濁った百合は戦禍に咲く、そして戦場に散る
この国に住む者たちは皆、涙を知らない。
北側の大国ガラストリアと南側の帝国アリヴァクナ帝国が戦争を初めてもう何年経っただろうか。
きっかけはアリヴァクナ帝国によるガラストリア統治領への侵略であった。ガラストリアとアリヴァクナ帝国の両国間で始まった戦争は、すぐに周辺諸国にまで及び、最終的に世界を二分する大戦へと発展していった。
世界を巻き込んだ大戦は長期化し、そのなかで様々な国が脱落していったが、なおもガラストリアは大戦の中心にいる。
戦争が長期化した今、ガラストリアの住人は産まれた瞬間から隣で微笑む死に怯え生きていく。
そんな生活を誰もが当たり前に送っている。
隣り合わせの絶望が、本来存在するはずの涙を人々の中から枯らしてしまった。
ガラストリア・アミリス市──
無表情な土地にひとり水を撒いている銀髪の少女がいる。
周囲が山に囲まれ、時代の中に取り残されたかのように古めかしい、ここアリミス市は、戦地からはかなり離れた場所にある農村である。
そのため他の町と比べれば、安全といえば安全といえるだろう。
しかしそうはいっても、毎日のように人が死んでいる。
アミリス市の主たる産業である農業は、長年不作が続いており、農作物を売って得られる収入はないに等しい。
また、ガラストリアの僻地に位置するアミリス市から、住人が自らの力だけで出稼ぎに行くことは難しかった。
これらが要因となってガラストリア国内でも特にアミリス市は貧困が進んでいた。
重度の貧困に苦しみ、人が死んでいくといった光景がアミリス市の日常であった。
死をもたらす貧困を前にアミリス市は、人も動物も植物さえもが生きることをあきらめかけたような異様な町と化していた。
そんな異様な町でただただ意味もなく土埃を立てながら水を撒いている少女の名は、ミッシェル・ドリシア。
今年で十五歳になる。
彼女の美しい銀髪が、夕日に照らされ場違いによく映える。
そんな彼女もまた、涙を知らない一人である。
「何をやってるんだミッシェル。たかが水撒きに何分かけているんだ」
「ほんと何をやらせてもダメだね」
「はい……すみません……」
水撒きを終えたミッシェルが家に帰ってくるとおじさんとおばさんが嫌味をいってくる。
水なんて撒いてもたいしてなにも育ってこないじゃないか、という気持ちを抑えてミッシェルは返事をした。
「遊んでたんじゃないだろうね」
「……いえ……」
「少しは、役に立ったらどうだい。いつまで経っても役に立ちゃしない」
「……すみません……」
「すみませんすみませんじゃないよ。謝るばかりで本っ当使えない子だね」
「……すみません……」
「まぁいい、早く晩飯を作ってくれ」
「あんたが水撒きに時間をかけたせいでいつもよりご飯を食べる時間が遅くなっているんだから急いで作るんだよ」
「……はい……」
自分たちでは何もせず、嫌味を言いながら結局はミッシェルに晩御飯を作らせようとする、おじさんとおばさん。どこまでも自分勝手な二人に少し呆れながら、まぁいつものことだとミッシェルは素直に部屋を後にした。
ミッシェルがおじさんおばさんと暮らす家の(とはいっても周りのどこの家もそうだが)炊事場は家から出て、すぐ隣に立っている小屋の中に設置されている。
季節は十二月。
水撒きを終え、おじさんとおばさんがいる暖炉のある部屋で少しの時間だが滞在したおかげで温まった体も、外に出ると一瞬でまた冷えてしまう。
すぅっふぅ……。
外のあまりの寒さに家から一歩出たミッシェルは刷り込まれた反射のように、一瞬息を短く吸い、瞬時に息を長く吐いた。
ただ、外の寒さで足を止めるわけにもいかず、何事もなかったように息を吐く流れに乗せて、二歩三歩とミッシェルは足を出す。呼吸をするたびに白い息で視界が霞む。
小屋に着いたミッシェルは、積まれている薪を手に取り、かまどの中に入れ火をつけた。
これで少しは寒さを和らげることができるだろうといつも期待するミッシェルだが、小屋には戸もなく、ところどころ隙間も空いている。
たった一つのかまどに火をつけたところで、ミッシェルの体が温まることはない。
寒さがどうにもならないことを知りながら、淡い期待のもとかまどに火をつけたミッシェルは、隅の方に置いてある二つの茶色い麻袋に手を伸ばし、それぞれの袋からジャガイモとタマネギを取り出す。
ミッシェルが手に取ったジャガイモは細く、タマネギは小さいが、それでもアミリス市の瘦せた土地で育った数少ない農作物である。
アミリス市の住人は、直接食料としても消費するが、これらを売って、少ないながらも現金収入を得ていた。貧しく食糧難が続くアミリス市で、奇跡的に育ったジャガイモとタマネギは、まさに救世主であった。
そんなジャガイモとタマネギを使って今日はスープを作る。今から作るスープはミッシェルの家で定番となっており、これまでに数えきれないほど作ってきた。一番の得意料理といってもいい。
そのため手際よく、調理を進める。
ジャガイモとタマネギの皮をむいて、
皮をむいた材料を切って、
切った具材を水と調味料とともに煮込む。
あとは煮詰まるのを待つだけ。
手際よくといっても、彼女の小さい手は冷風冷水にさらされ感覚は鈍り、もはや手を握ってもうまく力が入らない。なので煮詰めている間、かまどの前にしゃがみ込む。そしてかまどに手のひらを向ける。
暖かい……。
かまど一つで小屋の中を暖めるほどの効力はないが、さすがにかまどの火の前はそれなりに温かく、冷え切った手にじりじりと染み渡る。
ボーっとかまどの中の炎を眺めているうちに気づけば先ほどまで白々としていた手は、赤みを取り戻していた。ミッシェルは、温めている手を何度か握ったり開いたりを繰り返してみる。
「よしっ」
温めた手はスムーズに動き、力も入る。
十分に手を温めたミッシェルは、小さく「よしっ」と言って立ち上がり、鍋の様子をうかがう。ちょうど、スープもいい具合に煮詰まっているようだ。
スープが完成したのでかまどの中に水をかける。妖々と燃えていた火は、一瞬にして鎮火してしまった。
火が消え灰だけになると、小屋の中も一気に静けさが増した。
暗く冷たい静けさを感じなら、ミッシェルはスープの入った鍋を両手で持ち、小屋を出た。
