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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

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ウィdンドウショオポイング

作者: 埴輪庭

 ◆


 死んでいる、あるいは死にかけている──足が。


 足の裏に、熱した鉛の板を埋め込まれたような痛みを覚える。


 午後三時を回った頃だったと思う。私はこの「ミーオン」なる巨大商業施設の二階、婦人服売場と三階の雑貨店を結ぶ吹き抜けに面した休憩用ソファへ、殆ど崩れ落ちるようにして腰を下ろした。


 妻は今しがた「ちょっとだけ見てくる」と言い残して何処かへ消えていったが、その「ちょっと」という言葉の信用ならないことは結婚して十七年の歳月が嫌というほど私に教えてくれている。


 あの言葉は詐欺だ。


 世に詐欺師は数多あれど、妻の「ちょっとだけ」ほど巧妙に人心を欺く言葉を私は知らない。思えば太宰治が「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と書いたのは恋愛の文脈だったが彼は商業施設における夫婦の有り様を全く想定していなかったのではないか。待つ身が辛いに決まっている。待たせる身は今頃、春物のブラウスだのスカーフだのを次々と手に取っては鏡に当て、恍惚の表情を浮かべているに違いないのだから。


 私の両脚は既に悲鳴を上げていて、特に左の踵には水膨れが出来かかっているのが靴下越しにも判る。


 今朝、妻が「ミーオンに行きたい」と言い出したとき、私は迂闊にも「ああ、いいよ」と答えてしまった。あの軽率な返事を私は今生涯の不覚として深く恥じねばならない。いや、恥じるどころではない、あれは私の犯した罪であり、その罪に対する罰として今この苦行があるのだと思えば、少しは気が楽になるというものだ。


 ソファの合皮が尻に貼り付くような不快な感触がある。


 空調は効いているはずなのに背中にはじっとりと汗が滲んでいて、シャツが肌に纏わりつく。周囲を見渡せば、吹き抜けの向こうには色とりどりの看板が林立し、行き交う人々の足音と話し声と、何処からか流れてくる店内放送の甘ったるい音楽とが渾然一体となって、一種異様な音の壁を形成している。


 この騒音の只中に身を置いていると、却って耳の奥に静寂が降りてくるような錯覚に陥るのは何故だろう。


 私はふと、向かいのソファに目をやった。


 其処には私と同じような境遇と思しき男が一人、やはり崩れ落ちるようにして座っていた。年の頃は四十代半ば、少し禿げ上がった額に疲労の色が濃く、眼鏡の奥の目は虚ろに宙を見つめている。その姿を一目見た瞬間、私の胸に得も言われぬ親近感が湧き上がってきたのはすなわち親近感であった。


 彼もまた、此処に至るまでに幾多の試練を乗り越えてきたに違いない。靴売場の前で「これとこれ、どっちがいいと思う?」と問われ、どちらを答えても不正解だと悟りながら賭けに出た経験、食器売場で妻が三十分かけて選んだマグカップを「やっぱりやめとく」の一言で棚に戻すのを見届けた虚無──そういった幾重もの徒労の果てに彼は今此処にいるのだ。


 私は勝手に彼を「戦友」と呼ぶことにした。


 戦友よ、君の苦しみは私の苦しみだ。君の疲労は私の疲労でもある。我々は言葉を交わすことなく、しかし深い部分で繋がっている。


 戦友は時折、深い溜息を吐いている。その溜息の重さよ。あの溜息の中には彼の人生における様々な断念と諦念とが凝縮されているに違いない。彼は若い頃、何を志していたのだろう。野球選手になりたかったのかもしれない。もしくは外資系のエリート商社マンでも目指していたのかもしれない。


 しかし今、彼は此処にいる。


 ミーオンの休憩用ソファに虚ろな目で座り込んでいる。


 人生とは斯くも無情なものか。


 中原中也が「汚れつちまつた悲しみに」と詠んだのは或いはこのような状況を予見してのことだったのではないか。酷い状況に、さらに悲惨な何かがふりかかる、とでも言う様な。汚れてしまった悲しみに今日も小雪の降りかかる、汚れてしまった悲しみに今日も風さへ吹きすぎる。嗚呼、我々の悲しみもまた、すっかり汚れてしまっている。


