三章 羅刹とその裔 六
◆ ◆ ◆
気が付くと、病院の屋上で、早矢は夜風に身を晒していた。
「……私……?」
早矢は小首を傾げた。
いつ、どうやってここまで来たものか。病室からここまでの記憶がないのだ。
しかし早矢は、
「……ま、いっか……」
そう呟いて、この問題を一蹴した。
今さら夢遊病になろうとも、ほどなく費える命であるなら、さして気にするには値しない。大方、昨日から多くなっている考え事のせいだろうとも思う。
それに、実に久しぶりに、今夜は体調が優れていた。まるで、ごく普通の健康を取り戻したかの様に。それだけに、小さな事に煩わされるのも、何か損な気がした。だが、体調とは裏腹に、早矢の表情は暗い。
「……どうして……今日、来なかったんだろ……約束、したのに……」
ふと零れた呟きに、思わず口を塞ぐ。早矢は自分自身の言葉に驚いていた。
「あは……何言ってんだろ、私……」
思わず早矢は苦笑する。
「きっと、具合悪くて……じゃなくって!」
更に言葉を重ねて、かぶりを振った。
「来ないなら、それでいいじゃない。……そう、望んでたじゃない……」
自らの胸の内に抗う様に、早矢は天蓋を仰いだ。それは、とても俯いてはいられなかったからだ。双眸から溢れ出そうとするものを、押し留めていたかったからだ。
「水那人……なんで、あんな事したのよ……」
抱き締められた時の、あの優しい温もりを、早矢はどうしても忘れられなかった。それはまるで、遠い昔からそれを知っていたかの様な、これまでの人生で一番心安らいだ包容だったから。
「……なんて事……してくれたのよ……」
心の中から切り捨ててしまおうとしていた存在――のはずだった。だが、今となってはもう、そんな事は考えられなくなっている。
「水那人……」
胸を満たすその人の名を、早矢は呟いた。
昨日から、早矢の望みは変わってしまっていた。
残された時間は少ないというのに、大きな苦しみを抱えてしまった。
死への恐怖を、感じる様になってしまった。
「……私の……傍に、いてよ……」
呟くと同時に、早矢の目尻から、熱いものが頬を伝い落ちていく。
キン、と、鋭い音を立てて、琥珀の勾玉が早矢の手から落ちる。身体から力が抜けていく様に、体調が、再び元に戻っていく。早矢は星空を見上げながら、その場にくずおれ、倒れ伏した。
◆ ◆ ◆
夜虫の声が、水那人の耳に届いていた。
まるで浮き上がっていくかの様に、意識が次第に鮮明になっていく。ゆっくりと瞼を開けると、障子を通して、月の光が室内を照らしていた。
長い、夢を見ていた様な気がした。
「あれ……なんだろ……」
ふと、水那人は呟いた。
あれだけ激しく圧迫されていた水那人の心。しかし、今は何の圧力も感じず、爽快なほどに軽かった。
上体を起こし、周囲を見回す。
「ここ……本家なのか……」
呪術家である伯父と従兄が、何かしてくれたのだろうか。そう思い至り、そうとしか考えられない事に水那人は気付いた。
気が付けば、部屋の四隅には、何かを描いた紙片が貼り付けられている。
「……っと……」
ふと喉の渇きを感じ、水那人は床を抜け出した。
気を張りながら、そっと部屋と廊下を仕切る襖を開けると、静まり返った屋敷の中に、居間の柱時計の音が響いた。二度鳴り響く、どこか懐かしい鐘の音。
「……二時……か」
土間の水道で渇きを癒した水那人は、暫くぶりの平穏の中に居た。
水那人が寝ていた部屋だけではない。屋敷そのものが、怨霊を封じる造りになっている様子である。
「そういえば……もう、日が変わったんだっけ」
水那人は居間に入り、テレビの上にあるデジタル時計を手に取ると、文字盤のバックライトを点灯した。
だが、
「……あれ?」
時計の日付が、二日ほど進んでいるのに気付く。
几帳面な伯父の一家である。狂った時計をそのままにする筈もない。
「……丸一日……寝てたのか……」
溜め息を吐き、水那人は障子を開けて再び縁側に出た。
縁側を、ゆっくりと歩く。虫の声しか聞こえない穏やかな静けさの中で、月の光だけが水那人を照らしていた。
ふと立ち止まり、一頻り月を見詰めた。
月は、刻を感じさせない。姿形は変わっても、そこに在り続ける。幾百幾千の刻の中、そこに在り続けて、月はあらゆるモノに何かを伝え続けてきた。
いや、もしかするとそれは、見る人の心を、その人自身に伝えるものなのかも知れない。
水那人はそう思った。
平穏な刻を得れば、考えている事はいつも決まっている。殊に今夜は――
