第二話:弾ける日常
次の日、学校に行くクロは、昨日より元気そうで、心なしか楽しそうにも見えた。きっと、遠野や石橋、三船に会うのが楽しみなんだろう。
学校に行く時間も、今日は昨日と比べて少し早めだ。
が。
「……いないみたいだな」
肝心の遠野と石橋は、教室にはいなかった。でも、机に鞄は置いてある。隣のクラスにでも遊びに行ってるのか?
「あ、ひーちゃんおはよー」声の主は三船だった。
「おはよう」対するクロは、前日に比べどもることなくそう答える。まだ範囲は限定されるが、早くも学校の雰囲気に慣れてきたようだ。
「ナコと文香なら朝練だよ。あの二人、バドミントン部なんだ」
へえ、初めて知った。石橋は運動神経抜群だから、バドミントンも得意そうだな。
「ちょっとのぞいてくる? 二人とも頑張ってると思うよ」
「うん、行く。……シロも」
僕は教室で待っていようと思ったのに、有無を言わさず連れ出された。三船とは仲良くなったとはいえ、昨日知り合ったばかりだから、少し心細いんだろうけど。
このまま、クロと三船たちがもっと仲良くなればいい。家にひきこもって本ばかり読んでいるより、学校に通った方がずっと良いに決まってる。
クロには、息抜きの場が必要なんだ。何も考えず、無条件で笑えるような……そんな場所が。
学校が、クロにとってそんな場所になればいい。
何も知らない僕は、その時、勝手にそんなことを思っていた。
*
「おー、やってるやってる」
スパン! と小気味良い音を立てて、ラケットに打ち出された羽が飛んでいく。さすがは部活、僕がたまにお遊び程度でやっているのとは、音が全然違った。
遠野と石橋は……いたいた。僕の目から見ても、あんまり上手そうには見えないが、楽しそうにラケットを振っているのが遠野、上級生を相手に屈せず、互角に渡りあっているのが石橋だ。
「ラスト!」
「はい!」
部長の声に、部員たちの返事が続く。さすがは体育会系、女子といえどもかなり熱い。
やがて、各自朝練を終わらせ、片付けに入っていった。
と、入り口付近で見ている僕らに気づき、遠野が手を振ってくる。
「おはよー! すぐ着替えるから待ってて!」
「早くしないとおいてくよー」
遠野の頼みに、三船がひょうひょうとして受け答えた。
「僕は戻ってるかな」
だって女子の輪の中に一人って、居心地悪いし。
「……」
半歩下がったところで、クロに睨まれた。目線で『行くな』と凄んでくる。
はいはい、わかりましたよ……。
遠野と石橋は、すぐに出てきた。汗はタオルで拭いたようだが、あれだけの運動をした後だ。まだ暑そうだった。
「あれ、これ開かないな……」
石橋がペットボトルのふたを開けるのに苦労している。
「貸してみ」
僕は石橋からペットボトルを受け取ると、ぐいっと力をこめて回した。先に石橋が開けようとしていたことで緩んでいたのか、ふたはあっさりと開く。
「おお! 細っこいけどさすが男子っ!」
細っこいは余計だ。
石橋は腰に手を当てて、スポーツ飲料を一気に半分ほど飲みほすと、ぷはーとばかりに手の甲で口を拭った。……オッサンっぽいな?
