そして啄む
死にたい。
別に、大した理由があったわけじゃない。
この平和な国で、学生として何不自由なく暮らせている。
それだけで恵まれた立場だろう。
生きたいと願いながらも命を失う人々が、余りにも多いこの世界で。
死にたいと思ってしまうことの如何に罪深いことか——。
理解しているつもりではある。
だが感情というものは、如何ともし難いものである。
他人からすれば、命を失うに足る理由にはなり得ないとしても。
ただ死にたいと思ってしまうのは、どうしようもないことなのだ。
たとえば親子関係。
世間では親ガチャがどうのと言われたりもするが、うちは実に真っ当な親である。
この高校だって私立校だ。高い費用を、何も言わずに払ってくれている。
いや、まぁ、何を以て「真っ当」とするかは凡そ人に依る処で。
仮に学習費が自己負担だとしてもだからどうだ、と言う気はないが。
しかしうちの親をして、「真っ当ではない」などと言った日には、おそらくバチがあたるだろう。
然るにきっとうちの親は、真っ当な親の筈なのだ。
だから其処に不満はないのだ。
高校に通わせてくれていることも、食事を作ってくれることも。
将来ああしろこうしろだとか何も言ってこないことも。
感謝している。
其処に嘘はない。
愛してもいる。
其れも嘘じゃない。
そしてきっと、ありがたいことに、愛されてもいる。
だから。
不満はない。
たとえば友人関係。
性格の悪い者なんて周りにはいない。
皆、勿論多少の隠し事などはあるだろうが、騙したりなどは出来ない人間達だ。
日々何気ない会話で盛り上がり、それなりに悩みを抱え、時に打ち明け、解決の道を共に探る。
稀に喧嘩もするが、やがて分かり合い、考え方への理解を深めて互いを尊重する。
此処にも不満など有りはしない。
能力への嫉妬もある。
立場への憧れもある。
だが嫉妬や憧れは原動力となる事を知っている。
愛しているし、愛されている。
私が彼女らにこの願望を洩らした日には、叱責されてしまうであろう程には。
やはり、不満はない。
たとえば国家。
たとえば世界。
思うところはないではないが。
明確な不満があるかと言えば、私にはない。
そんな立派な事を宣えるならば、きっと死にたいなんて言っていられない。
でも、あぁ。
だから、そう。
不満なんてないのだ。
私を構成するモノも。
私を取り巻く全ても。
何も不満が生まれる点はないのだ。
でも考えてみるならば。
きっとソレが不満なのだ。
変わり映えのしない日常が。
私はきっと不満なのだ。
恵まれたこの環境が。
どうしようもなく不満なのだ。
そして其れを捨てることなんて、私には出来はしないのだ。
ソレが何よりも不満なのだ。
だから死んでしまいたい。
足元に広がる橙色に、とっとと飛び込んでしまいたい。
この橙に身を投げ入れれば、きっと赤に変わるだろう。
でもそれもできないのだ。
この校舎の屋上から、グラウンドへ飛び降りたとして。
果たして無事に死ねるのか。
両親はどう思うのか。
飛び降り自殺は痛いと聞く。
他人にぶつかってしまいやしないか。
色々なことが頭を巡って、一歩も足が動かない。
そして動かない事にホッとする自分もいる。
あぁ、なんだ。
そこまで追い詰められてやいないじゃないかと。
ならばきっと、今ではないのだ。
少なくとも今ではないのだ。
いいや、きっといつまで経っても「今」ではないのだろうけど。
そんな時は来ないというか、きっと無いのだろうけど。
命をどうこうして良いタイミング、なんてモノは。
わかっている。
わかっているとも。
だから飛び降りなかったじゃないか。
今日も、昨日も、一昨日も。
そして明日も明後日も。
きっと私は飛び降りない。
手首を切らないし、首を吊らないし、薬を過剰に飲んだりもしない。
でも、あぁ、死にたいとは思う。
どうしようもなく死にたいと思う。
そう思い続けて、かれこれ17年間生きている。
思い始めたのはいつ頃だったか、しっかりと思い出せないけれど。
だってそれはそうだろう。
大した理由もないのだから。
私の心に巣食ったこの願望は、育つことこそないが消えもしない。
ずっと心の中枢に、我が物顔して居座っている。
口先だけじゃない。
心の底から思っている。
でも行動には移せない。
だからこう言った方がいいだろうか。
いつ死んでも構わない、と。
そんな風に、思っていたんだ。
ある日崩れた天気の中、屋上へ出るのすら憚られて、君の——
「雨が止みませんね」なんて。
そんな言葉を聞くまでは。
時が経った。
とても経った。
橙は黒に変わっていた。
そしてこの間、18本の並んだ蝋燭の火を消した。
空には円い月が出ていて。
思い返せばあの時は、下しか見つめていなかった。
随分な心変わりだと笑われるだろうか。
芯のない女だと呆れられるだろうか。
でもきっとそんなものなのだ。
何せ、大した理由なんてなかったのだから。
いつかこれすら不満に思う日が、またやってくるのだろうか。
あぁ、あってもおかしくはない。
だって大した理由はないのだから。
でもその時にはまたきっと、君が察してくれるだろう。
だからあまり心配はしていない。
こんなにあっさりと変えられてしまったのだ。
また変えてくれると信じている。
君が変えられないとしても。
君との間で変わっていくと信じている。
君との間で生まれるものが。
変えてくれると信じられる。
「先輩! 月、綺麗ですね!」
あぁ——君がそれを言うのか。
私から返す言葉を奪っておいて。
ならば仕方ない。
そう、仕方ない。
言葉を奪われてしまったなら、態度で返すほかないのだから。
なんだかんだと生きておりました。
私に彼女のような変化はないけれど。
それでも日々を過ごしております。
今回は「死んでもいいわ」なんて、言えなくなった女の子のお話です。
そのテーマを書きたいためだけに、手癖で飾って短編にしました。
彼女は恋愛でしたが、世の中それ以外でも、生きているうちにいつか変化があったりします。
この思いつきの文章が、もし誰かの日々の小さな変化になれば、幸いです。




