三章 羅刹とその裔 一
早朝から、蜩の声が凛として響いていた。
花の匂いを運ぶは微かな風。
東大寺の境内にて、晩夏の朝を朝霧が彩っている。
旅人を送るに、三人の者達が居た。
一人は若き学僧。
一人は年端もいかぬ少年。
そして、また一人は旅する者の妹であった。
「それでは、行って参ります」
旅する者―――青年は言った。
送られる者は、顎に無精髭を生やした面相ではあるが、まだ若い。優しげなその瞳には微かな憂いが浮かび、しかし、抗えぬ運命を受け入れてもいる。
芦の笠と浄衣の旅装。青年は、大和朝廷の律令の許で、典薬寮に属する呪禁師だった。名は湊という。大学者、吉備真備の孫である。
吉備真備は遣唐使として唐に渡り、あらゆる学問と同時に、道家の方術をも修した。湊はその吉備真備の子である枚雄を父とする。
「兄様!」
湊の許へと走り行くのは、まだ年端もいかぬ女童だ。
幼い体躯を兄から貰った頒巾で飾り、その手には、たった今摘んだ野菊を収めている。
「済まぬな、朔。我はこれより、陸奥国に赴かねばならぬ」
身に縋る妹の頭を、湊は優しく撫でた。
湊はこれより、蝦夷討伐の軍に合流する為、陸奥国に赴く。
未だまつろわぬ―――朝廷に従わぬ――民が陸奥国に居る。争いを好まぬ湊にとって、それは望まざる任ではあろう。だが、主である御門――天皇――の命に背く事もできよう筈がない。
「兄様! 何故典薬寮の呪禁師たる兄様が、戦に赴かねばならぬのですかっ?」
歳に似合わぬはっきりとした口調で、妹の朔は言った。
湊の五つ年下。今年、数えで十二となる妹。男子の様に凛とした目鼻立ちの、秀麗な面差しをした少女だった。
「仕方あるまい。我の修した禁呪は、病のみならず瀕死の負傷者をも生き延びさせられる。連日の戦で、陸奥国では多賀城の陰陽師殿一人では手が足りぬという話も聞く。ならば、我とて放ってはおけぬ」
「湊様……」
歩み寄り、やはり不安気に湊の顔を見上げたのは少年だった。
歳は数えで十一。そんな幼年でありながらも、しかし先日元服を終えて浄衣を身に纏い、見習いとはいえ陰陽寮にて方術を学ぶ一介の方士でもある。
少年は名を真己という。湊、朔の兄妹から見れば甥に当たる者で、その父の真仁は湊達の異母兄だった。
父譲りの整った細面に、母譲りの優しげな眼差し。だが、その瞳にたゆたう憂いは、朔と同じくらいに強い。
年若い叔父と叔母。だが少年にとって、彼らの存在はむしろ兄と姉に等しい。それも、冷徹なほどに厳格で尊大な父とは違い、暖かく、優しさに溢れる身内なのだ。
その叔父が、遠い戦場に赴く。不安が無い筈が無かった。だが、それでも真己は――
「……お気を付けて」
ただその一言だけを贈った。
湊は微笑んだ。
「真己、朔を頼む。我が帰るまで、どうか見守ってやってくれ」
湊の両の手が伸びて、少年と少女の髪を優しく撫でる。
「はい、心得ました」
素直に頷く少年。
しかし、一方でその隣に立つ少女は、どこか憤懣を浮かべている。
「兄様、朔はもう童ではありませぬ。それに、甥の世話になれなどとは、あんまりです」
妹の言葉に、湊は悪戯っぽく微笑った。
「仲良く過ごせ、という事だ。なに、我が帰るまでの事。長くても一年ほどの辛抱だ。待てるな?」
「……はい」
頬を撫でる大きな兄の手。その手を取り、朔は頷いた。
だが、その眉根は微かに寄せられ、辛さが滲んでいる。
「それでは、行って参ります」
湊は、学僧に視線を向けて一礼した。
学僧は言葉を受け、無言のままに頷いた。三つほど年下の友人を送る学僧は、粗末な僧衣に痩身を包み、微かに伸びた頭髪と頬髭が印象的であった。しかし、その貧相な風体に不釣り合いなほど、双眸は慈愛で輝いている。
餞別の代わりとでも思ったか、学僧は朗々と経を口ずさみ始めた。それはまるで歌の様にも聞こえ、その場の者達に不思議な安らぎを与えていく。
蜩と学僧の声に送られていく湊。その背が見えなくなるまで、真己と朔はその場に佇んでいた。




