三章 羅刹とその裔 五
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気が付くと、病院の屋上で、早矢は夜風に身を晒していた。
「……私……?」
早矢は小首を傾げた。
いつ、どうやってここまで来たものか。病室からここまでの記憶がないのだ。
しかし早矢は、
「……ま、いっか……」
そう呟いて、この問題を一蹴した。
今さら夢遊病になろうとも、ほどなく費える命であるなら、さして気にするには値しない。大方、昨日から多くなっている考え事のせいだろうとも思う。
それに、実に久しぶりに、今夜は体調が優れていた。まるで、ごく普通の健康を取り戻したかの様に。それだけに、小さな事に煩わされるのも、何か損な気がした。だが、体調とは裏腹に、早矢の表情は暗い。
「……どうして……今日、来なかったんだろ……約束、したのに……」
ふと零れた呟きに、思わず口を塞ぐ。早矢は自分自身の言葉に驚いていた。
「あは……何言ってんだろ、私……」
思わず早矢は苦笑する。
「きっと、具合悪くて……じゃなくって!」
更に言葉を重ねて、かぶりを振った。
「来ないなら、それでいいじゃない。……そう、望んでたじゃない……」
自らの胸の内に抗う様に、早矢は天蓋を仰いだ。それは、とても俯いてはいられなかったからだ。双眸から溢れ出そうとするものを、押し留めていたかったからだ。
「水那人……なんで、あんな事したのよ……」
抱き締められた時の、あの優しい温もりを、早矢はどうしても忘れられなかった。それはまるで、遠い昔からそれを知っていたかの様な、これまでの人生で一番心安らいだ包容だったから。
「……なんて事……してくれたのよ……」
心の中から切り捨ててしまおうとしていた存在――のはずだった。だが、今となってはもう、そんな事は考えられなくなっている。
「水那人……」
胸を満たすその人の名を、早矢は呟いた。
昨日から、早矢の望みは変わってしまっていた。
残された時間は少ないというのに、大きな苦しみを抱えてしまった。
死への恐怖を、感じる様になってしまった。
「……私の……傍に、いてよ……」
呟くと同時に、早矢の目尻から、熱いものが頬を伝い落ちていく。
キン、と、鋭い音を立てて、琥珀の勾玉が早矢の手から落ちる。身体から力が抜けていく様に、体調が、再び元に戻っていく。早矢は星空を見上げながら、その場にくずおれ、倒れ伏した。




