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三章 羅刹とその裔 二


    ◆ ◆ ◆


 それから三年後。


 晩春ばんしゅんの風が、広大な平原を駆け抜けていった。

 丈の高いかやの原が、まるで鮮やかな緑色をした大海の大波の様に揺れ動いていく。

 そんな平原を一望できる小高い丘に、湊は立っていた。微かに汚れた浄衣――純白の朝服――に、籠手や脛当すねあてなど、幾ばくかの武具を身に付けている。

 湊の、ほつれた前髪が風になびいた。顎にうっすらと生えた無精髭ぶしょうひげをさする湊の顔には、表情が見えない。本来、争い事など好まない性格である。ましてや戦など。しかし、それでも湊はこの三年ほどを、戦場で過ごしていた。

 それはいつからだっただろうか。いつの間にか、感情というものの一切を、湊は心より切り離している。だが、それでも隠しきれない微かな憂いが、瞳の奥には在った。

 湊の視線の先。丘から見えるのは、丈の高い茅の原にした友軍の兵士達。そして、相対するは数十の戦士からなる蝦夷えみしの軍勢だった。

「軍師殿、ここにいては危ういのではないか?」

 いつの間に、そばに来ていたか。甲冑かっちゅうに身を包んだ武官が、傍らで快活に笑っていた。

「軍師はよしてくれ、重恒しげつね殿。我はただの方士に過ぎん……」

 武官の名は、橘重恒たちばなのしげつねと言った。ひところ、朝廷でまつりごとの一翼を担った橘諸兄たちばなのもろえの眷属である。歳は湊よりも三つほど上だが、この三年、苦楽を共にしてきた仲であった。

謙遜けんそんなさるな、吉備湊殿。五経ごきょうは元より、兵法、遁甲とんこう、方術に通じた大学者にして右大臣であられた、吉備真備様の血筋である貴君を、ただ方士殿ほうじどのとお呼びするのは忍びない。それに実際のところ、わしの軍師でもある訳だしな」

 くっくっく、と、湊の傍らで、重恒は底意地の悪い笑みを見せる。

 微かに、湊の眉が動いた。

 重恒は、湊とは対極に在る様な男である。戦場を好み、武功を重んじる。武人とは、確かにそうしたものではあろうが、しかし湊にはそれが辛かった。

 とはいえ、千人の兵を率いる重恒は、その実どうにも憎めない人物でもある。快活で、伍長、隊正たいせいはもとより、末端の兵に至るまで慕われている。だが、蝦夷えみしに対する彼は、酷薄で残忍だった。

 それは、武勲ぶくんへのこだわりだけが原因ではない。三年の間に黄泉路よみじを逝った、彼の全ての配下。その魂への手向けと思っている節がある。

 ごく簡略に、そして本質を言うのなら、重恒が蝦夷へ向ける感情は、憎悪と怨念にいろどられているのだ。

「橘様!」

 不意に、重恒のさむらいが二人、陣形の完成を告げにやって来た。彼らの一人は、背につづみを携えている。軍勢の統制を取る為に使われる鼓である。

 その時、

「かっ……」

 報告の言葉を、侍は最後まで告げる事が出来なかった。

 侍の眼窩がんかを貫き、頭蓋と兜を貫通して、飛翔し去ったものがあった。

 刹那、重恒は直刀を抜き、飛来する殺意を打ち落とす。

 重恒の太刀筋と交錯し、中空で落とされた物。それは鷹の矢羽根の矢であった。

「伏せよ湊!」

 重恒は、湊を引き倒した。

 その頭上を、無数の矢が飛び去っていく。

羅刹らせつどもめがぁ……」

 平原の彼方をにらみつける重恒の眼窩に、深くくらい怨炎が、強く静かにともった。

 うおおおぉぉぉぉぉ……

 地の底から湧き起こるかの様に、ときの声が耳に届く。幾度と無く繰り返されてきた蝦夷えみしとの戦端が、開かれた証だった。

 湊は視線を平原へと向ける。

 千の兵に対するは、たった数十の蝦夷えみしの戦士である。数という要素で、大和の軍は圧倒しているはずだった。

 だが――

 平原の一角が、鮮やかな紅とどす黒い色に染まった。最前列のたい――五十人の兵――が、殺到した半数の蝦夷によって、数瞬で壊滅したのだ。

 蝦夷の主な得物えものは、その尋常じんじょうならざる膂力りょりょくによって振るわれる、鉄鎚や鉄棍てっこんなどの打撃武器である。元から刃など持たないそれらは、大和の兵の刀刃とうじんをへし折り、潰し、武具の上から命を奪う。

