二章 心二つ 四
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はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……
荒い息が、柔道場に響いていた。
合成素材で作られた、赤と緑の畳を敷き詰めたその部屋は、広さが二十メートル四方ほどで、壁の一辺には収納棚が据えられている。
幸いに、今日の授業で柔道場は使用される予定がなかった。
――何をしている?――
「……なにが……だよ……」
荒い息を吐き、水那人は心の底から響いてくる声に、言葉を返す。
――何をしている?――
「だから……何がだ……」
――憤りを、隠す事はない――
「……お前は……一体……誰なんだ……」
――お前の心は、見えているぞ……あの男が、気に入らぬ筈だ――
「だからっ! 誰なんだよお前ぇっ!」
水那人は苛立ち、足許の畳に拳を見舞った。
拳から伝わる痛みが、水那人の正気を少しだけ回復させる。
しかしその刹那、
「これはご挨拶だなぁ。下道……お前、自分のした事が解ってるか?」
声が聞こえた。
顔中に汗の珠を貼り付けながら、水那人は柔道場の入り口を見やる。するとそこには、竹刀を手にした体育教諭の姿が在った。
「来る……な……」
苦悶のただ中で、水那人は精一杯の警告を送る。
だが、
「お前……俺に命令するとは、何様だ?」
水那人の言葉は教諭に通じず、彼は無防備に、水那人の傍までやって来た。
「ファイルでぶっ叩くくらいじゃ、躾にはならんか、お前は……」
言って、教諭は竹刀を振り上げる。ゆっくりと弧を描く竹刀の切っ先。
その時、
――躊躇うな!――
その声と、教諭がもたらした危機感とで、水那人の心から何かが消し飛んだ。
と同時に、水那人の右手が教諭の喉頸へと伸びた。
「がっ!」
教諭の口から漏れた苦悶の声。その貌が、見る間に恐怖に彩られていく。
教諭は頸を戒める水那人の手首を握りしめ、必死で外そうとする。そしてそのかたわらで、竹刀の柄頭で水那人の額を打った。
裂けた額から、一筋、赤いものが駆け下りていく。しかし水那人の腕は、その力を緩める事はなく、むしろ増していくばかりだった。
「あ……ぐ……はな……せ……」
みしみしと、教諭の首が軋みを上げる。
その瞬間。
水那人の口が勝手に開いた。
「我の邪魔をするならば……お前からくびり殺してくれる」
まるで、身体の支配権が奪われたかの様な感覚。
水那人の意志は、その時まるで、鋼鉄の檻の中に囚われたかの様だった。
――やめろ!――
「邪魔をするな、小童……」
「ひゅっ……」
刹那、一段と力が加わり、教諭が白目を剥いた。みしり、と教諭の頸骨が軋み、教諭は、まるでゴム製の人形の如くに四肢の力を失って失禁した。
――やめろおおぉぉぉぉぉっ!――
水那人は、檻の中で叫んだ。
と、唐突に――
腕の支配権を手始めに、水那人は自分の身体を取り戻していた。
同時に、水那人は手を離す。
教諭の身体が仰向けに、畳の上に倒れ込んだ。
しかし、それで支配権の争奪が収まった訳ではない。
――抗うな!――
そろそろ水那人にも、理解できていた。
「うるさい! 黙れぇっ!」
水那人は頭を抱え、その場にうずくまる。
水那人の心の中に入り込んだ者。それは、あの鬼塚より出てきた者に違いない。
「げほっ……」
咽せ込む体育教諭の声が、耳に届く。
微かな安堵が湧き上がる。だが、水那人はそれで気を抜くわけにはいかなかった。一瞬でも気を抜けば、鬼に――鬼塚に葬られていた怨霊に、身体を乗っ取られる。
「しも……つ、みちぃ……お前……こんな事をして……どうなるか、判ってるんだろうなぁ……」
憎しみを含んだ、体育教諭の声。
しかし水那人には、そんなものに構っている余裕はない。今もなお、怨霊は目の前の教諭を殺そうとしているのだから。
水那人は教諭を見下ろしながら――自らの手が人を殺める事を回避できるのならば、学校の一つや二つ、いくらでも辞めてやる――そう考えていた。