ミッシェルの細い腕でスープの入った鍋を持つと、ひどく震えてしまい、腰も少し後ろに引けてしまう。
こぼさぬように、落とさぬように、こけないように、ゆっくりと。
慎重に慎重に歩くミッシェルだが、小屋と家は隣接しているわけで、対して時間は掛からずに家のドアの前に到着した。
当たり前だが、鍋を持っているミッシェルの両手は塞がっている。
このままではドアを開くことはできない。
普通であれば、家の中におじさんとおばさんの二人がいるのだから一言声をかけて開けてもらうだろう。
しかし、ミッシェルは知っている。
あの二人はいくら声をかけても開けてくれないことを。
もちろんミッシェルも、以前に何度も頼んだことがあった。けれども、ミッシェルの呼びかけに対して、ドアが内側から開くことは一度もなかった。
自分で開けなければいつまで経ってもドアが開くことはないことを、すでに知っているミッシェルは、足元に置いてある数個のレンガの上に鍋を置き、自らドアを開ける。
ドアの隙間から少し洩れていた部屋の明かりが、ドアを開けるとミッシェルの小さく細い体をふんわりと包み込む。
「ふんっ」
陽とした明りに包まれながら、ミッシェルは足元の鍋を持ち上げる。
持ち上げる際に、ミッシェルの口から吐息交じりの薄い声が漏れた。
ミッシェルは部屋に入ると、三人暮らしの家にしては、少し大きすぎる木のテーブルにスープ入りの鍋を置く。
鍋をテーブルに置いたのと同時に、おじさんとおばさんが中身をのぞき込んでくる。
「またこれか」
「すいません……」
鍋の中身を確認したおじさんは、痛みを感じるほど寒い外で、その寒さを我慢しながら晩御飯を作ったミッシェルに、感謝を述べることも、労いの言葉をかけることもない。
それどころか、もくもくと湯気を上げている鍋の中身について不満を吐き出す。
もちろんおじさんの不満もわからないわけではない。
実際に、最近は毎日のようにこのスープが食卓に上がっていた。
しかしそれは、アミリス市の限られた食材で作ることができる料理も限られているためであり、そんな中でも、少しでもお腹にたまるようにとミッシェルが考えていたためである。
アミリス市の食材不足からくる、食卓の景色の貧相さに対して不満を漏らされてもミッシェルにはどうすることもできない。
食材不足から料理のバラエティが限られること、少しでも二人にお腹いっぱいになってもらおうとするミッシェルの優しさ、そんなことを考えようとしないおじさんの言葉に、ミッシェルは俯きながら口癖のように謝罪の言葉を発する。
「ぼさっとしてないで、食器とパンを持ってきて早く準備してちょうだい」
「はい……」
ミッシェルの優しさを考えようとしない者は、この空間にもう一人いる。
おじさんの言葉に、俯きジッと立ち尽くしていたミッシェルに、おばさんが妙に厚みがあり温度の無い声で、食卓の準備を急かすように要求してくる。
おじさんの不満に固められたミッシェルの体は、おばさんの温度の無い声に溶かされた。
ミッシェルは、少し慌てながら食器とパンをテーブルに並べ、おばさんの要求に応える。
食卓に置かれた手のひらサイズの丸いパンは、農作物を売って得たお金で、おばさんが買ったものである。
貴重な農作物を売って手に入れたこのパンは、当然貴重な食べ物である。むしろそれどころか、パンの方が農作物より値段が高いため、アミリス市の救世主ジャガイモ・タマネギよりも一層貴重だと言える。
それ故か、ミッシェルはいつもパンを食べさせてもらえない。
おじさんとおばさん、二人の前にはスープの入った白い皿と丸いパンが並び、ミッシェルの前には、スープの入った白い皿だけが並んでいる。いや、置かれているといったほうが正しいだろう。
「何を見てるんだいミッシェル。気持ち悪いわね」
「いえ……何も……」
「嘘つくんじゃないよ。さっきからジロジロとパンを見てるじゃないか」
「……」
「あんたみたいな役立たずが、パンを食べられると思うかい」
「いえ……」
「あんたはスープだけで十分だよ。いや、スープを食べさせてもらえるだけ有難く思いな」
「はい……」
「ふん、パンが食べたきゃ、もっと働くんだね」
「はい……」
「本っ当、意地汚い子だよ」
「……」
無意識のうちにミッシェルの視線は、二人が食べているパンに向いていた。
自分がパンを食べさせてもらえないことは、十分に理解しているミッシェルだが、目の前で二人が食べている姿を見ると、どうしても二人の口に運ばれていくパンを注視してしまう。
どんな味だっただろうか。
どんな食感だっただろうか。
最後に食べたのはいつだろうか。
ミッシェルは、パンの味も食感も、最後に食べた記憶も覚えていない。
記憶にないわけだから、そもそも食べたことがないかもしれない。
ミッシェルも人の子。しかも十五歳の少女である。
どれだけ自分の心を殺そうが、どれだけパンは諦めろと自分に言い聞かせようが、それでもやはり、食べてみたい。目の前で食べる二人の姿を見ればそれはなおさら。
そんな彼女の視線に、欲望のままに生きる二人が気付かないわけがない。
ミッシェルの視線に気づいたおばさんは、鋭い目つきで睨みつけてきた。
左手に齧りかけのパンをしっかりと持ちながら。
その眼光にミッシェルの視線はパンからは外れた。
おじさんに至っては、何も言葉を発することはなく、一心不乱に貪るように、パンとスープを食べている。
皿とスプーンがぶつかる音、
スープをすする音、
口を大きく開け、パンをクチャクチャと唾液をたっぷりと絡ませ咀嚼する音。
無言で食事をしているはずのおじさんから、荒々しく、卑しく食事をする音が、うるさいほどに聞こえてくる。
ついには、ミッシェルに言いたいことは言い切ったと、おばさんまでもが同様に、けたたましい音を立たせ始める。
狭い部屋に響き渡る雑音を聞きながら、雑音の元凶である二人とは対照的にミッシェルは、しんしんと慎ましやかにスープを食べ進める。
結局、ミッシェルの食事はスープだけだが、作り立てのスープは体を内から温めてくれ、少しだけ心もほっとした。
食事を終えた後も、二人に言われるがまま、いつものように後片付けなどを慣れた手つきでこなすミッシェル。
こんな生活を毎日送っているせいだろうか。
彼女の手は、痛々しいほどに荒れている。
動かすたびに手は疼き、白い手肌に血が滲む。
