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三章 羅刹とその裔 七


    ◆ ◆ ◆


 ぱちぱちと音を立て、爆ぜる護摩壇ごまだんの薪。

 朗々と響く、修法ずほうの文言。

 天蓋には月光に抗い瞬く星々と、時折それらを覆い隠す雲があった。

 そよぐ風に、周囲の木々が枝葉を鳴らし、林間の夜闇はますます色濃い。

 月の光を見詰めながら、水那人は自身の魂が、次第に浸食されていくのを感じていた。気を抜けば、すぐにでも霧散してしまいそうな意識。しかし、だからといって身の内の怨霊は暴れてはいない。ただ、虎視眈々《こしたんたん》と、その刻を待っているに過ぎない。

 水那人を呪縛しばり付けている伯父達の修法は、調伏ちょうぶくの修法であった。それは、魔鬼まきに使えば破魔はまとなり、人に使えば呪殺じゅさつとなる。そして、伯父達の修法は怨霊ではなく、あろう事か水那人を対象としていた。

 額に汗を浮かべ、両手で印を結ぶ伯父と和征。そんな彼らの様子を、笑顔で見詰める者がある。

「つ……き、ね……え……」

 全身全霊をかけ、ただそれだけを呟くのが、水那人にとっては精一杯だった。だが、それでも水那人には、問わねばならない事がある。鬼と呼ばれ、祟り神として祀られてきた怨霊を、塚にて封じ続けていた筈の下道本家。その人達が、なぜ怨霊ではなく、水那人を調伏しようとしているのか。下道月子という本来気の置けない身内が、いま何故ここに、こんな存在として居るのか。それに、怨霊が呟いた、明らかに月子を示す『朔』という言葉。

 月子は水那人を――いや、その中に居る怨霊を『兄様』と呼んだ。今まで聞いた事もない、少女の様な若い女の声で。

「あらあら……」

 月子は、穏やかな微笑みを水那人に向けた。

「まだ意識があるなんて、さすがに下道の血ね。でも、早く諦めてしまいなさいな。苦しむだけよ?」

「な、ぜ……こ、んな……」

 苦しみに耐えながら、水那人は問う。

 だが、月子は感情の見えない微笑みを浮かべ続けるだけだった。

「先日の嵐こそ、私が待ちに待った刻……水那人――貴方という依代よりしろが生まれるまで、幾星霜いくせいそうを重ねた事か。残念だけれど、月子という娘は、この世にはいないのよ。貴方の大叔母、さきの肉体がちた時、私が月子となったのだから」

 一つ一つ、回顧かいこする様に呟く月子。

 水那人は、それで合点がいった。月子と初めて逢ったのは、大叔母が病に倒れてからだ。それ以来、大叔母はいつも衝立の向こう側だった。

 月子という人物を朔が殺したのか、元々存在しない人物だったのか、それは判らない。ただ、水那人にとって、今、目の前に居る女性こそが月子だった。

 失意、

 寂寥せきりょう

 悲しみ。

 そんな感情が、混然と水那人の胸中を満たしていく。

「私は朔――鬼塚に封じられし、吉備湊きびのみなとが妹」

 心から嬉しそうに、月子はようやく微笑みに感情を乗せた。

「はじめから、水那人……貴方あなたの意志が――貴方の魂が、介在する余地などなかったのよ。だから……さっさと消えてしまいなさいな」

 月子は水那人のそばに歩み寄ると、水那人の頬に手を添えた。

「水那人……私が戻ってきた時、貴方は死んで、この身体は兄様になっているの。そうしたら……愛し合いましょう。永遠に……」

 月子は、優しい声で言った。背筋の凍る様な、狂喜を含んだ微笑みと共に。

「ん……」

 その瞬間、水那人は目を丸くした。唐突に、月子が水那人と唇を重ねてきたのだ。

――冷たい――

 水那人は、月子の唇に温もりを感じなかった。それはまるで、作り物であるかの様に。そう感じた時、どこからか、不意に湧き起こる意志があった。

 どこか物悲しく、切なさをまとった意志。

 ただ一つだけ。救いたい――と。

「……さようなら、水那人……そして、またお会い致しましょう、兄様……」

 月子は背を向けた。

「つき……ねぇ……ど……こ、へ……?」

 顔だけを振り向かせ、ふふっ、と、月子は冷笑を浮かべた。

「兄様をまどわせる者を、消しに行くのよ。セハヤヒメの魂を持つ者を……」

 月子が答えた刹那、水那人の意識が消し飛びそうになった。

 焦燥しょうそうと怒り。そんなものが、奥底から吹き出した様な気がした。

「朔! お前はまた、セハヤをあやめようと言うのか!」

 水那人の口が、そんな言葉を口走る。

 同時に、水那人の全身が粟立った。セハヤ、と呟きながら、早矢を抱き締めた記憶が蘇る。いや、それだけではない。ただ一瞬の間に、去来しては消えていくイメージがあった。


 無垢むくな少女を胸に抱き、その成長を見守った日々。それは、その子の母親として。


 お転婆てんばな妹を、背負って家路についた夕暮れ。それは、その子の姉として。


 引っ越した先で出逢った少女。彼女に恋をし、凶刃から彼女をかばったあの夜。


「早矢を殺させるもんか!」

 次の瞬間、水那人自身の感情が増大し、そんな言葉を叫ばせていた。

「ふふっ……元気がいいのは良い事よ。貴方は兄様の依代よりしろなのだから……」

 月子はそう言うと、次第にその姿を薄れさせ、最後にはまるで霧の様に消え去っていった。

 その直後から、水那人の中では、再び怨霊が暴れ始めた。

――真己まなき……いや、今は水那人みなとと言ったか。名の音が同じとは皮肉なものだが……お前の身体をよこせ。お前の幼馴染みを救いたければな――

「そう、し、たら……俺は……ど、うな、る……?」

 必死に抗いながら、水那人は問うた。水那人自身、今の状況を打破する力もなく、何の策も浮かばない。だが、だからと言って、怨念に満ちた存在に、容易く身体を委ねてしまってもいいものなのか。現状を打破した後、身体を取り戻す事は出来るのか。

 不安と、それに対する葛藤かっとうが、水那人の中には生まれていた。

――我に取り込まれ、お前の心は消えて無くなる。言っておくが、逆らっても結果は変わらぬ。ならば、少しでも早い方が良かろう。刻をいっすれば、手遅れとなるぞ――

 怨霊の言葉の正否を、水那人に判じる事はできない。ただ判っている事は、急がなければならないという事だけだ。そして、その時またしても、『救わなければ』という意志が頭に浮かんだ。今度は、その意志の出所が明確に感じられた。それは、自身の魂の奥底からに他ならなかった。

 この世に生まれ出る、そのずっと以前からの意志。水那人には、そんなものの様に感じていた。それはまるで、明らかに自身の意志であるのに、他人のものであるかの様に。

 水那人は狼狽うろたえた。救う。勿論もちろんそのつもりだ。だが、その意志が示す対象は誰だというのか……

 一瞬の躊躇ちゅうちょの後、水那人は口を開いた。まるで、それこそが『救う』事なのだと感じながら。

「わ、かった……怨霊! 俺の身体をくれてやる! その代わり、早矢を必ず助けろ!」

 水那人は、自ら怨霊と合一する事を選んだ。心にあるのは、ただひたすらに救いたいという気持ちだけ。

 刹那、怨霊との合一を想った水那人の意識に、全てが流れ込んできた。

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