雨
時雨、五月雨、霧雨、長雨、春雨、虎が雨、白雨…
日本ほど雨と言う気象状態に多くの名前をつけて表現している国はないと聞いた。
それだけ雨が多いと言うこともあるのだろうが、雨が生活や文化にしっかりと根ざしているという事なのだろう。また、日本人の感性の高さを表しているという事になるのだろうか。
僕は昔から雨は苦手だった。
夕立の様な通り雨はそうでもないのだけれど、しとしとと降り続ける雨は気持ちが暗くなるような気がして。
でも、あるきっかけから雨もそんなに悪くないなって思える様になった。
今回はそんな雨の話。
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
ああ、イヤだなぁ…
駅から少し離れたビルの二階にある喫茶店の窓ガラスにポツポツとあたる雨粒を見ながらそう思った。
窓の下には滲んだ様々な色の傘の花が咲いている。
今日も雨だ。
雨が嫌いな訳では無いんだ。
課長の辛辣な嫌みと蛇の様な目つきが頭に浮かぶ。
今月に入って契約が穫れていない。
営業所でも成績は下から数えた方が早い。
入社して二年。一度もトップクラスに入った事はない。
勤めてるのはコンピューターのシステム管理の会社。
顧客のルート管理がメインの仕事なのだが、ノルマとして月に新規企画一本と新規顧客の開拓契約がある。
正直面白くない仕事だ。
だいたい、飛び込みで会社に入ったって受付で追い返されるのがオチだ。
この不景気な世の中、システム管理を外注する事自体減っているんだから。
愚痴っても仕方ない。
時計はまだ3時半だ。
会社に帰るのには早すぎる。
気付くと周りのテーブルにはカップルやら会社の仲間らしい人たちや学生グループなどでいっぱいになっていた。
雨も影響しているのか店内も混んで来た。
四人掛けのテーブル一つを自分一人で使うのも気が退ける。
伝票持って席を立った。
さて、終業時間までどうやって時間を潰そうか…
映画に行くにもお金がかかる。デパートは見飽きる程見て歩いた。
図書館も遠い…。
仕方ないので少し街を歩いてみる。
しばらく歩いて小高い丘のある公園に入ってみた。
雨降りの公園は誰もいない。
象やキリンの形をした遊具もただ雨に濡れている。
ブランコも乗り手はなく時々吹く風にユラユラと揺れているだけだ。
公園の奥に入っていく。
割に広い公園だ。
奥には遊歩道もある。遊歩道はすぐ先のカーブで見えなくなっている。
奥に進んでみる。傘に当たるパラパラと言う雨音に時折、木から落ちる雨垂れのダダダッと言う音が重なる。
道は蛇行しながら木立の中を相当奥まで続いている様だ。
時間潰しにはちょうどいい。
ゆっくりと進んで行く。
しかし、この辺りにこんな公園があるなんて知らなかった。
周りは薄暗い。
木立の奥に四阿が見えてきた。
赤い屋根がついていて中にベンチが置いてある。
公園の施設にしては綺麗だ。
傘を畳んでベンチに座る。四畳半位の広さだろうか。
タバコをくわえて火を点ける。
雨の中に煙が吸い込まれていく。
俺一体何してるんだろう…
ふと心で声がする。
そうなんだよな。俺今の仕事してて、何か人の役にたってるのかな…
給料も初任給と変わらない。
仕事もやりがいがない。
上司は嫌みな奴ばかり。
俺がこの街にいるのが間違いなのか…
田舎に帰るかな…
しかし田舎に帰ったところで出来のいい弟と比べられるんだよな。
『弟さんは出来が良いのにお兄さんは都会で失敗して帰ってきたらしいわよ』
近所のおばさん達の噂まで聞こえる様だ。
田舎は変なネットワークがあり、変わった事(目新しい事)があればすぐに尾鰭がついて噂となって一人歩きを始める
…俺いらないんじゃないか?
居ても居なくても周りの状態は変わらない。
存在してると自分はキツい。
生きてる意味が解らないよな…
雨は降り続いている。
雨のカーテンの向こうから赤い傘が見えてきた。
こんな雨の中でも散歩する人がいるんだな。
ま、俺も似たようなもんだけど。
赤い傘の女は四阿の前まで来ると中に入って来た。
長い黒髪で白いコートを着ている。
色白で切れ長な眼の美人だ俺より少しだけ年上か?
