第五話:代償
倒れた石橋の周りに佇んで、警察と一緒に状況を見守るのは、僕とクロの他に、三船、石橋、南田の三人。
三人とも、明らかに動揺していて、別段怪しい点はない。
でも、かの名探偵ポワロも言っていたはずだ。犯罪者というのは、同時に、一流の女優、男優なのだと。
「わかったのか?」
僕の問いに、クロは頷いた。「まず、毒の付いていた場所は――」す、とクロは石橋を指差す。
「服の袖」
「!」
その場の全員が、クロの言葉に反応し、一斉に石橋の袖へ注目が集まる。
「……鑑識へ回しておいて」
梶浦の声だけが冷静に響いた。鼻持ちならない奴だが、警部であることは確かだ。
「犯人は前もって毒を石橋文香の服の袖に塗っておいた。部活の朝練があったから、ジャージから着替えようと制服に袖を通した時に、手の甲に毒が付く。そのあと、部活の後の水分補給にジュースを飲んで手の甲で口を拭いてしまった。これで罠の設置は完了。口に毒が付いた状態だから、後は文香の行動次第。何かの拍子に唇をなめれば死に至る……。おまけに、時間を予測することは誰にも出来ない。そうして口に毒が付いたままあんパンを食べて、口の周りをなめた時に餡と一緒に毒まで飲んでしまった……というわけ」
そうだ、石橋は確かに、ジュースを飲んだあと手の甲で口を拭いていた。
まさかあの時既に、手の甲に毒が付いていたなんて。
「そんな……」
「そして、制服に毒を塗ることが出来たのはただ一人。同じ部活だった――遠野菜子。あなただけよ」
クロの発言に、皆は一斉に遠野の方を向く。
「ちょ……ちょっと待ってよ」
「もし私が毒を持ってたとして……気づかれずに毒を塗ることができるの?」
こくり。クロはこともなげに首を縦に振った。
「この学校の更衣室はロッカータイプじゃなくて、普通の棚だから、手に取った制服が誰のものかなんて、置く瞬間を見ていない限りわからないわ。より万全を期すなら、時間帯をずらせばいい。朝練に遅刻するとか、練習中にジャージの上着を置く、だとか言って更衣室に入れば、周りは練習中だから、更衣室には誰もいないはず。毒を仕掛けても……目撃者はいない」
「……!」
遠野は大きく目を見開いて――そして、小さく微笑った。
「ひーちゃんってホントに頭いいんだね。探偵さんみたいだよ。でも、それだと、私じゃなくても毒を塗ることは可能だよ? 同じ部活の人なら、誰でも出来ることになる」
遠野の言うことにも一理ある。大抵の人間は制服のポケットに生徒手帳を入れているだろうから、石橋が制服を置くところを見ていなくたって、しらみつぶしにポケットをあさっていけば、石橋の制服を見つけることだって誰にでも出来る。同じようにして毒を塗ることだって……不可能じゃない。
僕は、今日石橋と一緒に行動していたのが、三船と石橋、南田だったから三人を疑った。けれど、犯行が僕が見ていないところ――部活中に行われていたのなら、他にも怪しい人物がいることになる。
「私がやった、っていう証拠でもあるなら、話は別だけど」
「ジュース」
証拠を求める遠野に、クロは間髪入れずにそう言った。
「体育館から戻ってくるとき……ナコはジュースをこぼした。それは私の手にかかって、床以外、他に濡れた場所はなく、廊下は混雑していたけれど、通行人にかかることもなかった。あのとき少し不審に思ったの。『こぼれ方が綺麗すぎる』って」
「え……」
「そうなると、考えられることは一つ。あなたはわざとジュースをこぼした。私の手を洗わせるために!」
クロの手を洗わせるため。遠野がジュースをこぼす直前、何があったっけ……。
それ以上思い出そうとする必要はなかった。それは、クロが全て説明してくれる。
「別に、濡れたところをハンカチやティッシュで拭かせるだけでも構わない。とにかく、あなたは私の手についたものを落としたかったの。そう、落ちたヘアピンを渡そうとして、私が石橋文香の袖を掴んだときについたものをね」
「――」
そうか。石橋の袖を掴んだときに、クロの手に付いたもの――それは紛れもなく、『毒』。
遠野は苦しそうに眉根を寄せる。口を開いて何か言おうとするが、言葉が出て来ず、空回りするばかりだ。そして。
「あはははは! すごいなあ、ひーちゃん。本当にすごい。その聡明な頭脳に可能な限りの賞賛の言葉をかけたいね」
突然、遠野は笑い出す。それよりなにより、僕が驚いたのは聡明、賞賛といった単語。普段のおしゃべりな笑い担当という役回りの遠野からは、まず出てこない類の言葉だ。そして、その言葉が遠野がけして馬鹿ではないことと、今までの遠野が本来の遠野菜子ではなかったことを充分過ぎる程にもの語っている。