痛みを極力感じないように、荒れた手からなるべく意識をそらしながら、淡々と家事を行うミッシェルは、早々に家事を済ませてしまった。
「あの……終わりました……」
返事は帰ってこない。
二人は、先ほどまでスープの入った鍋が置かれたテーブルに、マス目上の模様の入った板を置き、何やらゲームのようなものに勤しんでいる。それが何というゲームなのかは、ミッシェルにはわからない。ミッシェルにわかるのは、毎晩二人がこのゲームを夢中になってやっているということだけだ。夢中になっているといっても、ミッシェルに返事を返さないのは、聞こえてないからではなく、意図的だろうが。
意図的な沈黙を二人の返事と捉えて、できるだけ二人と同じ空間にいたくないミッシェルは、まだ寝るには早いが、とりあえず二階の寝室に向かう。どうせ返事は帰ってこないだろうと、二人には何も告げずに。
寝室に入ると、窓から月の明かりが部屋の中に差し込んでいる。そんな月明かりに照らされ、埃が舞っているのがわかった。
今日は、電気はいいや。
月の明かりが入っているといっても、まだまだ部屋は薄暗い。しかし、もう寝るだけ。寝るには、これぐらい薄暗いほうがちょうどいいだろうと、ミッシェルは電気をつけないことにした。
ミッシェルは、月光を部屋に取り込んでいる窓に向けて歩き出す。そして、窓際に置いているベッドに座る。
彼女が窓際にベッドを置いているのには理由がある。それは、窓から夜空を眺めるためだ。
毎晩おじさんとおばさんがゲームをやっているように、ミッシェルは毎晩夜空を眺めていた。
この時間が、彼女の唯一といっていい癒しだった。
今日もいつものようにベッドに座り、毛布を体に巻きつけて夜空を覗き込むミッシェル。
今夜は、月もそうだが星がよく綺麗に輝いているようだ。
もちろん、ミッシェルは星が輝く夜空も好きである。しかし彼女が好きな夜空は、月が輝く、星が輝く夜空だけではない。
月も星も浮かんでいない、吸い込まれそうな青黒い夜空も好きである。
月にも星にも何者にも支配されていない混じりっ気のない夜空に何度彼女は、憧れたことか。
広く、深く、濃い夜空に憧れを抱きつつ、夜空を眺めている間、彼女は特段何か考え事をしたり、思いを巡らせているわけではない。
ただただぼんやりと夜空を眺めている。
だからいいのだ。夜空だけが、ミッシェルを現実から連れ出してくれる。
数分、数十分、どれだけ夜空を眺めていたかはわからない。今日も夜空に視線を奪われたミッシェルは、ふと我に返る。
ちょっと窓開けてみようかな。
それこそ夏など気温が低くない日は窓を開け、そこから顔を出してより広い夜空を楽しむのだが、今は冬。外はかなり寒い。ここ数日は、窓から見える夜空だけを楽しんでいた。
しかし今日はなんだか窓を開けて眺めたい。
うっ……寒い……。
窓を開けた途端に、尖った冷気がミッシェルを襲う。
ミッシェルの寝室には暖房器具はなく、かなり室温は低く寒いが、段違いに外は寒い。
そうはいっても、彼女にとってもはや寒さは一瞬。
白い息を吐きながら、頬と鼻の先を赤く染めながら、窓の外に広がる夜空に恍惚とする。
久しぶりに広大な夜空を見たせいか、今日の夜空はあまりにも美しく彼女には感じられた。
美しい夜空にまたもや視線を奪われつつ、彼女は何気なくその視線を下に向けた。
暗い地面に少し、一階の部屋の明るさが延びている。
どうやらまだ、二人は起きているらしい。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ミッシェルは、物心つく前からおじさんおばさんと暮らしている。
二人から聞いた話によると、ミッシェルの父親と母親はすでに亡くなっているらしい。
ミッシェルの父親と母親は彼女が生まれてすぐ、ツテを辿り出稼ぎに出ていった。
貧弱なアミリス市では、彼女の母親は十分に栄養を得ることができずその結果、母乳がほとんど出なかった。
このままではミッシェルが死んでしまうと考えた父親と母親は、隣に住んでいた弟夫婦に幼い彼女を預け、ほかの町でお金を稼いで弟夫婦に仕送りをし、その仕送りでミッシェルを育ててもらうことにした。
そこから、数年は毎月お金と、まだ字の読めないミッシェル宛てに手紙が届いた。
様子がおかしくなったのはミッシェルがちょうど三歳になる頃だった。
毎月送られてきたお金と手紙が、ぱたっと届かなくなった。
一か月、二か月、三か月…………。
仕送りが止まって半年は過ぎただろうか。
一通の手紙が送られてきた。
ミッシェルを両親の代わりに育てている二人が中身を空けると、そこにはミッシェルの父親と母親がすでに亡くなっていることが書かれていた。
彼女の両親が仕事を求め向かった先は戦場であった。
当然、二人は戦場だと思ってアミリス市を出たわけではない。
二人は知り合いに工場の仕事を紹介され、アミリス市を出た。
しかしそこは戦場であった。
ミッシェルの両親は、仕事を紹介すると言ってきた知り合いに騙されたのだ。
騙され、死んだ。
送られてきた手紙からは、そんなことを読み取ることができた。
手紙の差出人はわからない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ミッシェルは、夜空を眺めるのをやめ、座っているベッドに横になる。
普段あまり両親のことを考えたりはしないが、今日はいやに考えてしまう。
声も体温も覚えてはいない父と母に別にいまさら会いたいとは思わない。会いたいとは思わないが、たまに寂しさは感じる。
今日はそんな日だ。
固く、埃っぽく、少しかび臭いベッドがより一層寂しさを加速させる。
…………………………
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………………………………………………………………………………
やっぱり会いたい。
寂しさを胸に、ミッシェルは両親に思いを巡らす。
存在しない思い出を描きながら、いつしか彼女は眠りについていた。
まだ外はぼやけている。
目を覚ましたミッシェルは、眠たい体を無理やり起こし一階に降りる。おじさんとおばさんの姿はない。いつものように昼近くに起きてくるのだろう。口うるさい二人を起こさぬようそっと家を出る。
