三章 羅刹とその裔 七
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ぱちぱちと音を立て、爆ぜる護摩壇の薪。
朗々と響く、修法の文言。
天蓋には月光に抗い瞬く星々と、時折それらを覆い隠す雲があった。
そよぐ風に、周囲の木々が枝葉を鳴らし、林間の夜闇はますます色濃い。
月の光を見詰めながら、水那人は自身の魂が、次第に浸食されていくのを感じていた。気を抜けば、すぐにでも霧散してしまいそうな意識。しかし、だからといって身の内の怨霊は暴れてはいない。ただ、虎視眈々《こしたんたん》と、その刻を待っているに過ぎない。
水那人を呪縛り付けている伯父達の修法は、調伏の修法であった。それは、魔鬼に使えば破魔となり、人に使えば呪殺となる。そして、伯父達の修法は怨霊ではなく、あろう事か水那人を対象としていた。
額に汗を浮かべ、両手で印を結ぶ伯父と和征。そんな彼らの様子を、笑顔で見詰める者がある。
「つ……き、ね……え……」
全身全霊をかけ、ただそれだけを呟くのが、水那人にとっては精一杯だった。だが、それでも水那人には、問わねばならない事がある。鬼と呼ばれ、祟り神として祀られてきた怨霊を、塚にて封じ続けていた筈の下道本家。その人達が、なぜ怨霊ではなく、水那人を調伏しようとしているのか。下道月子という本来気の置けない身内が、いま何故ここに、こんな存在として居るのか。それに、怨霊が呟いた、明らかに月子を示す『朔』という言葉。
月子は水那人を――いや、その中に居る怨霊を『兄様』と呼んだ。今まで聞いた事もない、少女の様な若い女の声で。
「あらあら……」
月子は、穏やかな微笑みを水那人に向けた。
「まだ意識があるなんて、さすがに下道の血ね。でも、早く諦めてしまいなさいな。苦しむだけよ?」
「な、ぜ……こ、んな……」
苦しみに耐えながら、水那人は問う。
だが、月子は感情の見えない微笑みを浮かべ続けるだけだった。
「先日の嵐こそ、私が待ちに待った刻……水那人――貴方という依代が生まれるまで、幾星霜を重ねた事か。残念だけれど、月子という娘は、この世にはいないのよ。貴方の大叔母、咲の肉体が朽ちた時、私が月子となったのだから」
一つ一つ、回顧する様に呟く月子。
水那人は、それで合点がいった。月子と初めて逢ったのは、大叔母が病に倒れてからだ。それ以来、大叔母はいつも衝立の向こう側だった。
月子という人物を朔が殺したのか、元々存在しない人物だったのか、それは判らない。ただ、水那人にとって、今、目の前に居る女性こそが月子だった。
失意、
寂寥、
悲しみ。
そんな感情が、混然と水那人の胸中を満たしていく。
「私は朔――鬼塚に封じられし、吉備湊が妹」
心から嬉しそうに、月子はようやく微笑みに感情を乗せた。
「はじめから、水那人……貴方の意志が――貴方の魂が、介在する余地などなかったのよ。だから……さっさと消えてしまいなさいな」
月子は水那人の傍に歩み寄ると、水那人の頬に手を添えた。
「水那人……私が戻ってきた時、貴方は死んで、この身体は兄様になっているの。そうしたら……愛し合いましょう。永遠に……」
月子は、優しい声で言った。背筋の凍る様な、狂喜を含んだ微笑みと共に。
「ん……」
その瞬間、水那人は目を丸くした。唐突に、月子が水那人と唇を重ねてきたのだ。
――冷たい――
水那人は、月子の唇に温もりを感じなかった。それはまるで、作り物であるかの様に。そう感じた時、どこからか、不意に湧き起こる意志があった。
どこか物悲しく、切なさを纏った意志。
ただ一つだけ。救いたい――と。
「……さようなら、水那人……そして、またお会い致しましょう、兄様……」
月子は背を向けた。
「つき……ねぇ……ど……こ、へ……?」
顔だけを振り向かせ、ふふっ、と、月子は冷笑を浮かべた。
「兄様を惑わせる者を、消しに行くのよ。セハヤヒメの魂を持つ者を……」
月子が答えた刹那、水那人の意識が消し飛びそうになった。
焦燥と怒り。そんなものが、奥底から吹き出した様な気がした。
「朔! お前はまた、セハヤを殺めようと言うのか!」
水那人の口が、そんな言葉を口走る。
同時に、水那人の全身が粟立った。セハヤ、と呟きながら、早矢を抱き締めた記憶が蘇る。いや、それだけではない。ただ一瞬の間に、去来しては消えていくイメージがあった。
無垢な少女を胸に抱き、その成長を見守った日々。それは、その子の母親として。
お転婆な妹を、背負って家路についた夕暮れ。それは、その子の姉として。
引っ越した先で出逢った少女。彼女に恋をし、凶刃から彼女を庇ったあの夜。
「早矢を殺させるもんか!」
次の瞬間、水那人自身の感情が増大し、そんな言葉を叫ばせていた。
「ふふっ……元気がいいのは良い事よ。貴方は兄様の依代なのだから……」
月子はそう言うと、次第にその姿を薄れさせ、最後にはまるで霧の様に消え去っていった。
その直後から、水那人の中では、再び怨霊が暴れ始めた。
――真己……いや、今は水那人と言ったか。名の音が同じとは皮肉なものだが……お前の身体をよこせ。お前の幼馴染みを救いたければな――
「そう、し、たら……俺は……ど、うな、る……?」
必死に抗いながら、水那人は問うた。水那人自身、今の状況を打破する力もなく、何の策も浮かばない。だが、だからと言って、怨念に満ちた存在に、容易く身体を委ねてしまってもいいものなのか。現状を打破した後、身体を取り戻す事は出来るのか。
不安と、それに対する葛藤が、水那人の中には生まれていた。
――我に取り込まれ、お前の心は消えて無くなる。言っておくが、逆らっても結果は変わらぬ。ならば、少しでも早い方が良かろう。刻を逸すれば、手遅れとなるぞ――
怨霊の言葉の正否を、水那人に判じる事はできない。ただ判っている事は、急がなければならないという事だけだ。そして、その時またしても、『救わなければ』という意志が頭に浮かんだ。今度は、その意志の出所が明確に感じられた。それは、自身の魂の奥底からに他ならなかった。
この世に生まれ出る、そのずっと以前からの意志。水那人には、そんなものの様に感じていた。それはまるで、明らかに自身の意志であるのに、他人のものであるかの様に。
水那人は狼狽えた。救う。勿論そのつもりだ。だが、その意志が示す対象は誰だというのか……
一瞬の躊躇の後、水那人は口を開いた。まるで、それこそが『救う』事なのだと感じながら。
「わ、かった……怨霊! 俺の身体をくれてやる! その代わり、早矢を必ず助けろ!」
水那人は、自ら怨霊と合一する事を選んだ。心にあるのは、ただひたすらに救いたいという気持ちだけ。
刹那、怨霊との合一を想った水那人の意識に、全てが流れ込んできた。