ペットボトルに元のようにふたをすると、それを小脇に抱え、石橋はポケットからじゃら、とばかりにヘアピンを取り出す。それで髪をまとめようと試みるが、手の中から一本落ちてしまった。
すぐにクロが屈んでそれを拾う。部活の朝練が終わったあとのこの時間、部員や体育館で遊んでいた人々で廊下は混雑していた。ヘアピンなんて小さいものを落としたら、踏まれる前にどれだけ速く動くかが重要になってくる。
「はい」
クロが右手で石橋の服の袖を引っ張って、もう片方の手に乗せたヘアピンを渡す。
「あ、ひーちゃんありがとー」
石橋が微笑んだ。と、その時。
「わっ!」
遠野が飲んでいたスポーツ飲料のペットボトルを落とした。ばしゃ、とそれはクロの右手にかかる。幸い、横からだったから、制服などはほとんど汚れなかった。廊下は相変わらず人でいっぱいだったが、僕らがいたのは端っこの方だったため、周りにジュースがかかった人はいないようだ。
「ごめん、こぼしちゃった! 大丈夫? 制服とか濡れてない? あっ、手がびしょびしょだよ! うわ、どうしよー、私ティッシュもハンカチも持ってない……!」
わたわたと慌てている遠野に、はいよ、と三船がティッシュを手渡した。
「まったく、ナコはぼけーっとしてるんだから。ひーちゃん、大丈夫?」
「全然平気」
クロは自分のポケットからハンカチを取り出すと、それで手にかかったジュースを拭いた。……しかし、そこはジュースの特性。べたべたするんだよなあ……。
「……べたべたするから、手洗ってくる」
「あ、じゃあ私もついでにトイレ」石橋がクロに続いてトイレに入る。
「私も、私もー」
遠野までも、床にこぼれたジュースを拭き終わるなり、一緒に入って行った。もちろん僕は付いていくわけにいかないので、その場に残った三船と待っている事になる。
なんていうか……本当に。
「ホントに仲いいんだな」
僕の顔から、苦笑にも近い笑いが漏れる。それを聞いた三船が、僕の方をじっと見て、口を開いた。
「そうでもないよ?」
「え……」
な――、んだっ、て?
あまりにも予想外な言葉。僕の体は、文字通り、固まる。
「あたしたちは見た目ほど仲良くないんだよ。お互いがお互いを憎んでる、と言っても過言じゃないかもしれない。まあ、多かれ少なかれ、悪い感情を抱いてるんだよ」
「な――」
まさか。冗談だよな?
「でもね、私たちはそれをお互いに知っている」
「!」
「都合がいいから一緒にいるんだよ。学校って集団生活だから、孤立するのは何かと都合が悪いんだよね」
絶句する僕を横に、三船は口の端に笑みさえ浮べている。
「だからさ」
三船ゆかりはにっこりと微笑んだ。それは――この場にあまりにもそぐわない表情。
「もし――もしこのギリギリのバランスが崩れるような事があったら、その時は――」
そして。
「殺しちゃうかもよ?」
「……!」
「あははははっ、秘密だよ? ヒ、ミ、ツ。立森ちゃん口堅そうだったからね。でもさ、学校なんてそういう所でしょ? 今日仲良しだったからって、明日もそうとは限らない。昨日の友は今日の敵、昨日の敵は今日も敵、だよ」
そうだろうか。クロのように、昨日まで顔も知らなかった人間と今日仲良くなっているということだってあるんじゃないか?
「おまたせー」
と、遠野と石橋、そしてクロが戻ってきた。
「もう、長いんだからー。待ちくたびれたよ」
対する三船は、さっきの言葉など嘘のように、笑顔で応対する。
やっぱり、さっきのは性質の悪い冗談だったんだろうか? ブラックジョークにしてはあまりに度を越しているような気もするけれど。
三船の、さきほどの言葉と、今の笑顔。真夏の陰影のように、明暗のくっきりとしたその様に、僕は三船の気持ちをはかりかねていた。
*
「にしても、バドミントン部だったなんて、知らなかったな」
南田が呟く。クロが本格的に学校に慣れるまで、休み時間などはなるべく近くにいるようにしているけれど、女子の輪の中に男一人というのが嫌だったから南田を連れてきたのだ。
「まあ、私は二年からなんだけどねー。文香は一年からずっとだよ」
遠野の言葉に石橋は、ははっと笑った。
「長さだけだって。まあ、先輩達とは結構仲良くなったかな」
そう言って、机の中から小さな缶を取り出した。ふたを開けると、ざらっ、とばかりに机の上に大量のプリクラがこぼれだす。
「へへー、すごい量でしょ。先輩達と撮ったやつなんだ」
大小様々なプリクラがあるが、どれも派手に文字やらスタンプやらが施してあり、目がチカチカしそうだ。
それらを見ながら、不意に、クロも普通に学校に来ていたらこういうのを撮ったりしたんだろうか、と思った。
「……ん?」
「何?」
「この人、なんか遠野に似てるな」
それは、他のものに比べて装飾の少ない、比較的地味な一枚だった。石橋と一緒に笑いながら写っているのは、見覚えのない女子だから、きっと先輩なのだろう。
「あー、まだ残ってたか……。そう? 似てる?」
? まだ残ってたか、ってどういうことだ?