ミッシェルは、銀色のじょうろを持って畑に向かう。
朝一番の仕事は水撒きである。水撒きは基本、朝と夕に行う。
畑の近くには、小さいながら川が流れているため、川の水を汲みながら畑に撒いていく。
水を汲み、水を撒く、水を撒き、水を汲む、そしてまた水を撒く。この繰り返しだが、かなり時間と労力がかかる。
アミリス市でジャガイモとタマネギが育ったといっても、半分以上は芽も出てこない。他の作物に関しては一本も芽が出ることはない。
ほとんど無意味といっていい水撒きを、まじめに行うミッシェル。
ミッシェルが歩くたびに乾燥しきった畑の土が足元で小さく舞う。毎日の水撒きで彼女のブーツは土埃まみれになっていた。
水撒きを半分ほど終わらせた頃、どこからかアミリス市ではあまり聞き馴染みのない音が聞こえ、近づいてくる。
車の音だ。
数秒考え、これが車の音であることがミッシェルにはわかった。アミリス市に車を持っているものはおらず、このアミリス市で車の姿を見るとしたら、外の町からやってくる車ぐらいである。
アミリス市には、三ヵ月程度の間隔で車がやってくる。何をしにやってくるのかというと、アミリス市で育った農作物を買い取りに商人がくるのだ。それだけではなく、農作物を買うと同時にパンなどを売りに来る。
車の音だとわかったミッシェルは不思議に思った。ついこないだ、商人がこのマチには来たはずである。その日、おばさんもパンを買っていた。
また商人が来たのだろうかと、ミッシェルは少し怪訝そうに水撒きをするのをやめ、音のする方を振り向く。やっぱり車だ。黒い車が大きな土埃を舞い上がらせながらこちらに向かってくる。車は小さくどうやらいつも来る商人の車ではないようだが、その車はなんとミッシェルの家の前に止まった。
なんだろう。なぜ私の家の前に? あれじゃ、農作物も持って帰れないじゃ……。
怪しい車をミッシェルが眺めていると、家の中からおばさんとおじさんが出てくる。
ミッシェルの姿に気づいたのか、
「ミッシェル、ちょっとこっち来なさい。グズグズしていないで、さぁ早く」
大きな声でおばさんが、ミッシェルを呼ぶ。
私に何かあるんだろうか、不可解な面持ちで二人のもとに向かうミッシェル。
彼女が家の前まで来ると、車の中から一人の若い男が出てきた。
男は帽子をかぶっている。
「こんにちは」
薄汚れている服、それでもアミリス市の住人の服よりは幾分かマシな服を着た男は、ミッシェルに対して挨拶をしてきた。
挨拶をされたミッシェルは何のことかわからず、黙ったままだ。
「ちゃんと挨拶しないか」
背後から戒めるようにおばさんが声をかけてくる。
「すみません、ホントに不出来な子で」
「いえいえ」
ミッシェルに声をかけた後、自分たちよりも随分と若い男に対して少し媚びるようにおばさんが男に話しかける。
いつも図々しく偉そうなおばさんからは考えられない姿だった。
その作ったような声にミッシェルは少し気味の悪さを感じた。
「じゃあ、僕は少し話があるから君は先に車に乗っててもらえるかな」
「えっ……」
いきなり言われたその言葉に訳が分からないミッシェルは、意味が分からないといった顔でおじさんとおばさんの方を見る。
しかし二人から説明はない。
あるのは、
「早く言われた通りにしな」
といったおばさんのいつも通りの声だった。
とにかくおばさんの機嫌を損ねてもしょうがないのでミッシェルは、男が開けてくれた後部座席のドアを開け乗り込む。
車の窓から三人を見ると、若い男が小袋を二人に渡していた。
「あんた、これで肉が食えるよ」
「あぁ、そうだな」
袋を受け取ったおじさんとおばさんは明らかに浮かれている。その様子に袋の中身はどうやらお金らしいことがわかった。どれほどのお金が入っているかはわからない。ただ、肉が買えるほどはお金が入っていることが二人の会話からわかった。それと共に、自分は売られたのだとミッシェルは理解した。
ミッシェルを売ったことを隠そうとせず、大きな声で喜ぶおばさん。さっきまで何も言葉を発さず、普段もほとんど無口なおじさんも、おばさんほど露骨ではないが嬉しそうである。
二人は、後部座席に座っているミッシェルに何も言葉をかけることなく、家の中に入っていった。
二人が去ると、若い男が運転席に乗り込んでくる。
「じゃ、いこっか」
「…………」
ミッシェルは何も返さない。
男は車のエンジンをかける。
「……あ、ちょっと待ってください」
エンジンの音にミッシェルは思い出したかのように、車を出た。
「なんだいミッシェル」
「何しに戻った」
家に入るとおじさんとおばさんが、男から受け取ったばかりの小袋を机の上にひっくり返し、中身を確認していた。
やはり中身は、お金だったようだ。
ミッシェルはお金を使ったことがないので価値があまりわからないが、これまでに見たことがないほどの硬貨が机に並んでいた。
その光景を一瞥し、無言で彼女は二階に上がる。
二人は二階に上がるミッシェルに何か言ってきたがそんなことはもうどうでもいい。売られたのだから、返事をする必要はない。
「何を取ってきたんだい」
「いえ……」
車に戻ると男が、ミッシェルが家から取ってきたものについて聞いてきた。
男の問いかけに対し、ミッシェルは答えを教えない。
そんな彼女の腕には、木箱が抱えられている。
木箱の中には、両親からの手紙とまだ幼いミッシェルと両親が三人で写った写真が入っている。どうせここに戻ってくることはない。どうしてもこれだけは持っていきたかった。
「君、名前は?」
「……ミッシェル・ドリシアです……」
車が動き出してすぐに、男が名前を聞いてきた。
ミッシェルは、ボソッと小声で自分の名前を教える。
彼女は、おじさんおばさん以外の人とほとんど会話をしたことがない。生まれながらの性格もあるのかもしれないが、アミリス市の閉鎖的な空間が彼女を人見知りに仕立て上げた。はたから見れば、愛想なく見えるだろう。
「ミッシェルちゃんか。僕はジョン・クレバ、ジョンでいいよ。よろしくね」
「…………」
自らをジョン・クレバと名乗った男は、ミッシェルの態度を気に留めるそぶりはなく、よろしくといった後は、運転しながら口笛を吹き始めた。もしかしたらこれまでもミッシェルのような子供たちをたくさん見てきたからかもしれない。
