三章 羅刹とその裔 二
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それから三年後。
晩春の風が、広大な平原を駆け抜けていった。
丈の高い茅の原が、まるで鮮やかな緑色をした大海の大波の様に揺れ動いていく。
そんな平原を一望できる小高い丘に、湊は立っていた。微かに汚れた浄衣――純白の朝服――に、籠手や脛当など、幾ばくかの武具を身に付けている。
湊の、ほつれた前髪が風になびいた。顎にうっすらと生えた無精髭をさする湊の顔には、表情が見えない。本来、争い事など好まない性格である。ましてや戦など。しかし、それでも湊はこの三年ほどを、戦場で過ごしていた。
それはいつからだっただろうか。いつの間にか、感情というものの一切を、湊は心より切り離している。だが、それでも隠しきれない微かな憂いが、瞳の奥には在った。
湊の視線の先。丘から見えるのは、丈の高い茅の原に伏した友軍の兵士達。そして、相対するは数十の戦士からなる蝦夷の軍勢だった。
「軍師殿、ここにいては危ういのではないか?」
いつの間に、傍に来ていたか。甲冑に身を包んだ武官が、傍らで快活に笑っていた。
「軍師はよしてくれ、重恒殿。我はただの方士に過ぎん……」
武官の名は、橘重恒と言った。一頃、朝廷で政の一翼を担った橘諸兄の眷属である。歳は湊よりも三つほど上だが、この三年、苦楽を共にしてきた仲であった。
「謙遜なさるな、吉備湊殿。五経は元より、兵法、遁甲、方術に通じた大学者にして右大臣であられた、吉備真備様の血筋である貴君を、ただ方士殿とお呼びするのは忍びない。それに実際のところ、儂の軍師でもある訳だしな」
くっくっく、と、湊の傍らで、重恒は底意地の悪い笑みを見せる。
微かに、湊の眉が動いた。
重恒は、湊とは対極に在る様な男である。戦場を好み、武功を重んじる。武人とは、確かにそうしたものではあろうが、しかし湊にはそれが辛かった。
とはいえ、千人の兵を率いる重恒は、その実どうにも憎めない人物でもある。快活で、伍長、隊正はもとより、末端の兵に至るまで慕われている。だが、蝦夷に対する彼は、酷薄で残忍だった。
それは、武勲へのこだわりだけが原因ではない。三年の間に黄泉路を逝った、彼の全ての配下。その魂への手向けと思っている節がある。
ごく簡略に、そして本質を言うのなら、重恒が蝦夷へ向ける感情は、憎悪と怨念に彩られているのだ。
「橘様!」
不意に、重恒の侍が二人、陣形の完成を告げにやって来た。彼らの一人は、背に鼓を携えている。軍勢の統制を取る為に使われる鼓である。
その時、
「かっ……」
報告の言葉を、侍は最後まで告げる事が出来なかった。
侍の眼窩を貫き、頭蓋と兜を貫通して、飛翔し去ったものがあった。
刹那、重恒は直刀を抜き、飛来する殺意を打ち落とす。
重恒の太刀筋と交錯し、中空で落とされた物。それは鷹の矢羽根の矢であった。
「伏せよ湊!」
重恒は、湊を引き倒した。
その頭上を、無数の矢が飛び去っていく。
「羅刹どもめがぁ……」
平原の彼方を睨みつける重恒の眼窩に、深く昏い怨炎が、強く静かに灯った。
うおおおぉぉぉぉぉ……
地の底から湧き起こるかの様に、鬨の声が耳に届く。幾度と無く繰り返されてきた蝦夷との戦端が、開かれた証だった。
湊は視線を平原へと向ける。
千の兵に対するは、たった数十の蝦夷の戦士である。数という要素で、大和の軍は圧倒している筈だった。
だが――
平原の一角が、鮮やかな紅とどす黒い色に染まった。最前列の隊――五十人の兵――が、殺到した半数の蝦夷によって、数瞬で壊滅したのだ。
蝦夷の主な得物は、その尋常ならざる膂力によって振るわれる、鉄鎚や鉄棍などの打撃武器である。元から刃など持たないそれらは、大和の兵の刀刃をへし折り、潰し、武具の上から命を奪う。
「……頼む、湊」
重恒は、傍らで戦況を見据える湊に視線を向けた。