「早矢……どうしてるかな……」
死に魅入られた幼馴染みに、自分は一体何ができるというのか。と、無力感が水那人を苛む。
今の自分では、今以上の事は、彼女に何もしてやれない。何もしてやれないどころか、身に巣くった何かと闘うのに精一杯で、挙げ句、こうして早矢との約束を破ってしまっている。
――けれど――
水那人は、ざわつく心を静める様に一つ深呼吸をした。
「明日……いや、今日は、絶対に行かなきゃな……」
一つ呟いて、今日の夜明けへと思いを馳せた。
早矢は、きっと怒っているだろう。今日もまた、水那人を困らせるネタにするかも知れない。
だがそれでも、水那人は早矢の傍に行きたかった。彼女の傍に、居てやりたかった。少しでも長く、彼女と同じ時間を過ごしたかった。
そこまで思い至った時――
「……そういう……事……なの、かな……」
水那人は唐突に、自身の心に気付いた気がした。
「あ、あれ? いや、ちょっと待てよ? 早矢は幼馴染みなワケで、他の女の子と違って、なんかちょっと知ってる気になってるだけかも知れないし、それに何より、早矢の気持ちだってあるワケで……」
どこか狼狽えながら、水那人は呟いた。早矢への気持ちの整理がつくのには、まだ少々時間がいる。
そんな時――
ふと、廊下の奥に、うっすらと灯りが点っているのに気付いた。
揺らめく淡いオレンジの光。
――大叔母様……?――
蝋燭と思われる光が漏れているのは、大叔母の部屋らしかった。
先程まで、あんな光はなかった筈だと思いながら、水那人は廊下を進んでいく。そして、ほど近くに差し掛かった時、
「みなと……兄様……もう、少しで……貴方は私のもの……」
ふと、そんな呟きを聞いた気がした。
それは、誰の声だろうか。
大叔母ではない若い声。
月子でもない女の声。
刹那、ざわり、と、水那人の全身が粟立つ。
「……朔……」
無意識に、水那人の口からその名が零れたと同時に、自身の中に増大していく感情が在った。
それは、憎しみ。
それは、恨み。
何より、その大元となっているもの。
それが何なのか、水那人は識っている。
ここ数日、水那人が抗っていたもの。結界の張られた屋敷内だというのに、再び水那人の身体を奪おうとして、暴れるモノがある。
「くっ……こ……の……」
勝手に足が動き始める。
大叔母の部屋を目指し、憎悪が身体を突き動かす。そして、水那人は大叔母の部屋へと一歩を踏み入れた。
だが――
「あ……れ……?」
強大な精神的負荷の中、水那人は室内に人影を見る事はなかった。
部屋を仕切っていた衝立が除けられているのにもかかわらず――しかし、水那人は人影に替わるモノを目の当たりにしていた。
――人形か――
心の奥底で、怨霊が呟く。
と同時に、戦慄く心を水那人は感じた。
「ひ、と……がた……」
水那人にも、それに見覚えがある。日本固有の呪術で使う、呪いの紙片だ。人に見立てて、穢れや災厄を払うという。
荒い息を吐きながら、水那人は人形を拾い上げた。中央に一行、何事かを書き付けてある紙片。だが、それをじっくりと見ている間は水那人にはなかった。
「どうしたの? 水那人……」
不意に、誰かの吐息を首筋に感じ、水那人は傍らに視線を移した。
「……月……姉……」
その人を見て、そう呟いた刹那、
「……お前は……朔……か……」
水那人の意志を弾き飛ばし、怨霊が呟いた。
「……ええ、お兄様。お久しぶりです……」
不意に、月子の声色が変わった。
嬉しそうに、月子は穏やかな微笑みを浮かべている。そんな彼女の声は、先に聞いた女の声だった。
「さ、お前達」
月子は、部屋の外に向かって手招きをする。
――なっ……伯父さん達?――
身体の支配権を奪われた水那人は、月子に招かれて入ってきた人物に驚いた。それは、浄衣に身を包んだ、伯父とその息子の和征だった。
そして彼らが虚ろな視線で水那人を見詰めた時、
「うあっ! あ、ぐぅっ!」
刹那、針金で全身をがんじがらめにされたかのように、水那人の身体が動かなくなった。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行……」
右手に剣印を結び、中空に格子を描く和征。それは、九字と呼ばれる呪縛の法であった。
「水那人……今まで御苦労様。あなたの苦しみも、もう少しで終わるわ」
頬を撫でる月子の手。その感触は、しかし水那人にとって、どこか背筋を薄ら寒くさせた。