ジョンの口笛を聞きながら、ミッシェルはずっと窓の外を眺めている。
もう、アミリス市は抜けたのだろうか。見たことがない景色が、次から次へと彼女の目に入ってくる。別に急に景色が一変するわけではないが、アミリス市から出たことがなかった彼女は、徐々に変わっていく景色に昂揚していた。
車に乗ったことがないミッシェルにとって、その乗り心地はもちろんのこと窓の外から見える移り変わりの早い景色は何とも新鮮なものであった。
彼女の目はまんまと釘付けになった。
見知らぬ景色を前にミッシェルは、自分が売られたことなんてどうでもよくなっていた。
「ミッシェルちゃん、もうすぐ着くからね」
「はい」
アミリス市をどれほどの夜を過ごしたのだろうか。
旅路で食べたもの、見たもの、触れたものすべてが彼女にとって刺激的であった。
ここまで来るのにどれほど日が経ったのかわからないほどあらゆるものに魅了された。ジョンとも少しは打ち解けることができたと思う。
「よし、フゼルに入ったよ」
ガラストリア国・フゼル市──
ここフゼル市は、ガラストリア国の中央都市である。建物の数、車の数、人の数。ほかの町とは比べ物にならない。
「ミッシェルちゃん、着いたよ。降りよっか」
「はい、わかりました」
車が大きな門の前で止まった。高い塀と塀よりも高い木々のせいで中の様子はよくわからない。ジョンにいわれるがままミッシェルは車から降りる。
降りて、ミッシェルは目を少し見開いた。車の中からではよくわからなかったが、フゼル市、そこにはアミリス市とは全く違った世界が広がっていた。
田舎者のミッシェルは、旅路で見たなによりもフゼル市の街並みに圧倒された。
ギー。あたりを見回すミッシェルの耳に入る重々しい音。
「さぁ、入って」
ジョンが門を開けたのだろう。先ほどまで閉じていた立派な門が開いている。
ミッシェルは、ジョンに促されるまま門の内側に入る。すると中には、大きな庭にフゼル市で見た建物の中でもひときわ大きな建物。塀の外ではわからなかった全貌が明らかになる。
ついてきて、とジョンにいわれたので、彼のすぐ後ろを歩く。
「ミッシェルちゃん、ここが今日から君が暮らす場所だよ。ここはマリスタ院といって小さい子から一八歳までの親がいなかったり、言い方はあれだけど君みたいに売られた子が暮らしているんだ。ここで暮らしながら、日中は農場や工場で働いてもらうからね。今はもう夕方だから仕事は終わってみんな院の中にいるよ。さぁ、院長に挨拶をしに行こう」
門付近から見た大きな建物は、近づくとより一層大きく感じられた。建物の扉はすでに開いており、建物の中に入る前に、ジョンから大まかな説明があった。
建物の中に入ると、ひんやりとした空気が流れておりどこか不気味さを感じた。院長に挨拶に行こうと言ったジョンは建物の中を案内するようにミッシェルの前を歩いている。その間、他の子たちに出くわすことはなかったが、ジョンに連れられ食堂に行くと調理場のようなところで複数人の男女がいた。
ざっと建物の中を見て回り、院長室と書かれた部屋の前でジョンの足が止まった。
「院長、ジョンです。ただいま戻りました。入ってもよろしいでしょうか。」
「どうぞ」
ジョンが、院長室のドアをノックし声をかけると、中から女性の声がした。
「失礼します」
ジョンが部屋に入ったのでミッシェルも入る。
「遅かったですね、ジョン」
「すみません、院長」
部屋の中に入ると、白い服を着た背の高い女性が立っていた。ミッシェルの隣に立つジョンよりも背の高い女性は、腕を後ろに組みミッシェルを鋭く見つめてきた。その瞳に、冷たい印象を抱いた。
「その子が新しく入る子ですか」
「はい、アミリス市から来たミッシェルちゃんです」
院長の声は、その瞳と同じように冷たく、女性にしては低く、威圧感があった。あのおばさんよりも。
「私は、ここマリスタ院の院長フリエラ・フルントです。私のことは院長と呼んでください。よろしく」
あまりの威圧感にミッシェルは、動くことも声を出すこともできない。
「ミッシェルちゃん、院長に挨拶を」
しかし、隣のジョンに挨拶を促される。
「ミ、ミ、ミッシェル・ドリシアです」
かろうじて自分の名前を言うことができた。
「院内の案内はもう、済んでいますね」
「はい、ここに来る前にある程度の案内を済ませました」
「それでは、ジョン、彼女を207号室に案内してください」
「はい、わかりました。それでは失礼します」
ジョンが一礼して部屋を出たので、ミッシェルも一応ジョンに倣い、一礼して院長室を出た。
院長室にいたのはほんの数分のことだがとてつもない疲労感をミッシェルは感じていた。
「ここがミッシェルちゃんの部屋だよ。基本二人部屋で、この部屋もすでに一人住んでいるから」
207と書かれた部屋の前に来た。ここが今日から住む部屋のようだ。
部屋の中に入ると、二人分のベッドと机が置かれていた。それと一人の女の子がいた。ベッドに座っている赤毛の女の子。彼女がジョンから説明があったこれから一緒に暮らす子のようだ。
「じゃ、ミッシェルちゃん、僕はこれで帰るから。今日はゆっくり休んでね」
そう言ったジョンは、足早に部屋から出ていった。
部屋の中に二人。どうすればいいか、立ち尽くしているとベッドに座っていた赤毛の女の子が立ち上がり、近づいてきた。
「きみ、名前はなんていうの?」
「……ミッシェル。ミッシェル・ドリシア」
「へぇ、ミッシェルちゃんかー。私の名前は、カミル・シトニル。カミルって呼んで。私はミッシェルって呼んでもいい?」
「うん……」
「じゃ、ミッシェル今日からよろしくね」
「よろしく」
「わからないことがあったら私に聞いて。まぁ、私も一か月ぐらい前に来たばっかりなんだけど」
赤毛の少女は、ミッシェルに近づくと勢いよく名前を聞いてきて、勢いよく自分の名前を言った。その勢いにミッシェルは少し呆気にとられた。
「ミッシェル、こっち」
軽く挨拶を済ませるとカミルがミッシェルの手を引てくる。
「ここがミッシェルのベッドね。クローゼットの中にミッシェルの服が入っているから。取りあえず座っていいよ」
カミルにいわれるがままベッドの上に座る。ミッシェルの座ったベッドは、いつも使っていたベッドとは比べ物にならないほど柔らかかった。ミッシェルが、ベッドの柔らかさを堪能していると、
