二章 心二つ 六
◆ ◆ ◆
病院の玄関ロビーで、春路は知った顔と往き会った。
「……よう」
「やぁ」
返ってきた反応には、いつもの元気は無い。
「どうしたよ……夏風邪か?」
病院という場所柄、TPOに見合った質問だと自画自賛しながら、春路は水那人に意地悪く笑って見せる。
「いや……ちょっと、『つかれてる』だけ……」
引きつってはいるが、笑顔を見せる親友の様子に、春路は取り敢えず安心する。
「ならいいけどよ……無理、すんなよ?」
「早矢の顔、見たら……すぐ、帰るよ……それより……」
「なんだ?」
不意に水那人が浮かべた真摯な表情に、春路も真顔で応える。
「ニュース……見た」
「……そっか」
親友が自分を気遣っている。春路には、その事が良く分かっていた。しかし、今はその気遣いに、どう応えればいいのか判らない。二つ年上の従姉、千夏。その死が春路に与えている影響は、思ったよりも大きかった。いつもなら冗談の一つも言っている所ではある。だが、今は自身の心を御するためだけに、最大限の能力を使っている。
「悪ぃな。久しぶりに三人でツラ合わせんのも悪くないけどよ……今日は、これから予定があんだ」
今の春路には、通夜が始まるまで一人でいる時間が必要だった。
「早矢……どうしてる?」
荒い息を挿みながら、水那人が訊いた。
「……お前を待ってる」
言って、春路は苦笑した。
「……本当に?」
訝しげに、水那人は春路に視線を送ってくる。
水那人の心情が、春路には、まるで我が事の様に感じられた。
「……多分な」
そう言い残して、春路は玄関に歩を進めた。死に向いている早矢の心を引き戻すのに、自分では力不足だと春路は思っている。だからといって、水那人がその役を全うできるのかは判らない。だが、力不足と確定した自分と、未だ不確定な水那人。そのどちらが、より可能性があるのか。そんな事は考えるまでもない。
「春路……元気、出せよ」
「……ま、お前が元気出したらな」
背に届いた親友の言葉に、春路は片手を挙げてそう応えた。
◆ ◆ ◆
「……早矢……」
水那人が病室を訊ねた時、早矢の様子はいつもと違っていた。
早矢はベッドの上で膝を抱えており、その肩は微かに震え、彼女が泣いている事を水那人に知らせていた。
「早矢……」
水那人はもう一度、幼馴染みの名を呼んだ。
「もう、来ないでって……言ったじゃない」
早矢は顔を膝の間にうずめたまま、微かに聞こえる鼻声でそう言った。
その時、不意に水那人の胸が鋭く痛んだ。怨霊の影響だろうか、次第に鼓動が早まっていく。そんな折、水那人はふと早矢の手に握られている物に気が付いた。
どくん……
刹那、一際大きく胸が高鳴ったと同時に、
「セ……ハ、ヤ……」
水那人の意志を強く凌駕し、異質な声が漏れた。
その声は、柔道場で漏れたものであり、水那人の頭に響いていた声でもある。おぞましい怨霊の声。水那人には、そんな認識しかない。
「え……」
早矢はその声を耳にして、その顔を上げた。
「は、や……に……げ、ろ……」
辛うじて、水那人はそう警告を発した。やはり、ここに来るべきではなかったと、水那人は後悔する。
足が勝手に動き、早矢に近づいていく。
だが、どういう訳だろうか。見上げる早矢の顔には、安らぎの色が浮かんでいた。
「み、なと……」
別人の様に、たどたどしく呟く早矢。
彼女が口にしたのは、『みなと』という名。
しかし水那人は、その言葉に違和感を感じた。早矢の瞳はどこか虚ろで、そんな彼女がその視線に捉えているものは、自分ではない様な気がしたのだ。それは、或いは怨霊のなしたる業であるのだろうか。
そう思い至ったその時、水那人はふと気が付いた事があった。抗い難い強い意志が、この身を半ば支配している。だが、柔道場の時と今とでは、決定的な違いがあるのだ。
あれだけ強く湧き起こっていた怨念と、見境無しに向けられていた憎悪。ところが、まるで泉が枯れ果てた様に、早矢に対しては、そんな感情は一切向けられていない。
水那人は当惑していた。早矢を害しようという意志は一切感じられない。にも関わらず、この身を支配しようという怨霊の意志は、強くなっていく一方なのだ。
一歩、また一歩と、水那人の意に反して、確実に早矢の傍へと近づいていく。
――やめろ! 何をする気だっ?――
叫んだ声は、しかし口から出る事はなかった。
水那人の腕が、早矢へと伸びる。水那人は必死に抵抗を試みる。だが、今この瞬間、この身を支配する意志を覆すまでには至らない。
――早矢! 逃げろ早矢!――
自身を支配する者の真意が読めず、水那人の恐怖は増大していく。早矢への害意を感じないという、その事に当惑しながらも。
しかし一方で、早矢は虚ろな瞳で水那人を見据えたまま、身じろぎ一つしなかった。それはまるで、何かに魅入られているかの様に。
「……みなと……」
その時、早矢の貌を彩っていたもの。それは柔らかな、それでいて朧気な微笑みだった。
そして、水那人の腕が早矢の肩に触れた時、
「……セハヤ……」
再び、水那人の口からその言葉が零れた。
――なんだ? 何を言っている?――
それは呪詛の文言か、それとも――
深まる当惑の中で、そんな事を考えた刹那、伸びた水那人の腕が、
――どういう……事だ……?――
そのまま、早矢の身体を抱き締めていた。
ベッドに膝を突き、水那人の腕は、強く強く早矢を抱き締める。
刹那、水那人の心の中に去来するメージがあった。
それは、戦場。
それは、転がる無数の骸。
失われていく仲間の命と、自らの手で奪い去る他者の命。
疲れ切った心と、それを満たす暖かい感情。
そして、踏みにじられた二つの絆……。