あんまりじろじろ見る訳にもいかないからちらっと見てそう思った。
本当は誰も来ないほうが良かったんだけどな。
「あの…」
「はいっ」
無駄に元気に返事してしまった。
「隣いいですか?」
「どうぞどうぞ。」
「お待ち合わせですか?」
「いえ、時間潰しです。えと…お待ち合わせですか?なんなら消えますけど…」
「私も時間潰しなの。待ち合わせじゃないわ。」
そう言ってニコッと笑った。
「一緒ですね。」
とは言ったものの、次の会話が続かない。
「ここは初めて?」
すごく自然な感じで聞かれた。
「はい。初めて来たんですが大きな公園ですね。え…と、あなたは良く来られるんですか?」
「ええ。雨の日にはね。」
「雨の日?」
「そんなに不思議?だって私、雨好きだから。雨ってなんだか地上の汚いものを全部洗い流してくれそうでしょ?」
「そういう考えはした事無かったなぁ」
その後2人で降り続いている雨を眺めていた。
何も会話は無かったけど凄く楽しい気持ちだった。
「そろそろ帰るわ。良かったらまた雨の日にね」
そう言って女はベンチを立った。時計を見ると僕がここに来てから2時間近く経っている。
そんな時間が経っていたとは思わなかった。
女が傘を開いた時
「良かったら名前を教えてくれませんか?俺は龍平。」
「そうね…雫でどうかな?龍平くん」
女はにっこり笑ってそう言うと、赤い傘をくるくると回しながら四阿を出て行った。
「…雫…」
雫と言った女が木立の中の小道に消えてしばらくすると雨は止んだ。
唐突な止み方だった。
俺は会社に戻る事にした。
不思議だった。あれほど嫌だったのに会社に戻るのも課長の嫌みを聞くのも何とも思わなかった。頭の片隅に何時も赤い傘をさした雫がちらほらしてたからかも知れない。
翌日は晴れだった。
朝のミーティングで課長に怒鳴られながら会社を出る。
いつもの様に午前中は顧客回りだ。
カバンを持って近くの地下鉄にのる。
ドア付近に立ちながら暗いトンネル内を見るとは無しに見ていた…正確にはその暗いキャンバスに雫の姿を描いていた。
昨日のあの時間は何だったんだろう…
今から思えば夢だった様にも思える。
『雫でどうかしら龍平くん』
と言うセリフが何だか出来すぎの様に感じた。
からかわれた…いい考え方をしても単なる気まぐれか。
ため息をつく。
ま、そうだろうな。
暗いキャンバスに書いた雫の顔が通過駅の灯りに消された。
それから数日は割に雲の多い日が続いたが雨にはならなかった。
外勤がメインの仕事の人は大概天気には気を遣うらしい。
同僚も天気の具合によって移動手段や回る順番を変えたりしてる。
俺は今まで天気をあまり気にしていなかったのだけれど、たまたま天気予報を見かけるとつい、次にいつ雨が降るか確認している自分に気付いた。
雨が降ったらあの公園に行ってみよう。そう思っていた。
『雨の日に』
と言う雫の言葉が頭にあったからか、降っていない日には公園に行ってみようとは思わなかった。
土曜日 朝から雨が降った。
仕事は休みだ。
テレビで見る天気予報では、予報士が『週末は生憎の雨』と言っていた。
前線が停滞気味で二~三日は降り続くらしい。
公園に行こう。
雫は来ないかもしれない。
それならそれで諦めもつく。
俺は着替えて出掛ける準備をした。
公園はこの前と同じように雨に煙っていた。
ちょうど公園から出てきた犬の散歩をしているおばさんとすれ違った。
合羽を着せられた犬が窮屈で可哀想に見えた。
公園内には人の姿は見えなかった。
象やキリンの遊具を抜けて遊歩道に入る。