「ねぇ、ミッシェルは何歳なの」
ミッシェルと同じようにベッドに座ったカミルが興味津々とばかりに、少し体を前に傾けて質問してきた。
「一五歳」
「えっ、私も一五歳だよ。私、自分と同い年の女の子に会ったのはじめて」
それはミッシェルも同じだ。アミリス市は同い年の子どころか、年齢が近い子すらいなかった。こうして同い年のカミルを前にすると、新鮮な気持ちになった。
「ミッシェルはどこから来たの」
「アミリス市から来た」
「うわぁー、凄く遠いよね。ちなみに私はモリス市。どこかわかる?」
どこだろう、とミッシェルは考えるがわからない。
「わからない」
「そうなんだ、モリス市はね海があるところだよ。ここに来る途中見なかった?」
「あっ!」
ミッシェルは思わず大きな声を出してしまった。確かにここに来る途中海に面した場所を通った。初めて見た海に随分と興奮したミッシェルはジョンに少し止まってもらった。海の音、匂い、感触は今でも鮮明に覚えている。
「ハハ、ビックリしたー。どうしたのミッシェル、そんな大きな声を出して」
「いや、私初めてその時海を見て、あそこがモリス市なんだと思ったら思わず」
「そうなんだー」
海のことを思い出し少し興奮気味に話すミッシェルに対し、ニコニコした表情でカミルが見てくる。その笑顔にミッシェルは気持ちが軽くなった気がした。
それからも会話は続き、カミルの人柄もあってか最初は緊張してそっけなかったミッシェルもいつしかカミルに打ち解け言葉数も増えていた。こんなに人と話したのは生まれたから初めてかもしれない。
「ミッシェル、そろそろご飯食べに行くか、お風呂入りにいかない?」
「うん、行く」
「どっちから先に行く」
「うーん、じゃあお風呂かな」
別にどっちでもいいがお風呂と答えておく。
「じゃっ、お風呂行こっか。案内するね」
ミッシェルは、あらかじめ用意されていた服を持ちカミルと共に風呂場へ向かった。
わぁ、広い。
風呂場だと案内された場所は、とても広く浴槽も大きかった。その広さに驚いたミッシェルは少し口を開け立ち止まってしまった。
その様子に気づいたのか、
「ね、凄く広いでしょ。私も初めて来たときビックリしたもん」
カミルが嬉しそうに話しかけてくる。
体を洗った後、その大きい浴槽にカミルと浸かる。存分に足を延ばすことができ、とても気持ちよかった。
「そろそろあがろっか」
「うん」
風呂から上がって、事前に用意されていた新しい服に着替える。
「じゃ、このまま食堂に行ってご飯食べよ。脱いだ着替えはあそこにまとめて置いておけばいいから」
「うん、わかった」
食堂では、数人の男女がご飯を食べていた。カミルに教えてもらいながら、自分の分の夕飯を銀色のトレイに乗せていく。トレイはいっぱいになりこれまでの食事と比べたら随分と豪華なものだった。
なかには見たことの無い食べ物もあり、そして家では食べさせてもらえなかったパンもあった。ミッシェルは少し心躍った。
「食堂で作っているご飯は、院内の子たちが当番制で作っているんだよ。さっき脱衣所に置いてきた服も当番制で洗濯するんだよ。私たちは来週が調理当番ね。お風呂と食事は時間内であればいつでもいいってことになっているんだ」
夕飯を食べながら、カミルがマリスタ院のルールを色々教えてくれた。その説明を聞きながらもミッシェルはご飯を食べるのに夢中になっていた。パンも他の料理もどれも美味しい。
「ハハハ、ミッシェルそんな慌てて食べなくてもいいのに」
夢中になり過ぎて、とうとうカミルからこんなことを言われた。ミッシェルは少し恥ずかしさを感じ冷静になった。
「おはよう、ミッシェル。昨日はよく眠れた」
「うん、おはよう、カミル」
体を揺らされている気がして目を開けると、カミルが覗き込んでいた。ミッシェルは「おはよう」と言われ「おはよう」と返す。ただこれだけのことだが、誰かに「おはよう」と言われることも「おはよう」と言うこともこれまでなかった。
ミッシェルは朝から幸せな気持ちに包まれた。
「私たちは農場の担当になっているからこのあと農場に行くよ」
朝ご飯を食べ終えた後、カミルにこう言われカミルと共に作業服に着替える。
農場はマリスタ院の敷地内に作られていた。
きれい……。
マリスタ院の農場では様々な野菜が栽培されており、何とも色彩豊かであった。マリスタ院の外は建物ばかりだったので、ここだけ特別なんだろう。ミッシェルはそう思った。
この農場の他に、マリスタ院から少し離れた場所に工場があり、農場と工場で人が割り振られているらしい。工場では戦争に使う武器を作っているということである。
◆◇◆◇◆◇◆◇
マリスタ院での生活を始めて数ヵ月が経った。
ミッシェルもここでの生活にもだいぶん慣れ、カミル以外にも決して多くはないが友達が出来た。
それでも、
「ミッシェル、グリーンピース食べて」
「だめだよカミル、好き嫌いせず食べなきゃ」
「だって不味いもん」
カミルが一番の仲良し、親友であった。
今だって朝ご飯に入っていたグリーンピースをミッシェルのお皿に入れてくるカミルに対して、「もう、しょうがないなぁ」と言いながら食べてあげている。
その後もカミルと仲良く農作業をするミッシェル。カミルと一緒だと仕事も苦にはならなかった。
正午も近づき、そろそろお昼休憩にしようと帰っていると、
「おーい、カミル」
こちらに手を振りながら茶色い帽子をかぶった男が向かってきた。
「ジャスティン! どうしたの」
その男の姿にカミルが一気に駆け寄っていった。
「俺も今日からここで暮らすことにしたよ」
「えっ、なんで」
「カミルが心配でね。大丈夫、父さんと母さんには許可をもらってきたから」
ミッシェルもカミルに追いつく。二人の会話を何のことかと聞いていると、
「ミッシェル、この人は私の幼馴染のジャスティン。私たちより一つ年上だよ」
ミッシェルは、カミルの幼馴染と紹介された男と軽く挨拶を交わした。
それからというもの、カミルは幼馴染のジャスティン一緒にいることも増え、ジャスティンといるときのカミルはずっと笑顔でとても楽しそうだった。
カミルは、ジャスティンのことが好きなのかな。
いつしか楽しそうな二人を見ていて、モヤッとした黒い感情がミッシェルの体の中を渦巻いた。この感情の名前をミッシェルは知らない。ただ、胸が苦しい。