「降参するよ。あなたの前じゃ何を言っても無駄だろうからね……。まさかジュースのことでボロが出るとは。いやはや」
ふざけているような口調と表情だが、遠野の目はちっとも笑っていない。その部分だけが冷静に周りを見回していた。
「……一つ訊きたいんだけど。ジュースをこぼしたなんていうのは、証拠としてはまだ弱い。その程度なら、毒のことなんか全然知らなくて偶然に手を滑らせた、って言っても通るかもしれないからね。もし私がこうやって反論を諦めて罪を認めなかったら、どうしたの?」
訊ねられたクロは目を伏せて、淡々と答えた。
「別に。ナコはここで認める。そう思ってたから」
「まったく、かなわないなあ……。ひーちゃんの存在は予想外だったよ。久しぶりに学校に来た登校拒否の女の子。どうせなら私のアリバイの証人になってもらおうと思ったのに……それがこんな名探偵だったなんてね。最後の最後でしくじっちゃった」
遠野の言葉は少し自嘲気味にその場に響いた。
「何で……こんなことを?」
無意識に、僕は遠野に問いかける。三船は否定していたけれど、僕の目から見る三人はとても仲が良かった。それに、殺意がわくのと、それを実行するのとではまったく違う。遠野は、石橋の机に散乱したプリクラを見やり、一枚を手にとった。
「浅井先輩……?」
それは、石橋と浅井先輩が写った一枚。ぱっと見た感じの雰囲気は全然違うが、細かいパーツに注目すると、やはり遠野によく似ている。
「この人ね、私のイトコだったんだ」
従姉妹。それでよく似ていたのか。僕は一人納得する。でも、『だった』って……?
「すごーく優しい人で、文香と同じバトミントン部だった。――なのに。去年の暮れにね、自殺、しちゃったんだ」
「!」
自殺。思ってもみなかった単語に、僕らは目をみはる。
「私は本当にショックだったよ。辛そうな様子も見せなかったし、そんなことする人には思えなかったから。……だから私は、独自に調べ始めた。そう、同じバトミントン部に入ってね……」
そういえば、一年からいた石橋と違って、遠野は二年から入部したと言っていた。
「別に復讐がしたかったわけじゃない。ただ知りたかっただけなの。名字が違ったし、顔も似てなかったから、私がイトコだって気づく人はいなかったよ。似てるなんて言ったのは立森君が初めて。びっくりしたなあ、あの時は……」
遠野は懐かしむように目を細める。まるで、そうやって話していたついさっきが、遠い昔だったかのように。
「それで……ある日、知ってしまった。里沙ちゃん――浅井先輩の自殺に関わった人達を。原因は、イジメだった。これはわかってた。学生が自殺なんてする理由はそれくらいしかないから。ただ……」
そこで一度言葉が途切れる。ぎり、と遠野が手を強く握りしめたのがわかった。
「ただ、それに文香が関わってたんだ」
三船が息を飲む。ただクロだけが、動揺した様子も見せず、遠野を見つめていた。
もしかしたら、クロには既にわかっていたのかもしれない。 『謎を解くには、謎を知れ』。
謎を理解すれば、答えや犯人は自然と付いてくる。ただし、全てを理解するという条件と一緒に。それは犯人の心情や理由まで――全部。
「戸惑ったよ。本当に、本当に。私は文香のことが嫌いだったけど、大好きでもあったから」
それを聞いた三船が微かに驚いた様な顔をした。三船にとっては、自分たちの誰かと誰かの間に『大好き』等という言葉が出るのは信じられないのだろう。
「文香は運動神経が良かったから、そうでない人のことなんてわからなかったんだろうけど……。それから、わからなくなった。文香とどう接していいか。従姉妹の復讐とかそういうんじゃない。ただ、わからなかったの。どうしたらいいかわからなかった。今まで通りに戻ることなんて出来なかった」
喉から絞り出される、消え入りそうにか細いその声は叫ぶ様で、もういいよ、と言ってやりたくなった。
けれど遠野はそれを望んでいない。誰も遠野を止めることはしない。出来ない。
「それで、思った。文香がいなくなればいいんだ、って。そうしたらこんなに悩む必要はなくなるんだ、って。だから、殺すしかなかった――……!」
水を打った様に静まる室内。誰も何も喋らない。遠野の嗚咽だけが、耳に響いた。
『殺すしかなかった』、と遠野は言った。
そうだろうか。他にいくらでも方法があったように、僕には思えるけれど。
*
疲れきった様子の、クロの表情。
本当に、これで良かったんだろうか。
僕は、事件は推理して解決しなければいけないものだと思っていた。
でも、この事件は解決して良かったんだろうか?
