第三話:拒絶
「と――りあえず、保健室……」
南田が無理やり口を開いて、なんとか喉から声を絞り出す。
その声で僕は、はっと我に返った。何放心してんだ? こんなの、前にもあったじゃないか。そうだ、今までにだってたくさんこんな場面を見てきた。今更――。学校のクラスメイトだからって。
「石橋、おい石橋!」僕は動かなくなった石橋に近寄って、肩を掴んでゆさぶる。石橋は人形のように、かくかくと揺らされるままになっていて、自発的な動きは一切ない。
床に投げ出されるようにして倒れた体に繋がっている、血まみれの手。僕は石橋の手首に指を当てた。けれど、いつまでたっても、健康な人間ならば、すぐに指先を押し返してくるだろう拍動が感じられない。脈が、ない。
「――」
なんでだ? ここは学校だろ? どうして学校で人が死ぬ?
『殺しちゃうかもよ?』
僕は三船の方を振り返った。
三船は、口を押さえて体を震わせている。遠野も似たようなものだった。そうだ――クロは?
「……シロ」
クロは僕に訊ねる。
「死んでる、の?」
認めたくない。信じたくない。けれど、僕はただ、頷くことしか出来なかった。
「……」
クロは、何も言わず、何の反応も示さず、静かに目を伏せた。それは、ある意味この場で最も異常な反応かもしれない。無表情に、無感動に、全ての感情を拒否しているかのような――そんな雰囲気。
先ほど誰かが上げた悲鳴を皮切りに、騒ぎはあっという間に伝染し、教室内は大混乱だった。
不良と呼ばれている池崎でさえ、顔を引きつらせている。
ああ、嫌だ。
この空気、この空白。
さっきまで生きていた人が急にいなくなる、莫大な虚無感。
死の瞬間だけは――きっと、いつになっても慣れることなどないのだろう。
*
事件の事を知らされた警察の到着は早い。もっとも、今の僕は事件のせいで時間の感覚が追いつかなくなっているので、実際はそんなに早くないのかもしれないけれど。
「酷いな……学校で殺人なんて」
「ああ。でも、きっと警部なら解決してくれるだろうよ」
「そうだな。まだ20代前半なのに凄いよあの人は」
20代前半の警部だって?
まさか……。いや、20代前半の警部だってキャリアならばおかしくはない。他にもいるはずだ。
あいつだとは……限らない。
「シロ?」
カッ、カッ、と規則正しい靴音が廊下から響いてくる。
そしてそれは、不意に途切れた。僕の目の前、この教室の、前で。
僕はドアを見る。ドアの手前の廊下に立つ人影を、見る。
そいつは、林檎のように赤い唇に笑みの形を浮べた。
「お久しぶりね」
「……」
梶浦響。
僕が前に住んでいたところで知り合った、優秀な女性警部。
僕の、天敵。
「会いたかったわ」
「僕は別に」
自分でも驚くほどの、冷たくて硬い声で僕は答える。
そんな僕の態度に、梶浦はわざとらしく肩をすくめた。そういう余裕そうな態度が、余計に僕の神経を逆撫でする。
梶浦は石橋を見下ろす。
「吐血はしているものの、争った後や、目だった外傷はないわね……。毒殺かしら?」
「おそらく」
「被害者の食べたものや飲んだものは覚えてる? 直前に被害者と一緒にいた人は?」
「朝、部活が終わった後にスポーツ飲料を500mlペットボトル半分と、死ぬ直前にアンパンを少し。ペットボトルはフタを開ける前の状態で、僕が開けた。アンパンも未開封のものだ。直前に一緒にいたのは、僕と、遠野菜子、三船ゆかり、南田あつし、氷鉋黒羽だ。」
僕が覚えている限りの事を言うと、梶浦はふうん、と相槌を打った。
「厄介ね」
「え?」
「だって、ペットボトルもパンも未開封なら、あらかじめ被害者の口にするものに毒を仕掛けておいた可能性が低くなる。注射器か何かを使って、袋の上から毒をパンに入れるなら話は別だけど、人の大勢いる学校でそれを実行するのは結構難しいわね。被害者は女の子だから、なおさら。女子はグループで行動するものだもの。それに、袋に穴が開いていたら誰か気づくはずだわ」
それだけじゃない。
石橋は早弁するつもりでパンを持ってきたが、早弁するかどうかはもちろん、今日の石橋の弁当がパンかどうかということでさえ、事前に知ることは容易じゃないのだ。
何せ、毎日弁当箱入りの手作り弁当をもってきている人だって、作っている人が寝坊でもすれば、その日の弁当は自動的にパンになる。寝坊するかどうかは、本人でさえわからないのだ。他人が知るはずがない。
という事は、石橋がパンを持ってくるかどうか、ということは犯人にわからないわけだ。じゃあ、毒はペットボトルに……? いや、未開封のペットボトルに毒を仕掛けるのはパンよりずっと難しい。注射器を使おうにも、内容物が漏れ出してしまうからだ。
じゃあ、犯人は、いつ、どこに毒を仕掛けたんだ――?
「――……」
駄目だ。僕じゃわからない。
でも、クロなら――。そう思って、はたと気づいた。
クロが静かすぎるのだ。
最近口数が少ないのも、クロがまだ学校に慣れていないせいだと思っていた。
だが、氷鉋黒羽の本質は、『黒猫』の異名を持つ探偵だ。
クロは普段あまり喋る方じゃないし、家で本ばかり読んでいるが、事件となると、積極的に動き回って調べ始める。自然、口数もいつもより多い。
そのクロが。
じっと動かず、事件の謎を調べることもなければ、捜査に口を出す事もしないのだ。
「クロ?」
僕は呼びかけてみる。けれど、クロからの返事はない。
「どうなんだ? 今回の事件。また前みたいに解決してくれよ……。このままじゃ、石橋が――」
石橋があまりに、浮かばれない。
けれどそれは、僕にとって最も予想外の反応だった。
クロは首を振ったのだ。――縦ではなく、横に。
「嫌」
「!?」
顔をゆがめたクロは、唇を動かして、次の言葉を紡ぐ。僕の予想に真っ向から反した、その言葉を。
「推理したくない」