この前と同じように薄暗く、雨のレースのカーテンが掛かっている。
そのカーテンの中を進んでいくと赤い屋根の四阿が見えてきた。誰もいない。
四阿の屋根の四隅から水道の蛇口を少し捻った様に雨水が白い糸状になって落ちている。
ベンチに座ってタバコに火を点ける。
時計はまだ午前10時半。この前は午後4時だったから5時間半も早い。
雫が現れるにしてもこんなに早い訳ない事は解ってた。
ショルダーバックから文庫本を取り出す。
百年も前に死んだ作家の小説だ。小難しくて解らない。
敢えてこの本を選んだんだ。
単に座って考え事をしてると怪しく見えるだろうが、本を読んでいる様に見えるなら大丈夫だろう。
これを広げておけば頭の中では雫の事を考えている事ができる。
「龍平くん今日は私服なのね」
いきなり声を掛けられて驚いた。顔をあげると雫が目の前に立っていた。
この前と同じ赤い傘に白いコート姿だ。
「こ、こんにちは。今日は休みなんで私服で来ました」
「似合ってるわね。」
そう言ってニコッと笑った。
胸がドキッとなった。
なんて綺麗でかわいいんだろう…
それから2人で色々話をした。
…と言っても殆ど僕ばかり話していたが。
学生時代の事、仕事の事、趣味の事。
雫は聞き上手で一緒に笑ったり難しい顔したりしてくれた。話してる自分が凄く話が上手なんじゃないかと錯覚するくらいに。
しばらく話をしていたが、ベンチは堅く、横向きで話をするのも首が痛いので提案してみた。
「良かったら近くの喫茶店に行きませんか?」
雫は少し躊躇してる様子だったが頷いた。
「いいわよ。今ならね」
二人で近くの小さな喫茶店に入った。
席は一番窓際の雨が見える席。
僕はアイスコーヒーを雫はサイダーを頼んだ。
サイダーはなんだか雨っぽい感じがした。
そこでも僕は色々話したが雫は自分の事は話さなかった。
ただ一方的に僕の話を聞く事に徹してくれたのか、自分の事を話したく無かったのか。
喫茶店を出て街を二人で歩いた。
見た目は只のいつもの雨の街なのに明るく見えた。
雫が隣を歩いているからだ。
傘に当たる雨の音も明るく聞こえた。
二人は特に話をするでもなく街を宛もなく歩いた。
気付くと公園の前まで帰って来ていた。街を大きく一周してきた様だ。
四阿まで戻る。
「龍平くん今日はありがと。そろそろ帰るわ」
「こちらこそありがとう。すごく楽しかった。…あの、明日も会えませんか?」
「…雨が降ったらね。龍平くん」
雫はくるりと振り返りそう言うと四阿の向こうへ歩き始めた。
帰り道、電車の中でドアの窓に雨に濡れる並木道を思い浮かべた。
明日も雨が降ればいいのにな…
でも…何で雨でなきゃ会えないんだろう…。当たり前な疑問が頭に浮かんだ。
翌日、カーテンを開くと雨は止んでいた。テレビで天気予報を見るとお昼にはまた前線が活発になるらしい。
今日も会えるかもしれない…。
空はまだ降りそうな気配は無かったが、準備をして外に出た。
駅まで向かう人達は雨降り前に用事を済ませようとしているのか賑やかだった。
以前の自分なら同じだっただろうが今は早く雨が降って人が減っていいのになと思う。
電車に乗って公園の最寄りの駅に向かう。
ワクワクする気分だ。
地下鉄の駅から地上に上がった時に雨が降ってたらいいなぁと思いながら階段を駆け上がったが地上は曇っていた。
公園入り口に着いても雨は降って無かった。
瞬間、躊躇した。
変なジンクスではないが、今まで雨が降って居ないときに待っていたら雫が来ないのじゃないか?