 ふと気づくと、戦友の左隣にはもう一人、若い男が座っていた。二十代後半と思しきその青年はスマートフォンを握りしめたまま、画面を見るでもなく呆然としている。恐らく彼女に連れて来られたのだろう。


 まだ結婚前の、希望に満ちた時期にあるはずの彼が既にしてこの有様とは。私は彼に同情を禁じ得なかった。


 君よ、今ならまだ間に合う。引き返せ。この道の先には君が想像だにしない地獄が待ち受けているのだ。しかし私の警告は当然のことながら彼の耳には届かない。彼は今、彼女の「ちょっとだけ見てくる」を信じている真っ最中だろう。私は無力だ。彼もまた、無力だ。


 私は青年を「新兵」と名づけることにした。


 新兵よ、君はまだ知らないのだ。「ちょっとだけ」が三十分を意味し、「最後の一軒だけ」が五軒を意味し、「今日は何も買わない」が三万円の散財を意味することを。それらの言葉の裏に潜む真実を理解するには君にはまだ修行が足りない。


 吹き抜けの向こう、エスカレーターの傍に設置されたベンチにも男たちが点々と座り込んでいるのが見えた。遠目には判然としないが皆一様に疲弊した様子だ。彼らは誰一人として、隣の者と言葉を交わすことがない。


 我々は孤独だ。


 しかしその孤独を共有しているという一点において、我々は孤独ではないのかもしれない。この矛盾した感覚を何と呼べばよいのか、私には分からない。


 ◆


 思えばダンテの『神曲』において、地獄には九つの圏が設けられていた。しかしダンテは商業施設における夫婦同伴の買い物という地獄を見落としていたのではないか。若しダンテがこの光景を目にしたならば、彼は第十圏を追加せざるを得なかったに違いない。


 其処では罪人たちが永遠に妻や恋人のウィンドウショッピングに付き合わされ、「ねえ、これどう思う?」という問いに対して永劫に答え続けねばならないのだ。想像するだけで身の毛が弥立つ。


 時計を見ると、妻が消えてから既に四十分が経過していた。「ちょっとだけ」の詐術、健在だ。私は溜息を吐いて天井を見上げた。高い天井には無数の照明が並び、その光が目に染みるようだった。この照明の下で一体どれほどの男たちが消耗し、疲弊し、絶望してきたことだろう。この床には彼らの涙と汗と魂の残滓が染み込んでいるに違いない。私は今、その堆積の上に座っている。


 戦友が不意に立ち上がった。


 何処かへ行くのかと思いきや、彼は数歩歩いて近くの自動販売機でお茶を買い、また同じ場所に戻ってきた。その一連の動作の緩慢さ、覇気のなさよ。座り直すと、ペットボトルの蓋を開けることもなく、ただそれを両手で握りしめてじっとしている。恐らく彼にはもう、蓋を開ける気力すら残されていないのだろう。私には彼の心情が痛いほど分かる。私とて同じ状態なのだから。


 新兵の方は依然としてスマートフォンを握りしめたまま動かない。彼の彼女から「もうちょっとかかりそう」という連絡でも来たのだろうか。若しそうなら、彼女の「もうちょっと」は最低でも二十分を意味することを彼はまだ学んでいないはずだ。


 可哀想に。


 しかし誰しも最初はそうなのだ。人は経験によってのみ賢くなる。彼もまた、幾度かの試練を経て、やがて我々の境地に到達するのだろう。


 私は再び周囲を見渡した。この広大なフロアの其処此処に我々のような男たちが点在しているのが見える。彼らは皆、それぞれの戦いを終え、或いはまだ戦いの最中にあり、束の間の休息を貪っている。この光景を上空から俯瞰したならば、さぞかし滑稽に映ることだろう。巨大な迷宮の中に疲れ果てた男たちが点々と座り込んでいる様は何かの現代美術のインスタレーションのようでもある。題名は「消耗」とでもつけようか。或いは「徒労」でも良い。「虚無」も捨て難い。


