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序章 悪鬼夜行

 月のない夜。

 桓武かんむ帝の御座所ござしょである平城へいじょうの都。その東に位置する春日山かすがやまにも、初夏の気配がただよっていた。

 星だけの光に照らし出され、春日山から西には、東大寺金堂とうだいじこんどうの屋根が見える。盧舎那仏るしゃなぶつを安置する金堂を始め、法華堂ほっけどう・転害門、正倉院と続く大伽藍だいがらんだ。

 山腹にて、それらを見詰めている少女が居た。年の頃は十四ほど。汚れ一つ無い純白の浄衣じょうえに、少女はその小柄な身を包んでいる。

 秀麗な面差おもざし。その中の、静謐せいひつな眼差し。きたての和紙の様に白い肌。

 二つの大髷おおまげを結い、その先を顔の横に下げたらし髪は、闇よりも濃い漆黒しっこくで彩られ、しかしその艶は、微かな星の光をさえはじいてきらめいていた。

「兄様……」

 どこか憂いを含んだ呟きが、少女の唇からこぼれた。ゆっくりと、少女は東大寺の西方へ視線を移していく。何事が有ろうとも思えない、静かな都の夜。しかし、一見して静かな都は今、人を喰う、羅刹らせつの噂に怯えていた。

 朱雀大路すざくおおじの南端に位置する城門、羅城門らじょうもん。その二階から、この一ヶ月で行方不明となっていた貴族の遺骸が多数発見されたのだ。どれもこれもが、切り裂かれ、食いちぎられた無惨な姿であった。羅城門は、今や羅刹門と化していた。

 鬼は明らかに、大和朝廷に恨みを抱いている。

 事態の収拾を目指して衛士えじ府と陰陽寮おんみょうりょうが動き出したのは、つい先日の事。というのも、鬼が抱く怨念があまりに強力であるため、陰陽寮に常駐している陰陽師おんみょうじだけでは手が足りず、東海道、東山道、山陰道、南海道からも陰陽師を招集する事となり、彼らの到着を待った結果、ときを必要としたのである。

さく……どうした、気分でも害したか」

 不意にかけられた声。少女が視線を移すと、その先には年の頃三十程の青年が立っていた。厳然たる眼差しに、しかし、少女に対する言葉通りの気遣きづかいはない。青年は、陰陽寮に六人在する陰陽師の一人である。

「いいえ……兄上。何でもありません……」

 呟く様に言って、少女は、かたわらのならの木を見上げた。数人の衛士が掲げる松明の明かりによって、ゆらめき浮かび上がる大樹。幹の中程、その二股になった場所から下は、本来の樹皮の色とは無縁の色で染まっている。

 貴族の姫君の遺骸いがいが、先刻までそこには在った。下顎したあごだけを残し、何かに打撃されたかの様に、無惨に潰れた頭部。鋭利な得物えもので衣ごと切り裂かれた胴。うるわしい姫君だったと聞くが、その片鱗へんりんすらも、遺骸から見て取る事はできなかった。

 だが、少女はそれを目の当たりにしても、眉一つ動かす事はなかった。むごたらしい遺骸を見るのは、少女にとって、これが初めてではなかったからだ。

 最初に見たのは、母のむくろ。東国に住んでいた折に、蝦夷えみしによって目の前で惨殺された、母の姿だった。父は、当時鎮守府に在した陰陽師であり、その父と母との間には、少女の他に一人、兄が居る。

 そして、傍らの青年は、母の違う、もう一人の兄だった。

「彼奴の事を考えるのは、もうよせ……こうなっては、今更いまさらどうにもならぬ」

 言って、青年は少女の頭を撫でる。

 一瞬、おびえた様に少女は震え、一つ溜め息を吐いた。男は苦手だ。と、そんな憎悪にも似た感慨が心ににじむ。それが、例え血の繋がりを持った者だとしても。少女が自ら触れられる異性は、この世に一人、いや、二人しかいない。一人は一つ年下の甥。傍らの青年の息子でもある。そして、もう一人は……

 少女は再び溜め息を吐き、頭上の手を見上げた。頭をでる手に、少しもじょうを感じない。微かな暖かみすらも、感じられない。それは、一つは兄妹として過ごした年月の希薄さゆえの事。そしてもう一つは、その手が少女の望む手ではないが故に。

 少女は再び楢の木に視線を移し、樹皮を染め上げた血が自分のものでなかった事に、微かな苛立いらだちを感じた。

 少女の望む手は、今はこうして惨事に使われている。かつて――いや、今もなお、少女が想いを寄せ続けるその人の手は、どす黒く、あるいは鮮やかな紅に染まっている事だろう。

 いびつな愛情だという事は、少女にも判っている。道ならぬ想いだという事も。しかし、少女にこの想いを止める手段は考えつかない。想い人を羅刹に変えてしまったのは、誰でもない、少女自身なのだから。

 行き着くところまで行かねばならないと、少女は思っている。そうしなければ、誰もむくわれないのだと。

「行くぞ、朔。彼奴は我らが封じねばならん。……判るな?」

 不意に、少女の耳に声が届いた。

「一族の、名誉の為に……ですか」

 少女は、微かに青年を睨み付けた。

 蝦夷えみし討伐の戦の中で、少女は修めた方術ほうじゅつを駆使し、数多くの蝦夷をほふった。その力は、大和の兵数百人に価すると評されている。そして、少女には判っていた。青年は少女のその力のみを必要としているのだと。

 兄妹でありながら、情の欠片もない兄。

「不服か?」

 確かめる様に放たれた言葉。その中には、有無を言わせぬ威圧が含まれている。

 少女は瞳を閉じ、しばし黙すと口を開いた。

「……いいえ……また、兄様に会えるのでしたら……」

 歪な慕情の対象――

――それは、少女の実の兄だった。


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