「……頼む、湊」

 重恒は、傍らで戦況を見据える湊に視線を向けた。

 蝦夷えみしと対する時、戦端での劣勢れっせいは、既に常の事だった。

 幾たびもの征討。

 言葉、習俗、あがめる神。大和の民とは全てにいて違う、蝦夷という、まつろわぬ民。

 疾風のごとき身のこなし。

 気は天を貫き、力は山をも砕く。

 悪鬼羅刹あっきらせつの如きその力に抗するため、遣唐使はその意義を次第に変えていった。

 そして、吉備真備や阿倍仲麻呂あべのなかまろなどに代表される隋唐派遣使節団ずいとうはけんしせつだんによって、大陸よりもたらされた武器や、本格的な方術の知識が、蝦夷を退ける大きな力となった。

 しかし、それで良いのか、という思いが、湊の胸中には在る。

 蝦夷でなくとも、他者の支配を喜ばないのは人として当然の事。

 それに対して、朝廷の、力持つ存在への警戒心と土地への野心が、蝦夷征討の原動力となっている。そして、それを正当化するために、朝廷は蝦夷を見下し、被支配民であるべき卑賤ひせんの民と断じた。

 人の欲望故の事。善悪をはんじるのは無意味に等しい。それは、湊にも判っている。だが、ほふり屠られ、互いに憎悪と怨念を膨らませる事に、何の意味があるというのか。

 戦の度に、湊はそんな事を考えてしまう。

 そう考えるのは、大和人やまとびとの中でも、あるいは湊だけなのかも知れない。これまでも、ただ感情を伴わずに責務をこなそうと思った事はあった。それは一度だけではない、幾度もだ。だが、自らに流れる血の半分が、それを許してはくれない。湊の血の半分。それを伝えた母は――

 くだらない。

 殺し憎まれ、殺され憎む事。その全てが。

「何をしておる! 早くしろ! 湊!」

 重恒の催促さいそくが、叫びとなって耳に届いた。

 朝廷に仕える者として、いつまでこんな戦に関わっていなければならないのか。

 道家の法を昇華しょうかして陰陽道となし、その根幹組織として編成された陰陽寮。

 そのかみである父、吉備枚雄きびのひらおや、それに次ぐ実力を持つ兄、真仁の推挙すいきょにより、本来別の組織である筈の典薬寮てんやくりょうから、駒の一つとして派遣された自分。

 湊は戦の意義を見出せぬまま、揺れる心を抱え続けている。

 総勢一万余の征東軍にいて、方士は自分だけではない。ならば、他の方士はこの戦をどう見ているというのか。常人よりも心の機微にさとく、人の身でありながら、世界のことわりを一端ながらも垣間見かいまみている者。それが陰陽五行いんようごぎょうに生きる者だというのなら、この戦を、どうとらえれば良いというのか。

「急急……如……律、令……」

 葛藤かっとうをねじ伏せながら、湊は右手に剣印けんいんを結び、水平に払った。

 刹那、

 気が風を巻き、平原を駆け抜けていく。

 方陣ほうじんを形作る様に配置された兵達は、そのまま羅刹の如き蝦夷の力を封じる、『封陣ほうじん』として機能していた。それは相手の力を奪い去る、湊が最も得意とする『禁呪きんじゅ』の応用であり、そしてそれこそが、戦場へと遣わされた最大の理由でもある。

 暴風の如き勢いを誇っていた蝦夷えみしの軍勢は、刹那、その勢いを目に見える形で衰えさせた。

つづみを鳴らせ!」

 重恒は立ち上がり、侍に命じた。

 と、数回鼓が鳴らされる。それは、反撃の合図だった。

 そして、その時点で、すでに勝敗は決していた。

 元より、数にいて勝っている大和の軍勢。力を失った蝦夷達は常人の膂力りょりょくしか持ち合わせず、次々とち取られていく。

――我は……また、再び――

 立ち上がりながら、湊は戦場を見渡した。

 自軍の勝利を目にしながら、湊は苦痛に眉根を寄せる。

 と、その傍らで、笑声が漏れ聞こえた。

「くっ……くくく……これで、多賀城の持節じせつ征東将軍、大伴家持おおとものやかもち様に、良い手土産ができた……なぁ、軍師殿」

 湊に向けられる、重恒の視線。蝦夷えみしへの憎悪と、怨念と、酷薄な愉悦ゆえつに彩られた瞳。

 それから逃げる様に、湊は顔を背けた。

 だが、その時――

 ばしゃっ!

 まるで、うりを固い地面に叩きつけたかの様な音が、湊の耳に届いた。と同時に、生暖かい液体が、湊の頬を染め上げる。

「おのれ……おのれぇ……そなた達……生かしては帰さぬ……」

 くぐもった声。その声のする方に、視線を向ける。

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