あぁ、私、カミルのことが好きだ──
そう気づいたのは、黒い感情が芽生えてから。これが友達としての好きではないことは考えるまでもなかった。
誰に教えてもらったわけではない恋心を、名前も知らない黒い感情がミッシェルに教えてくれた。
しかしそれと同時に、これは抱いてはいけない感情であるとミッシェルは理解した。
ミッシェルのおじさんもおばさんも、これまで見てきた周りの恋人たちはみんな男と女。
女性であるミッシェルが同じく女性であるカミルに抱いてはいけない感情だと瞬時に理解した。この恋は実らないし、カミルに対しての特別な感情は気づかれてもいけない。誰にもばれないように隠していこう。
初めて抱いた恋心を、抱いた直後に隠そうとミッシェルは決意した。
この感情に気づき隠そうと決心してからは、ミッシェルはカミルに少し冷たい態度をとるようになった。これで少しはカミルに対する気持ちもおさまるだろうと。しかし意識すればするほど心は苦しくなり、冷たくすれば冷たくするほど心は痛んだ。
そして、カミルに冷たい態度をとる生活を始めて、気付けばカミルとの間にほとんど会話はなくなっていた。二人っきりの部屋でも会話はなかった。
それでもミッシェルは、これでいい、これでいいんだと自分の気持ちを騙し続けた。
ある日、全員仕事が休みになり院長に食堂に集められた。
食堂に行くとみんなが一斉に集まってきて、集まり終えたころ院長と戦時中とは思えないほど太った50代くらいの男がやってきた。
するとすぐに院長の挨拶が始まり、
「皆さん、この方は新しくフゼル市の市長になられたザーギッド市長です。今日は皆さんに挨拶がしたいとわざわざこのマリスタ院に足を運んでくださいました。それでは市長お願いします」
「皆さんこんにちは。今、院長からご紹介いただいた通り私が新しく市長になったザーギッドです……」
小太りの男はどうやらフゼル市の新しい市長らしい。その市長は院長に紹介された後、挨拶を始めたが挨拶をしている市長の眼はどこか品定めをするようであった。その視線に少しばかり気味の悪さを感じた。
「それでは私の話はこれくらいで」
「市長、ありがとうございました。それでは皆さん今日はもうこれで終わりです」
院長の終わりの挨拶と共に、市長がなにか院長に耳打ちをしている。
「あっ、カミル。あとで院長室に来てください」
耳打ちされていた院長はカミルを呼び出した。カミルはミッシェルの斜め右、三つ前の席にジャスティンと一緒に座っている。後ろから眺めていると呼ばれたカミルは何のことかわからない様子であった。
その後、部屋に戻るとカミルはすぐに院長室に向かった。
夕食の時間になってもカミルは帰ってこない。とうとう就寝時間を過ぎたがカミルは帰ってこなかった。
心配で眠れずミッシェルが起きて待っていると、そっと部屋のドアが開き、カミルが入ってきた。
どこか力がなく、目にも生気がないカミル。
ミッシェルはすぐに異変を感じ、駆け寄った。これまで冷たくしていたミッシェルもその態度を保っていられないほど、カミルの様子はおかしかった。
「どうしたの? カミル」
怪我をしているようではない。ただ触れたカミルの体がひどく震えている。
「ミ、ミ、ミッシェル。私、院長室に行った後、新しい市長に連れられたの。最初は買い物に連れていかれたりレストランに連れていかれたりした……」
震えた体からでる言葉もまた震えており、弱弱しい。
「それでどうしたの」
「それで……それで市長の家に連れられてベッドに市長と……」
そこでカミルの言葉が止まった。最後までカミルが何をされたか言うことはなかったが、震える手で強く服を握りしめている。何をされたかはわからない。それはミッシェルが世界を知らなすぎるかもしれない。それでも、それでもミッシェルにはカミルの心が深く傷ついていることがわかった。
何をされたかわからないが、何をされたかわかった。
「カミル……」
カミルにかける言葉が見つからない。
「ミッシェル、今日一緒に寝てくれない」
力ない声でカミルがそう言ってきた。ミッシェルにその願いを断る理由はない。
「うん、もちろんいいよ」
ミッシェルは、カミルと自分のベッドに入り込む。二人寝るには狭いベッド。カミルの体温がジワジワと伝わってきた。
「ミッシェル、あなたにどうしても言いたいことがあるの。今だから、今だから。だけど今から言うことは明日には忘れてほしい」
「何? カミル、何でも言っていいよ」
カミルは何か決心したようで、何か自分に言い聞かせるようで、それでも少し迷っているようだった。
「ミッシェル、私、あなたのことが好き。もちろん友達としてじゃない。あなたに恋をしているの」
「えっ」
カミルの言葉と共にミッシェルの思考は停止した。
「やっぱり変だよね。このことはもう忘れて」
「いや、変じゃないよカミル。だって私もあなたに恋してるもの」
勢いだった。今。伝えなきゃと思った。
「それは嘘だよ。だって最近ミッシェル冷たいじゃない」
やはりミッシェルの冷たい態度にカミルは気づいていたらしい。
「それは、カミルがジャスティンのことが好きだと思って。私の気持ちがばれないようにわざと冷たくしていたの」
「じゃ、本当にミッシェルは私のことが好きなの」
「うん」
「はぁ、そうだと知っていればあの時もっと抵抗していればよかった。もう私の体汚れちゃったから好きじゃなくなったよね」
「そんなことない。いまでもカミルのことが好きだよ」
ミッシェルは本心をカミルに伝える。カミルは自分のことを汚れたといったが、そんなことはない。目の前のカミルはかわいいカミルのまま。それに例えカミルが汚れようがどうなろうがミッシェルにとってカミルはカミルだった。
「じゃぁ、ミッシェル。もう一つお願いしていい?」
「うん、いいよ。いくらでも聞いてあげる」
「私のこと抱きしめてほしい」
ミッシェルはカミルを力強く抱きしめる。カミルの体温、そして匂いが近くに。
「ミッシェルは前から女の子のことが好きだったの?」
「いや、違うよ」
ミッシェルは特段女性が好きなわけではない。もちろん男性に恋をしたこともない。
いつしか彼女は、
カミルの美しさに見惚れ、
カミルの性格に惹かれ、