 エスカレーターから降りてくる人々の流れを眺めていると、時折、買い物袋を大量に抱えた女性が通り過ぎていく。その傍らには決まって疲弊した男性が付き従っている。彼らの目は死んでいる。希望の光は微塵も宿っていない。あの男たちは今日一日でどれほどの距離を歩かされたのだろう。一万歩か、二万歩か。歩数計があれば計測したいところだが恐らくその数字を知ったところで虚しさが増すばかりだろう。


 待つこと暫し。


 新兵が立ち上がった。何処かへ行くらしい。彼女に呼ばれたのだろうか。後ろ姿を見送りながら、私は一種の哀愁を覚えた。行け、新兵よ。君の前途は多難だ。しかしそれもまた人生というものなのだ。君が今日学ぶことは君の将来にきっと役立つ。役立つと信じたい。役立たないかもしれないが。


 気づけば、向かいには戦友だけが残されていた。彼と私は今やこの空間における最後の生存者のような趣がある。我々は互いに言葉を交わすことなく、しかし確かに何かを共有している。それは疲労であり、諦念であり、そして微かな連帯感だ。我々は他人だ。しかし他人であることを超えた何かが我々の間には存在しているように思えてならない。


 私はふと、サルトルの言葉を思い出した。「地獄とは他人である」というあの有名な一節だ。しかし今の私にはその言葉は当てはまらないように感じられる。少なくともこの場においては他人は地獄ではない。むしろ、他人は救いだ。戦友の存在が私をどれほど慰めてくれていることか。彼が其処にいるというだけで私は孤独ではないと感じられるのだから。サルトル先生には申し訳ないが、商業施設における男たちの連帯は存在論的地獄を超越するといっても過言ではなかろう。


 いや、過言か。過言だな。


 ◆


 時計を見ると、妻が消えてから一時間が経過しようとしていた。「ちょっとだけ」の詐術、猛威を振るい続けている。私は溜息を吐いて、再び天井を見上げた。この天井を見上げるのは今日何度目だろう。天井には何もない。ただ照明があるだけだ。しかしその何もない天井を見上げることに私は一種の慰めを見出している。何もないということ自体が慰めなのだ。虚無の中にこそ平安がある。ニーチェはそのようなことを言っていたか。言っていなかったか。もう何でもよい。


 戦友が不意に立ち上がった。今度は自動販売機ではなく、何処かへ歩いていくようだ。奥方が戻ってきたのかもしれない。私は心の中で彼に別れを告げた。さらばだ、戦友よ。君との邂逅は私の人生における一つの出来事として記憶されるだろう。或いは記憶されないかもしれないが少なくとも今この瞬間、私は君との繋がりを感じている。それだけで十分ではないか。


 戦友が去った後、私は一人になった。向かいのソファには誰もいない。新兵も消えた。私はこの広大な空間の中でただ一人座り込んでいる。孤独だ。しかし不思議と寂しくはない。先程まで戦友がいた、新兵がいた、という事実が私を支えてくれているのかもしれない。彼らは去った。しかし彼らとの束の間の連帯は私の胸の中に残っている。


 ふと、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が頭をよぎった。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」という冒頭の一節だ。私は今、雨にも風にも負けている。完全に負けている。しかしそれでも此処に座り続けている。それもまた、一種の強さではないか。いや、強さではなく単なる諦念だろうか。よく分からない。


 ああ、頭の中にどんどん訳の分からない事が浮かび上がっては消えていく。それは宇宙的観点から観た人の生涯のようなものなのかもしれない。そうだ、宇宙だ。


 私は宇宙の中にいる。


 そんな事を考えていると、エスカレーターの方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。妻の声だ。「あ、いたいた」と言いながら近づいてくる妻の姿が見えた。手に幾つかの紙袋を提げていて、その表情は晴れやかだった。


「ごめんね、ちょっと時間かかっちゃった」


 妻はそう言って微笑んだ。ちょっと、という言葉の軽さよ。一時間を「ちょっと」と言い切る神経の図太さよ。しかし私は何も言わなかった。理由は色々とある。


 まあ端的に言えば、彼女が好きだからだ、という感じだろうか。


(了)

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― 新着の感想 ―
おやおやおやおやおやおやおや……  ごちそうさまでした。と、言って置きましょうか。
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