「うん、似てる。顔全体としてはそんなに似てないけど、耳とか眉毛とか、細かいパーツがそっくりだ」
何だか、見れば見るほど似ているように感じる。まあ、初めて見る人なんてみんな同じような顔に見えるものだけど……。
「それは浅井先輩だよ。もっとも、もうやめちゃったけどね」
浅井か……遠野じゃないんだな。そういえば、遠野は一人っ子だって聞いたことがある。
「これは一年生のときの?」
クロが口を開いた。
「そうだよ。よくわかったねー」
感心する石橋に、クロは別のプリクラを指差した。
「これと背景が同じだから同じ場所で撮ったと思うけど、背の高さが微妙に違ってる。だから去年のかな、って……」
言い終えてから、はっとクロは口をつぐんだ。そうして、目線だけですばやく周りを見回す。
なんなんだ? 挙動不審なやつ。
「へえ、ひーちゃん良く見てるー! あったまいいね! わたしはそういうの全然ダメなんだよー。脳みそちょっと分けて!」
「……」
クロは、遠野の様子を見て、一つため息をついた。呆れだとかそういうのとは違う。なんだか、何かに安心したような、そんなため息。
「……やっぱり変わんないな」
誰にともなく、ぼそりと南田が小さく呟いたのが聞こえた。
「あーおなかすいた! ちょっと早弁するわ」
石橋が突然叫んで、鞄からアンパンを取り出す。ばりっと勢い良く袋を開けて、パンにかじりつく。
見事なまでの食べっぷり。こっちまでハラ減ってくるな……。
「ちょっと分けて」
「いいよー」
返事と一緒に、石橋は口の周りについた餡子をぺろりと舐めた。三船がパンに手を伸ばして、反対側、石橋が口をつけていない方を少しちぎって口に入れる。
この光景が、仲良しグループの友人達以外の何に見えるだろう。遠野、石橋、三船の三人からはいつも笑い声が絶えない。さっきの三船はどこまでが本当で、どこまでが冗談だったんだろう?
『殺しちゃうかもよ?』
ずっと頭の中にひっかかっている三船のあの言葉。目の前の光景とあの時の三船のギャップがあまりに激しくて、確かめるように何回も反芻しているうちに、あれは嘘だったんじゃないかと思えてくる。あんなの、僕の頭の中の夢か何かで、現実と区別がつかなくなっているだけなんじゃないかと。
だってそうだろう? ましてや一介の女子中学生のどこに、人を殺害する理由があるっていうんだ?
僕は多分疲れてるんだ。うん、そうに違いない。なんたって、つい最近殺人事件に出くわしたばかりだからかな……。
「――ん」
突然、石橋が喉を押さえた。
「石橋?」
「がほッ!」
ひゅう、と鋭く息を吸い込む音を間に挟みながら、石橋は激しく咳き込む。喉の奥から搾り出すような、ひび割れたように枯れた音。
「文香? 大丈夫?」
椅子に座った石橋の体が、ぐらりと傾いだ。口を押さえた指の間から、何か紅い液体が垂れる。
ぽた、ぽた。それは、教室の白い床に奇妙なコントラストを作り上げた。
なんだこれ? 僕はそれを見たことがある。何回も何回も。でも、知りたくない。体が理解する事を拒否している。なんでよりによってこんな場所で――どうして――。
どうして血が。
「文香!」
椅子のたてる甲高い音と共に、石橋は床に倒れこむ。
苦しげに見開かれたままの目、真っ赤に染まった掌。
咳はもう――していない。
日常が壊れる瞬間なんてものはいつもあまりに突然で唐突で。
何日も、何週間も、何ヶ月も何年もかけて、やっと積み上げてきた日々は、皮肉な事に数十秒、異質なことが起こるだけで、あっけなく陥落してしまうのだ。
僕は、石橋を見下ろす。
今更のように、誰かが悲鳴を上げた。一体、何が起こったっていうんだ?
――ああ、そうか。
頭の奥で、何かがぱりんと小気味良い音を立てて弾ける。
僕の日常は、粉々に崩れ去っていた。