いや、そんな事はない…。
四阿で待っていたら雫は来るだろう…そう思って四阿に向かった。
ベンチに座って人気のない並木道と降り出しそうで降らない空を交互に眺めながら待った。
ポツリ と音がしたのは待ち始めて一時間もしてからだろうか。
ポツリ…ポツリと段々音が早くなってきて音が重なりザァーッと降ってきた。
蒸し暑く感じていたのに。急に少し涼しくなる。
「今日は早かったのね龍平くん」
後ろから急に声を掛けられて驚いた。
そこには雫が濡れた赤い傘を畳みながら微笑んでいた。
「こんにちは」
どこから四阿に入ったんだろう…少なくとも並木道を通ってきた訳では無い。だってずっと見ていたのだから。
会えた嬉しさにその不思議な思いはすぐ埋もれてしまったが。
「今日はあまり時間がないのよ。」
「え?そうなの」
「もう少ししたら止んじゃうからね…。」
そう言って雫は空を見上げた。
「雫さん…」
「なに?」
にっこりしながらこっちを見た。
「俺と付き合って貰えないですか?」
「…」
「もしかしたら結婚してるのかも知れないし、彼氏いるかもしれない。あなたの歳が幾つなのかも住んでる所も何も知らないけど、あなたといると凄く落ち着けるんです。心がホッとするんです。
付き合うのは無理ですか?」
雫は悲しそうにこっちを見て
「私もあなたには惹かれる。でも無理ね…」
そう言った。
「…何故ですか?…あと雨でないと会えないのは…」
「知ったら会えなくなるかも知れないわよ?それでもいい?」
「なんで知ったら会えなくなるんですか?俺の気が変わるとか?」
「そう。」
雫は目を伏せた。そして続けた。
「…私と一緒になるのは無理なのよ。」
俺は何も言えなくなった。
雨は降り続いている。
「…じゃぁ、雨の日だけでもいい。会っては貰えないですか?」
「…それは…いつかは龍平くんは知ってしまう。それまではね。いけない…今日は帰るわ。また雨の日にね」
雫は傘をさして雨の中に走り出して行った。
「待って!」
後を追う。
濡れることなんかどうでもいい。
俺は雫の後を追って今まで行った事のない並木道の奥へと進んだ。
四阿から先は右にカーブして見えなかった。
カーブを進むと視界が開ける。
「!」
驚いて立ち止まった。
そこに在ったのは墓地だったから。
たくさんの墓石が雨に打たれていた。
この墓地の先に出口があるのだろう。
そう思って墓地の中を進んだ。
視界の片隅に墓石の間にちらりと動くモノが見えた。
見えた方向を注意してみたがその姿はもう見えなかった。
道の先は行き止まりで寺があった。古くて大きな寺だ。
「こんな所に寺が…」
気付くと雨は止んでいた。
雨が止むとただ静けさだけが広がった。
結論から言うと寺は確かに大通りに面していたが門は大きな閂で閉まっていた。
門の説明文によれば大通り側には駐車場もないのでお盆や年末年始と大祭の時にしか開かないのだそうだ。
通常は公園側から出入りするしかなく、あの四阿の前を通るしか出入りはできないらしい。
じゃなぜ雫はこっちに来たのだろうか…。
何か嫌な感じがした。
それから5日程、晴天が続いた。
仕事は何故か順調に進んだ。
企画案がいきなり思い浮かんだ。
読んだ課長が『お前が本当に考えたのか?』と言われた。勿論いい意味でだ。
また、飛び込みで入った会社がたまたまシステム障害で困っている所で、頼まれて復旧作業し、新規顧客になった。
子会社を幾つも持っている会社で全ての会社のシステムを任せると言われ契約した。
営業でもいつもは出てこない言葉がスラスラ出てきたりした。
別に嬉しくも楽しくもないのににこやかに対応してる自分に気付いた。
同僚から『何か良いことでもあったのか?』と真剣に聞かれたりした。
絶対変だ。
これは俺じゃない。
…でも少しだがビジネスの仕方が見えた。
明るく楽しそうな人には仕事も人も回ってくるんだ…。
週末が近付いて雨が降った。
午前中にバタバタと顧客周りをして午後はあの公園に向かった。
今日は雫に会える。
そう思うと足取りも軽かった。
四阿に行くと既に雫はベンチに座っていた。
軽く手を挙げて微笑んでる。
手を振ってそれに応えた。
自然にニヤケてる自分がいた。
「龍平くん、お疲れさま」
「やあ、待たせてごめん」
「ううん。今週はどうだった?」
俺は仕事の事を雫に話した。
うんうんと頷きながら雫は嬉しそうに聞いてくれた。
「…でもさ、これって俺じゃない感じがするんだよ。」
「なんで?龍平くんは龍平くんじゃない」
「うん、それはそうなんだけどさ、俺じゃ絶対出て来ないアイデアだったり言葉だったり…」
「気のせいよ」
「雫さんが…」
俺は思ってる事を言ってしまった
「…そばにいてくれた様な気がするんだ。違いますか?」
雫は長い睫を伏せた
「…」
「雫さん、あなたは…」
「…龍平くん…」
雫はスッと立ち上がると雨の中に飛び出して行った。
「雫さん!待ってくれ!俺はあなたが何者であっても驚かないし構わない!