そしてカミルに恋をした。
恋をしたカミルがただ女性であっただけ。
男か女か、そんなことはどうでもいい。
好き、、、、、、好き、、、、、好き、、、、好き、、、好き、、好き、好き、好き、好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き。
ミッシェルの小さい体を埋め尽くす恋心はもう止められない。
この気持ちを前に性別なんて問題にもならなかった。
「私は女の子を好きなんじゃなくてカミルのことが好きなんだよ」
「ハハハ、何それ。まぁでも私もそうかも。だってミッシェルは私の初恋だもん」
カミルの初恋。その言葉にミッシェルはこれまで感じたことがないほど嬉しかった。
「ねぇ、ミッシェル。私と付き合ってくれる?」
「うん」
「じゃぁ、恋人としての最初のお願い」
「何?」
「キスして」
ミッシェルはカミルの唇にキスをする。
二人の空間に流れるのは幸せだけ。
その幸せをかみしめながら、二人は眠りについた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
カミルと恋人になってから、プレゼントを交換したり、みんなにばれないようにこっそりキスをしたりした。
平凡だけど幸せ。この平凡な幸せがこれからも続くものだと思っていた。
膠着状態が続いていたガラストリアとアリヴァクナ帝国との戦争の戦況が変わり始め、ガラストリアが劣勢に立たされた。
このままでは負けてしまう。
そこで国の政策により、女・子供も戦地へ派遣されることになった。
ミッシェルとカミルも銃を持たされ戦争に参加した。参加したといっても、物陰に隠れながら、建物に潜みながら二人で手を握り励ましあいながら、毎日を過ごしていた。
戦地の兵士たちは、
ただ惰性で殺意を持ち、
ただ惰性で、銃の引き金を引き、
ただ惰性の中で死んでいった。
そんな異常な場所であった。
それでも隠れていれば大丈夫。そんな考えが二人の中にはあった。
しかし、戦争に参加して五日後。
敵国の兵士に見つかり、捕虜として捕まった。その場で殺されなかったのは二人が女の子だからかもしれない。
入れられた牢屋は戦地と同様、もしくはそれ以上の腐敗した空気が流れていた。
「ミッシェル、大丈夫だよね」
「うん、大丈夫だよ」
ミッシェルには大丈夫と言うほかない。
そんな牢獄に入れられた二人の前に、一人の男が現れた。
「中佐殿、今日捕らえた者たちです。まだ、少女であったため捕虜として連れてきました」
中佐と呼ばれたその男。ミッシェルはその男に見覚えがあった。
「お父さん?」
立派な隊服を着た男は何度も見た家族写真に写っている父の姿と瓜二つであった。
「お父さん? 何のことだ」
ミッシェルは胸ポケットに忍ばせていた家族写真を男に見せる。
「ミッシェルか?」
男は表情からわかるくらいに驚いていた。
「はい」
自分の名前は言っていないから知らないはずだ。しかし男は写真を見てミッシェルと名前を呼んだ。やっぱり父だった。
「おい、お前。早くその子を牢屋から出せ」
「はい」
牢屋から出してもらったミッシェルを死んだと思っていた父が抱きしめてくれた。
「生きてたのかミッシェル」
「うん。でもお父さんこそ何で」
「お父さんも、最初はガラストリアの戦士として戦っていたんだけど、捕虜として捕まって。それから今度はアリヴァクナ帝国の戦士になって今では中佐にまでなったんだ。お前が無事でよかった。そうだ、お母さんは家にいるから会っておいで。お父さんもすぐに行くから。おい、この子を私の家まで連れていけ」
「はい」
父も母も生きていた。ミッシェルは昂揚していた。その事実に、何度も思い描いた父の姿に、声に。
そのまま整理がつかないまま父の部下らしき人に連れられた。
あっ、カミル!
突然の信じられないようなことだったので、カミルも一緒に連れて行くのを忘れていたが、カミルを牢屋に置いていくわけにはいかない。出口に向かう途中、もう一度さっきの場所にカミルを連れに戻った。
戻ったミッシェルの目に映ったのは、倒れているカミル。そして小さな拳銃を持った父の姿。
「カミル!」
なになになになになに……。
ミッシェルは状況が理解できぬままカミルに駆け寄る。さっきまで慰めあっていたカミルの胸からは血が出ている。
ハァハァハァハァ……。
息がうまく吸えない。口まで吸いこんだ空気が喉を通ってくれない。吸い込んでもすぐに出ていく。
「な、な、何で……」
嗚咽交じりに無理やり声を振り絞り、父に問いかける。
「ミッシェル、今日からお前にはお父さんとお母さんのもとで暮らしてもらう。わかるな、中佐の娘だ。お前はそこのカミルとかいう女の子と恋仲にあるのだろう。そんなことは一目見ればわかる。女同士で付き合うなんてどうかしている。ましてや中佐の娘の恋人が女なんて許されるわけがないだろう。お前はちゃんとドリシア家にふさわしい男を見つけて、我々の家を継ぎなさい。いいね、ミッシェル。さぁ、カミルちゃんにお別れをしなさい。お父さんは向こうに行っているから」
それだけいうと父はその場からいなくなった。
ただそんなことはどうでもいい。父の言葉なんてどうでもいい。会いたかった、話したかった、抱きしめてほしかった。父にも母にも。叶わぬ願いだと思った。でもすぐそこにその願いが現実のものになろうとしている。
ただそんなことはどうでもよかった。
「カミル! 絶対助けるから」
「ミッシェル、好きだよ」
カミルは苦しそうで、それでもミッシェルの名前を呼んでくれた。
「私も。だから死なないで。カミル死なないで」
「ミッシェル……」
「カミルカミルカミルカミル」
「…………」
ミッシェルの声にカミルが反応しない。
ミッシェルの腕の中でカミルが動かない。
カミルがミッシェルを呼ぶ声がしない。
「カミルカミル、好き好き好き、カミル好きだからお願い、起きて」
「…………」
胸が痛い。まぶたが熱い。
熱いまぶたから涙が、一滴、二滴、三滴……。
流れても流れてもまた熱い涙が次々と流れる。頬を伝う涙は、抱きしめるカミルの胸に落ちる。
流れ出る涙と共に、ミッシェルは声を荒げた。
腐敗した空気が支配するこの世界に、
惰性の殺意が溢れるこの世界に、
涙を知らないこの世界に、
少女の涙が凛と咲く。