蝦夷と対する時、戦端での劣勢は、既に常の事だった。
幾たびもの征討。
言葉、習俗、崇める神。大和の民とは全てに於いて違う、蝦夷という、まつろわぬ民。
疾風の如き身のこなし。
気は天を貫き、力は山をも砕く。
悪鬼羅刹の如きその力に抗するため、遣唐使はその意義を次第に変えていった。
そして、吉備真備や阿倍仲麻呂などに代表される隋唐派遣使節団によって、大陸よりもたらされた武器や、本格的な方術の知識が、蝦夷を退ける大きな力となった。
しかし、それで良いのか、という思いが、湊の胸中には在る。
蝦夷でなくとも、他者の支配を喜ばないのは人として当然の事。
それに対して、朝廷の、力持つ存在への警戒心と土地への野心が、蝦夷征討の原動力となっている。そして、それを正当化するために、朝廷は蝦夷を見下し、被支配民であるべき卑賤の民と断じた。
人の欲望故の事。善悪を判じるのは無意味に等しい。それは、湊にも判っている。だが、屠り屠られ、互いに憎悪と怨念を膨らませる事に、何の意味があるというのか。
戦の度に、湊はそんな事を考えてしまう。
そう考えるのは、大和人の中でも、あるいは湊だけなのかも知れない。これまでも、ただ感情を伴わずに責務をこなそうと思った事はあった。それは一度だけではない、幾度もだ。だが、自らに流れる血の半分が、それを許してはくれない。湊の血の半分。それを伝えた母は――
くだらない。
殺し憎まれ、殺され憎む事。その全てが。
「何をしておる! 早くしろ! 湊!」
重恒の催促が、叫びとなって耳に届いた。
朝廷に仕える者として、いつまでこんな戦に関わっていなければならないのか。
道家の法を昇華して陰陽道となし、その根幹組織として編成された陰陽寮。
その頭である父、吉備枚雄や、それに次ぐ実力を持つ兄、真仁の推挙により、本来別の組織である筈の典薬寮から、駒の一つとして派遣された自分。
湊は戦の意義を見出せぬまま、揺れる心を抱え続けている。
総勢一万余の征東軍に於いて、方士は自分だけではない。ならば、他の方士はこの戦をどう見ているというのか。常人よりも心の機微に聡く、人の身でありながら、世界の理を一端ながらも垣間見ている者。それが陰陽五行に生きる者だというのなら、この戦を、どう捉えれば良いというのか。
「急急……如……律、令……」
葛藤をねじ伏せながら、湊は右手に剣印を結び、水平に払った。
刹那、
気が風を巻き、平原を駆け抜けていく。
方陣を形作る様に配置された兵達は、そのまま羅刹の如き蝦夷の力を封じる、『封陣』として機能していた。それは相手の力を奪い去る、湊が最も得意とする『禁呪』の応用であり、そしてそれこそが、戦場へと遣わされた最大の理由でもある。
暴風の如き勢いを誇っていた蝦夷の軍勢は、刹那、その勢いを目に見える形で衰えさせた。
「鼓を鳴らせ!」
重恒は立ち上がり、侍に命じた。
と、数回鼓が鳴らされる。それは、反撃の合図だった。
そして、その時点で、既に勝敗は決していた。
元より、数に於いて勝っている大和の軍勢。力を失った蝦夷達は常人の膂力しか持ち合わせず、次々と討ち取られていく。
――我は……また、再び――
立ち上がりながら、湊は戦場を見渡した。
自軍の勝利を目にしながら、湊は苦痛に眉根を寄せる。
と、その傍らで、笑声が漏れ聞こえた。
「くっ……くくく……これで、多賀城の持節征東将軍、大伴家持様に、良い手土産ができた……なぁ、軍師殿」
湊に向けられる、重恒の視線。蝦夷への憎悪と、怨念と、酷薄な愉悦に彩られた瞳。
それから逃げる様に、湊は顔を背けた。
だが、その時――
ばしゃっ!
まるで、瓜を固い地面に叩きつけたかの様な音が、湊の耳に届いた。と同時に、生暖かい液体が、湊の頬を染め上げる。
「おのれ……おのれぇ……そなた達……生かしては帰さぬ……」
くぐもった声。その声のする方に、視線を向ける。




