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二章 心二つ 四


    ◆ ◆ ◆


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……

 荒い息が、柔道場に響いていた。

 合成素材で作られた、赤と緑の畳を敷き詰めたその部屋は、広さが二十メートル四方ほどで、壁の一辺には収納棚が据えられている。

 幸いに、今日の授業で柔道場は使用される予定がなかった。

――何をしている?――

「……なにが……だよ……」

 荒い息を吐き、水那人は心の底から響いてくる声に、言葉を返す。

――何をしている?――

「だから……何がだ……」

――いきどおりを、隠す事はない――

「……お前は……一体……誰なんだ……」

――お前の心は、見えているぞ……あの男が、気に入らぬはずだ――

「だからっ! 誰なんだよお前ぇっ!」

 水那人は苛立いらだち、足許の畳に拳を見舞った。

 拳から伝わる痛みが、水那人の正気を少しだけ回復させる。

 しかしその刹那、

「これはご挨拶だなぁ。下道……お前、自分のした事がわかってるか?」

 声が聞こえた。

 顔中に汗のたまを貼り付けながら、水那人は柔道場の入り口を見やる。するとそこには、竹刀しないを手にした体育教諭の姿が在った。

「来る……な……」

 苦悶のただ中で、水那人は精一杯の警告を送る。

 だが、

「お前……俺に命令するとは、何様だ?」

 水那人の言葉は教諭に通じず、彼は無防備に、水那人のそばまでやって来た。

「ファイルでぶっ叩くくらいじゃ、しつけにはならんか、お前は……」

 言って、教諭は竹刀を振り上げる。ゆっくりと弧を描く竹刀の切っ先。

 その時、

――躊躇ためらうな!――

 その声と、教諭がもたらした危機感とで、水那人の心から何かが消し飛んだ。

 と同時に、水那人の右手が教諭の喉頸のどくびへと伸びた。

「がっ!」

 教諭の口から漏れた苦悶の声。その貌が、見る間に恐怖に彩られていく。

 教諭はくびを戒める水那人の手首を握りしめ、必死で外そうとする。そしてそのかたわらで、竹刀の柄頭で水那人の額を打った。

 裂けた額から、一筋、赤いものが駆け下りていく。しかし水那人の腕は、その力を緩める事はなく、むしろ増していくばかりだった。

「あ……ぐ……はな……せ……」

 みしみしと、教諭の首がきしみを上げる。

 その瞬間。

 水那人の口が勝手に開いた。

「我の邪魔をするならば……お前からくびり殺してくれる」

 まるで、身体の支配権が奪われたかの様な感覚。

 水那人の意志は、その時まるで、鋼鉄のおりの中に囚われたかの様だった。

――やめろ!――

「邪魔をするな、小童……」

「ひゅっ……」

 刹那、一段と力が加わり、教諭が白目をいた。みしり、と教諭の頸骨が軋み、教諭は、まるでゴム製の人形のごとくに四肢の力を失って失禁した。

――やめろおおぉぉぉぉぉっ!――

 水那人は、檻の中で叫んだ。

 と、唐突とうとつに――

 腕の支配権を手始めに、水那人は自分の身体を取り戻していた。

 同時に、水那人は手を離す。

 教諭の身体が仰向けに、畳の上に倒れ込んだ。

 しかし、それで支配権の争奪が収まった訳ではない。

――あらがうな!――

 そろそろ水那人にも、理解できていた。

「うるさい! 黙れぇっ!」

 水那人は頭を抱え、その場にうずくまる。

 水那人の心の中に入り込んだ者。それは、あの鬼塚より出てきた者に違いない。

「げほっ……」

 のどせ込む体育教諭の声が、耳に届く。

 微かな安堵あんどが湧き上がる。だが、水那人はそれで気を抜くわけにはいかなかった。一瞬でも気を抜けば、鬼に――鬼塚にほうむられていた怨霊に、身体を乗っ取られる。

「しも……つ、みちぃ……お前……こんな事をして……どうなるか、判ってるんだろうなぁ……」

 憎しみを含んだ、体育教諭の声。

 しかし水那人には、そんなものに構っている余裕はない。今もなお、怨霊は目の前の教諭を殺そうとしているのだから。

 水那人は教諭を見下ろしながら――自らの手が人をあやめる事を回避できるのならば、学校の一つや二つ、いくらでも辞めてやる――そう考えていた。

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