四章 今は昔 一
夕刻の、人の通らぬ山道を、二人の男女が連れ立っていた。
二人共に、土に汚れた姿をしている。
男は既に浄衣とも呼べぬ衣を纏い、女を包む蝦夷の装束も、本来の彩りを失っている。
男は大和朝廷の方士、吉備湊。
そしてもう一人は、蝦夷が一支族の姫、セハヤである。
湊は、セハヤの手を引いていた。
セハヤは当惑しながらも、荒い息を吐きながら獣道を進んでいく。
「……おい、方士、私の力を返せ……」
湊を睨み付けながら、セハヤは言った。
「疲れたか? セハヤヒメ」
頂近くの尾根。そこに立つ杉の古木の根本に、湊はセハヤを促した。
「……身体が重い」
憤然と、セハヤは呟く様に言った。そしてそのまま、木の根本に腰を降ろす。
「身体が重い……か」
湊もまた、セハヤの隣に腰を降ろす。
警戒したのか、セハヤは座ったままで、湊との距離を取った。
「……それで、普通なのだ」
湊は視線をセハヤに向けた。
セハヤは視線を受け、不機嫌も顕わに顔を背ける。
湊は苦笑した。数多の損害を征東軍に与えた娘と、蝦夷の戦士達を数多く屠ってきた自分。対極にある存在が、こうして二人連れ立っている。自ら望んだとは言え、それはあまりに皮肉な事である。
数日前、鎮守府の主、持節征東将軍大伴家持は言った。姫を屠り、見せしめとして亡骸を蝦夷に送れ、と。
将軍大伴家持は、武門に生まれた文人という、相反する皮肉な側面を持っていた。中央の政争に巻き込まれ続けた半生。老齢となった今となっても、望まぬ征東将軍に任じられた。
早く戦を終わらせたい。
非情な決断は、或いは、そんな想いから出たものだったかも知れない。
だが、
――それは妙案にございます――
その時、将軍の傍らにて、笑顔でそう答えた者があった。湊の知らぬ間に戦列に加わっていた、妹の朔である。湊を思い焦がれ、その背を追って、陸奥国にまで朔はやって来た。その小さな手を血で汚し、蝦夷の怨念を一身に受け、そして、いつしか笑顔で、他者を死に導ける者になってしまっていた。
湊の決心は、そんな様子を目の当たりにしたから、だったかも知れない。
その夜、湊は囚われのセハヤヒメを連れ、鎮守府から逃げ出したのだ。
「……ふん、私を謀ろうとしても無駄だ。大和の方士の言葉など、信用できるものか」
顔を背けたままで、セハヤは言う。
湊は苦笑した。セハヤの力を封じ、一つ判った事がある。魂魄の均衡を崩す秘術が存在する事を。道家の法には伝わっていない秘術を、湊はセハヤから感じ取った。
精神を司る魂に対し、肉体を司る魄が肥大し過ぎている。それが、羅刹の如き蝦夷の力の根元だ。陰と陽が調和しなければならないのと同様に、魂と魄も均衡を保たなければならない。その均衡を損なえば、天寿を全うする事はできないのだ。故に――
セハヤの力――肥大した魄の一部を封じた理由の一端には、そんな事実があった。普通の娘でいる事が、セハヤの寿命を保つ。と、突き詰めて言えば、そういう事である。
湊は懐に手を入れ、冷たく固い二つの感触を確かめる。
セハヤの魄を封じた二つの呪物。それは、セハヤが持っていた、琥珀と黒曜石の勾玉だった。
「夕餉にしよう」
湊は懐から、小さな巾着を取り出した。
「少ないが、我慢してくれ。明日になれば、浜に出る。それまでの辛抱だ」
湊は巾着をセハヤに差し出した。
「……お前は……食わぬのか?」
セハヤは当惑の色を浮かべ、巾着を一瞥するとその手に取った。
「我はいい。あと数日ならば、草木の気を取り込んで動く事が出来る」
「便利な男だ……」
嘲る様に苦笑しながら、セハヤは巾着からつまみ出した剥き実の胡桃を、その小さな口に放り込んだ。さりさりと、小気味の良い音が響く。
そんなセハヤの横で、湊は瞑想に入る為、両眼を閉じた。草木の気を取り込んで動くなどという事は、半ば嘘だった。病に罹りそうになった時、草木の力を借りる事はある。だが、身体の活力とする事はない。
腹は減っている。
疲労も溜まってはいる。
しかし、湊以上に疲れているのはセハヤであり、食物を必要としているのも彼女の方であった。
「……なぁ」
不意に、湊を呼ぶセハヤの声が聞こえた。
「なんだ」
「一つ……訊きたい」
珍しい事だと湊は思った。この旅の始め、セハヤには湊に対しての不信感しか無かった筈だ。セハヤから話しかけてくる事など、皆無に等しかった。何かを要求する時以外、彼女から話しかけてくる事はなかったのだ。
「お前は……どうして、私を助けた?」
それは真剣な色を含んだ、夕闇に凛と響く声だった。
その問いの刹那、湊の脳裏に、強烈に蘇る記憶があった。だが、湊は胸中でそれをもみ消し、他の幾つかの理由に思いを馳せる。
「一つは……疲れたからだ。命のやりとりに……」
「……疲れた……?」
不思議そうに、セハヤは問うた。
湊はおもむろに両眼を開くと、セハヤの顔を見据える。
「……屠り屠られ、恨み恨まれ……この戦は、この先も続いていく。その先に……一体、何が残ろうか。果てに残るは、凝り固まった恨みの念……それだけだ。そんなものに、意味などはない……そして、我は無意味な事など続けたくはない」
「……答になっておらぬ……」
セハヤはその秀麗な面に、当惑と憤懣を浮かべていた。夕刻の残光に、はっきりと浮かび上がる色白の面。
思わず、湊の脳裏で先程思い出した光景が重なった。
「……ならば……」
魅入られた様に、湊はセハヤの顔から視線を外す事が出来ずにいる。
知らず、身体が動いた。
「なっ!」
刹那、驚くセハヤの声が木々に木霊していく。
「な……何……を……」
抱き締めた身体は、信じられないほどに華奢だった。
千斤の六尺双棒を振るっていた両腕は、か細く、そして柔らかい。早鐘を打つセハヤの鼓動を、湊は着物を通して感じた。湊の脳裏に、あの鮮烈な記憶が蘇る。
血と脳漿で汚れた姿。
羅刹を想わせつつ、しかし土面の下から現れたのは、可憐な少女の貌。
セハヤという少女が持つ、あまりに隔たった二つの側面。
その大きな隔たりが、一瞬で湊の心を虜にしたのだ。