…好きなんだ!」
雫はピタリと立ち止まってこっちを振り返った。
「…今…なんて…?」
「好きなんだ!雫!」雫はスッと俺のそばまで戻ってきた。
「龍平くんは私の事知らないからそう言えるのよ」
「…いや、君が何者でも構わないんだ。」
雫は小さくため息をつくとコートのベルトをゆっくり外した。
ハラリと前がはだける。
中はブラウスを着ているが右肩から左わき腹まで裂けている。
ブラウスの裂け目から白い肌が見える。
「そこまで言うなら教えてあげる。
…龍平くん、私はね、既にこの世には居ないの。
私の姿が見えているのはあなただけ。
私を見つけてくれて嬉しかった。
あれは三年前の春…」
雫は話し始めた
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
時計を見ると午後九時を指している。
春の雨のわりに雨足は強い。
約束の時間から既に2時間も経つ。ヒデはどうしたんだろう…
月に二回しか会えないのに…
ヒデは私の恋人。
医者だから時間がないのは解るんだけどせめて月に会える二回位は時間を守って欲しいと何時も思ってる。
ヒデの携帯に電話をするが機械的なアナウンスが流れるばかり。
この公園も四阿位まで奥に入ると人は殆ど来ない。
しかも春とは言ってもまだ寒い。
あーあ、こんなんじゃ付き合ってる意味ないよなぁ…
私の本音。
ヒデが言ってくれた言葉が思い出される。
『なぁ、俺と一緒になってくれないか?』
思い出すだけで胸がドキドキする。
ザッ…ザッ…
砂利を踏んで歩く音が聞こえる。
誰か来る。
黒い雨合羽の上下を着た男だ。
ヒデじゃない
ヒデ以外に用はない。
私はヒデが来るのを待つんだ。きっと手術が長引いてるだけよ。
私の目の前をお寺の方へ雨合羽の男は歩いていく。
その時、急にその男がこっちに向かってきた。
私は驚いてベンチから立ち上がった。
街灯に何かギラリと光ったのが見えた。
次の瞬間私の右の肩に何か熱い物が入って来た。
右腕が痺れる。
「なっ…!」
声を上げようと息を吸い込んだ時、その熱いモノはメキメキと音を立てながら下へと動いた。
それが肋骨が折れ、肺が破られる音だと気付いたのは意識が無くなる直前だった。
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
そう言うと雫の目からハラハラと涙が零れ落ちた。
まるで雨の様だった。
裂けたブラウスの隙間から見える肌が肩から次第に避けていく。赤黒い液体がブラウスを染めていく。
パタパタッと血が四阿の床に飛び散る。
裂けるのが腹に到達すると中から内蔵が出てきた。
雫の口からも泡状の血が吹き出している。
俺は雫を抱きしめた。
雫の血が服に染みてくる。氷の様に冷たい。
ブワッ
口から多量の血液が吹き出す。
俺はその血を肩に浴びながら抱きしめていた。
放すもんか。
「雫。俺はいる。お前のそばに。絶対離れないから」
雫の内蔵がズルリと足の上に落ちてきた。
妙に質感のある臓器が足の甲に乗っている。
雫はそんな状態なのに普通の声で言った。
「龍平くん、私、こんな姿だよ。本当に私のそばにいてくれるの?」
俺は更に力を入れて抱きしめた。
「ああ。当たり前だろ。俺は雫と一緒になりたいんだ。」
なんでそう思ったのか分からない。しかし間違いなく俺は本心からそう思った。
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
肩を揺すぶられて目が覚めた。気付くと犬をつれたおばさんがいた。
「大丈夫あんた?」
と俺の肩を揺すっていた。
ハッとなって周りを見渡す。雫!?
