二人の耳に届いている。

 セハヤは湊をにらみ付け、震えていた。

 後悔の念が湊を包む。どうしてあんな事をしてしまったのか、湊にも分からないでいる。

「……本当に、済まぬ。どうかしていた……」

 頭を下げる湊に、セハヤの応えは無かった。

 言葉もなく、再び沈黙が流れ出す。

 ……ぐすっ……。

 ふと、微かに鼻を鳴らす音が聞こえた。

 次いで、深く息を吐く音。

 そして、

「……この、じょっぱり」

 湊の視線の先に、巾着が放り投げられた。

「力さ出ねえおれにすら突き飛ばされるなんて、情けねえ話だ」

「セハヤ……ヒメ?」

 恐る恐る、湊は顔を上げた。

「おめぇ……おれを助けた他の理由……手込めにしてぇからなんでねか?」

 睨み付ける様に、セハヤは訊いた。

 反射的に、湊は幾度もかぶりを振った。

「決して違う! それはそなたが……」

「おれが……何だ?」

 セハヤは詰め寄った。

 その澄み切った瞳に浮かぶのは、しかし似つかわしくないくらい疑念だった。彼女の不信感は、明らかに深まっていた。

「くっ……」

 湊は言葉に詰まった。先にねじ伏せたはずの気持ちが、再び膨れあがっていく。しかし、それを巧く伝える方法を、湊は知らなかった。

「やっぱり、大和やまともんは信用できねな」

「分かった! 言う!」

 憤然ふんぜんと背けたセハヤの顔を、湊はそう言って再び自身に向けさせた。

「我がそなたを助けたいと思ったのは! そなたがっ、そなたが! あまりに美しかったからだ!」

 顔が上気していくのを感じながら、湊は一気に言い放った。

 だが、その直後、三度目の沈黙が二人を包んた。

 セハヤは、ただ無言で湊の顔を見据えていた。

 湊は耐えられず、視線を逸らしてしまう。

――何を動揺しているのだ、我は……我はただ、感じた事を口にしたまで……違うか? ……何という事はない。ただ、一時の気の迷いだ――

 心を落ち着けようと、湊は必死に自問し、自答を重ねる。

 しかし、そのさなか――

「なっ……あ……う……」

 まるで狼狽えている様な、セハヤの声が耳に届いた。

――何?――

 ふと気付くと、セハヤもまた、その面を真紅に染め上げていた。だが、見る間にセハヤの眉根が寄せられていく。彼女のかおは、次第に怒れる者のそれに変わっていった。

「かっ、からかうでねぇっ! 馬鹿にすんでねぇっ! そったら事っ……そったら事……」

 セハヤの目尻に涙が滲む。明らかにそれは、彼女の悔し涙だった。

 不意に、湊は胸が締め付けられる想いがした。それは、自らの言葉が疑われたからだろうか。それとも、セハヤの涙を目の当たりにしたからだろうか。いずれにせよ、湊は口を開くしかなかった。

「からかってなどおらぬ、我は……」

 だが、全てを言葉にする事は出来ず、湊は取り繕う様に巾着を拾い、再び懐に仕舞い込んだ。そして立ち上がると、セハヤの傍から離れ、隣のならの木の根本に腰を降ろす。

 湊は両眼をつむり、これからの事を考えた。争いのない場所。漠然と、そんな場所を望んで旅立った。だが、どこにそんな場所が在るというのか。

 セハヤを連れて、彼女の一族に送り届ける事も考えた。しかし、これまで自分が屠った蝦夷達の事や、殺された同胞の事を考えると、冷静でいられる自信も有りはしない。恨みや嘆きは、それを忘れようとする湊の心にも、しっかりと根付いている。何よりセハヤを帰せば、彼女はいずれ再び同胞を殺す事になるだろう。

 それが、湊には耐えられなかった。

 そこまで思い至った時、

――待て――

 ふとした疑問が湊の胸中に湧き起こった。

 セハヤを帰す事で、何が自身の責め苦となるのか。

 同胞が殺される事か。

――それもある。

 だが、何より耐えられないのは――

 湊は薄目を開け、セハヤを見た。視線に気付いたか、セハヤは一瞬、湊を睨み付け、顔を背けた。

 湊は深く溜め息を吐く。どういう訳か、自身の心が判然としない。セハヤをどうするべきか。セハヤをどうしたいのか。彼女を手放す事が、どうしても考えられない。

――我は……セハヤと、どうなりたいのだ――

「いっそ……海を渡るか……」

 セハヤと共に……

 胸中で、そう言葉を繋げ、湊は眠りについた。

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