遠野は、クロの学校で出来た最初の友達だった。石橋と三船も同様に。
もし。もしクロが推理をしなかったら。
遠野の犯行は、いずれはばれたことかもしれないけれど、少なくとも、クロが推理で傷を負う事はなかった。クロが、また見なくてもいいものを見る羽目にはならなかった。
それにもし、遠野の行為がばれなかったとしたら――。そしたらきっと、しばらくはショックが抜けないかもしれないけれど、時間が事件を押し流せば、僕らはほぼ今までどおりの生活を送っただろう。
こうやって、全てがバラバラになってしまうことはなかった。
もちろん、遠野のしたことは許されないことだ。
それでも――。少しでもそう思ってしまうのは、僕の弱さなんだろうか?
「ひーちゃん」
遠野が、警察と一緒に教室を離れる直前、振り返ってクロに声をかけた。
苦しそうに顔を歪ませるクロとは対照的に、遠野は、微笑っていた。
「捕まえてくれて、ありがとう」
*
「見事だったわ。協力どうもありがとう」
梶浦がクロに礼を言った。対するクロは別に、とだけ。
「そしてあなたも……ね」
「僕は何もしてませんけど」
「事件を連れてきてくれたじゃない」
僕は梶浦を睨む。事件に巻き込まれたくて巻き込まれている訳じゃない。
「私は上に行く。そのためには利用させてもらうわよ……。なんだってね」
梶浦はくるりと背を向けると、後ろ向きのまま軽く手を振った。まったく、どこまでも……。
「もしかして、あの子が『黒猫』なの?」
梶浦は近くの警官に指示を飛ばしながら、クロのことを尋ねた。
『黒猫』。それは、事件を解決するうちにクロに与えられた二つ名だ。
「ああ、そうです。制服だったから気付かなかった。あの子もまだ子供なんですよね……。ん? 隣の子、見覚えがあるな……」
「『黒猫』さんの隣の彼? 彼ならこれからいくらでも会うことになるわよ。事件や事故の現場でね」
「……? どういうことですか?」
後ろ向きで顔は見えなかったけれど、僕には梶浦がにやりと笑うのがわかった。
「事件召喚体質ならびに、事件邂逅体質。簡単に言えば、事件に偶然出くわしてしまう……そういう類の一種の才能よ」
「才能、ですか」
「ええ。これは才能。只の凡人には特殊な事件に遭遇する権利さえ与えられないのだから。とんだ災能ね」
まったく、どこまでも人の神経を逆なでする奴だ。
人を苛立たせることに関しては、梶浦に勝るものはいないだろう。
くい、と袖を引かれて、僕はクロの顔を見る。
こういう時、なんと言ってやればいいんだろう。
お疲れ様? ごめん? それともありがとう? 何を言っても、意味がないような気がして、かける言葉がみつからない。
だから、僕はこう言うしかなかった。
「帰ろう、クロ」
無言のままに、クロが頷いた。