周りは血の海のはずなのだが乾いた床があるだけだった。
「救急車呼ぼうか?」
「…大丈夫です。すみません。」
立ち上がって傘を拾った。
心配してくれてるおばさんに礼を言って、俺は荷物を纏めて雨の上がった道を駅に向かった。
決めた。次の雨が降るまでにヒデと言う男と犯人をここへ連れてきてやる!
そして雫の想いを晴らしてやるんだ。
会社に電話を入れた。
課長に暫く休むと一方的に言って電話を切った。
俺はあらゆるツテを使って霊的な事に長けている人を探した。
俺がしようとしている事が雫にとって良いことなのか解らなかったから。
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
着ていた合羽を脱いで黄梅院の扉を開けると大塚がいつもの様にコーヒーを淹れていた。
「よぉ高山。お疲れ。秋が近いのかの?雨ばかりじゃな」
「だな。うんざりだよ」
僕はカウンターに付きながらそう言った。暑いのに雨が降るから湿度ばかりが上がる。
「ああ、これから客が来るぞ。ばあちゃんから連絡があってな」
カウンターに僕のコーヒーを置きながらそう言った。
「また霊絡みか…」
「多分な。ぬしも嫌いではあるまいに」
僕が反論しようとすると扉のドアチャイムが鳴った。
背の高い今風の若い男が立っていた。
「大塚さんと云う方は…」
「私ですが、山田さんですか?」
「はい。山田龍平と言います。…お若いですね。」
大塚はちょっとムッとした感じだ。
「年は関係あるまい。まぁ座って話をしてみよ。…あ、こやつは、わらわの助手じゃ」
龍平と名乗る男は僕にちょっと会釈して横のスツールに座った。
………龍平は語った………
「あ、その事件は覚えてるよ。確かOLが変質者に殺されたんだったね。あとタクシー運転手だったな…」
あれ?あの事件って犯人どうなったかな?確か逮捕はされてないはずだ。
「あの事件の被害者か…」
大塚も知っていた様だ。
「なぁ大塚、それは自縛霊になってるのか?」
「…いや、どうかな。山田氏が言うように待っておるのかもしらん。その付き合ってた男と犯人が来るのをな。」
「で、山田さんはどうしたいんですか?」
僕は聞いてみた。
「…まずは雫の想いを遂げさせてやりたいんです。」
「ん。やれるだけやってはみるが…犯人の特定までは難しいかと思うぞ。それは警察の仕事だからな。」
山田は何度も頭を下げて帰った。
「さて、これからどうするんだ?」
「まずは調べてみんとな。
医者の彼氏の方は多分すぐ解るだろうが、犯人の事は…五十嵐は何か知らんかのう。」
五十嵐は顔の四角い、角刈りで目つきの悪い警察官だ。以前僕も疑われて尋問をされた事がある。
『なんだ、お前ら。
…ああ、あの事件か。あれは犯人は発見者の角野だと捜査班は踏んでたんだがな。』
「角野?」
『被害者の医者の彼だ。
ただ、Nシステムや現場近くのコンビニの防犯カメラで見ると時間が合わないんだよな。』
「?」
『つまりだな、角野の乗った車が現場…被害者との待ち合わせに向かってる時間に既に被害者は殺されてるんだよ。死亡推定時間から見るとな。』
「他には犯人の手掛かりはないのですか?」
『今の所ない。雨の強い日でな。
証拠も流れたんじゃないかと言われているよ。
…犯人は被害者をナイフ状の物で殺害した後、公園前でタクシーに乗り込んで、そのタクシー運転手も殺害してる。
傷口から凶器は同じモノだという事は解ってる。
逃げるのにタクシーに乗ったが運転手に見つかって、咄嗟に殺したんじゃないかと見てる。
しかしな、その後の足取りがつかめん。
…何なんだ一体?またそんな事に首突っ込んでるのか?』
五十嵐はそう言った。大塚は最後の質問には応えず、
「付き合ってた角野が発見者なんですね。」
と確認した。
『ああ。被害者のそばで雨に打たれて立ってたらしいぞ。』
僕らは礼を言って電話を切った。
「医者の角野か…会いに行ってみるか。」
大塚はいつものリュックを背負って立ち上がった。
…会いにいくのか?
