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二章 心二つ 七


「……あ、水、那人……?」

 不意に、早矢の口から声が零れた。それは、まるで困惑しているかの様な響きを含んで。早矢の貌を見据えている水那人の視界。そのただ中に、輝きを取り戻した二つの瞳が映っていた。

 少しずつ、横にれていく早矢の視線と、微かに朱に染まっていく頬。しかし同時に、早矢の眉は辛そうに寄せられていく。

 それを目の当たりにした瞬間、

――返せ――

 水那人の中に変化が起こった。

 半身をねじ伏せる様な感覚を、水那人は感じた。なぜ半身の様に感じるのか。それを理解する事はできない。

 だが、水那人の中のもう一人が持っている感情と、今、水那人が抱いている感情が、同質のものだという事。どういう訳か、それだけは理解できた。

――よ……こせ……お前の……身体を――

 一瞬のせめぎ合い。

 そののち、水那人は再び、身体の支配権を取り戻していた。

「ご……ごめん、早矢……」

 額や頬に、吹き出した汗のたま。それを拭うことなく、水那人はひとまず早矢を解放した。

「……水那人? なんか……辛そう……大丈夫?」

 眉根を寄せて、本気で心配している早矢のかおが間近には在る。

「あ……う、うん……」

 その貌に導かれる様に、水那人は頷いていた。だが、身の内に巣くう何者かは、まだ水那人の中で暴れ続けている。そして、それを抑えるために、水那人は精神力の殆ど全てを傾けているのだ、余裕などあるはずがない。

 だが水那人は、精一杯に微笑って見せた。

「大丈夫だよ……」

 早矢が心配してくれている。それが水那人には嬉しい。

 しかし――

「……帰って」

 唐突に、早矢は顔を背けてそう言った。

 微かな狼狽ろうばいが、水那人の心に波紋の様に広がっていく。

「……ご、ごめん。怒った……?」

「……べつに……」

 素っ気ない、早矢の物言い。だがそれでも、水那人はどこか安堵あんどしていた。

「……そ、そう……」

 水那人は立ち上がった。再び身体を奪われる前に、早矢の前から立ち去ろう。そう思った。

 そして、早矢に背を向けた時、

「ねぇ、水那人……」

 その背に向けて、早矢の声が響いた。

「水那人は……私に、何を望むの……?」

 そんな早矢の問いかけは、水那人にとって、答の一つしかないものだ。他の答など考えもつかないし、見つける事などできはしない。

「俺は……早矢に、ずっと生きていて欲しい。……希望を捨てないで、もっと頑張がんばって欲しい」

 背を向けたままで、水那人はそう言った。

 沈黙が、二人の間に流れ出す。

 それ以上、水那人には言葉が浮かばない。

 迫る死期に、早矢がヤケになっている事。それを感じながら伝えた本心。早矢がそれさえも拒絶するのなら、水那人が彼女にしてやれる事は、もう残されてはいなかった。早矢がどんな言葉を返すのか。沈黙の中、水那人はそれを聞くまで身じろぎ一つ出来ないでいる。

 そんな水那人の耳に、不意に――

「……また、明日ね……」

 穏やかな、早矢の声が届いた。

 約束が、一つ生まれた。

――なら、明日も俺は、俺でなきゃ――

 今にも心を、魂を、掻き消そうとしている者が自身の中に居る。それと闘う気力を、水那人は早矢から貰った気がした。


    ◆ ◆ ◆


 自宅に辿たどり着いた時、水那人の疲労は限界に近かった。

「……お帰り、水那人」

 今にも倒れ込みそうな水那人を、複雑な色を含んだ声が迎える。

 視線を巡らす。その先に、声と同様、当惑しきった母の顔があった。その表情から、母が学校での一件を知っている事が容易に推察される。

「担任の……本山先生が、さっきまでいらっしゃってたのよ」

「……そう。じゃあ、聞いたんだ」

 本当なら、何か弁解の一つでもするべきなのかも知れない。だが、弁解の内容を考える事も、母の心配を取り除く事も、今の水那人にはできそうになかった。

 しかし、それでもどういう訳か、家の玄関をくぐった時、水那人は、それまで精神を圧迫していた力が軽減されたのを感じていた。

「嘘……よね? 水那人……」

 悲嘆を浮かべた母の貌。それは、不義を必死で制した水那人の努力を否定するものの様にも思える。無論それは水那人にとって悲しい事であり、即座に理由を伝えたい事でもあった。

 だが、頷く事も、かぶりを振る事も、水那人には出来はしない。

「……ごめん、母さん……話、後でいいかな……少し……眠り……たい……」

 今の水那人は、ただひたすら休息を欲していた。母親の心を気遣う事すらも、些細ささいな事であるかのように思ってしまうほどに。

 水那人は靴を脱ぐ事も出来ず、その場にくずおれた。

「……水那人? ちょっと、水那人っ! どうしたのっ?」

 息子の異変に気付いた母が、声と共に抱き起こす。

 さなか、玄関ドアが開く気配があった。

「……月子ちゃん……」

「どうやら……水那人、無事みたいですね、叔母様……」

 落ちていく意識の中、月子の声が、水那人の耳に響いていた。

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