警察も調べてるからな。
僕ら素人が何を聞き出すつもりなんだよ…
「ほら、高山。行くぞっ」
はいはい…
僕らは一旦、図書館に寄って新聞記事を読み漁った。
大体の事件の流れは五十嵐から聴いた通りだった。
『連続殺害?』
17日午後9時頃、○○区○○公園において、△△区※※町に住むOLの大野木晴美さん(24)が殺害されているのを友人男性に発見された。
また同公園の前に駐車してあったタクシー内でも個人タクシー運転手 宇野肇さん(52)も殺害されているのが発見された。警察は二件とも同様の手口で殺害されていることから同一犯の犯行とみて捜査している。○○公園はJR××駅から北へ15分程の所。
第一報はこんな感じの記事だった。
事件翌日には発見者の角野医師は重要参考人として○○警察署で取り調べを受けているが3日目で釈放されている。一部のマスコミは『彼も被害者』と書いていた。
記事では『彼女を殺され、その陰惨な現場の発見者となり、警察に疑われた。』と角野医師を擁護する内容になっていた。
「ふむ。
この3日の間に警察はNシステムやらコンビニの防犯カメラやらを調べたんだな。」
同じ週に発売の週刊誌の記事も読んでみる。
もう一人殺されたタクシーの方は個人タクシーで運転手はあまり評判は良くなかった様だ。
博打好きで多額の借金もあったと書いてあった。
角野医師の件も釈放後の記事ということもあり、概ね良い人として書かれていたが、女性問題は過去にあったという関係者の話も載っていた。
「興味深いのう」
「何が?」
「何となくな。違和感がな。さて、会いに行くか。」
僕らは図書館を出て週刊誌に出ていた角野医師が勤務している病院に向かった。
病院は大きな○○国立病院だ。
病院受付で暇そうにしてたおばさんを見付けて聞くと既に二年前に退職したと云う。
何でも今は違う病院で院長をしてるらしい。そこの娘と結婚したそうだ。
「あの先生は腕はともかく私生活がね…」と言いながら今の病院を教えてくれた。
H総合病院。
僕らはアポを取るため電話をした。電話に出た受付の女性は丁寧に不在だと教えてくれた。
Y町で会合だそうだ。
なかなか捕まらないもんだ。
大塚は病院を出ると何処かへ電話をしていた。
しばらく話していたが戻ってきてニコニコしている。
「見つけたぞ。Y町のYカントリーだ。」
「よく解ったな。」
「Y町と言えばゴルフしかあるまい。
ゴルフ好きな医者は何人か知り合いがおるからの。聞いたら、その人の何組か後で回っているそうだ。もうすぐ上がるらしい。待ち伏せよう。」
大塚はそう言うと車を飛ばした。
「角野先生ですね?」
「そうですが、君たちは?」
「大塚と高山と云うものです。ちょっとお話宜しいですか?」
「君たちぃ、見ての通り今はプライベートでね。用があるなら病院にアポ取ってきてよ。常識だろっ!」
急に横柄な態度になった。こういう医者は多いらしい。
僕は少し大きな声で言った
「分かりました。警察に聞いて来たんですが…。晴美さんの件なんでこちらの方がいいかと思ったんですが。では病院の方にアポを…」
角野は慌てて僕の腕を掴んでクラブハウスの隅へ連れて行った。大塚も後から付いてくる。
「何なんだ一体!?」
「お話宜しいんですか?」
「だから何なんだっ!」
イライラしている。
「そのお若さであの病院の院長ですか。すごいですね。」
「関係ないだろ!」
「…奥様のお父さんの病院を受け継がれたんですよね?三年前ですよね?」
「調べたんなら解るだろ?いちいち確認するな!」
「まあ先生落ち着いてくださいな。あの病院を任せるのに幾ら娘の付き合ってた相手とは言え、すぐに任せないでしょ?何年も前からのお付き合いだったんですよね。」
角野は大きくため息をつくと諦めた様に話し始めた。
「…ああ研修をあの病院で受けた頃からだ。義父は癌でね、跡継ぎを探してたから取り入ったんだ。」
「じゃあ晴美さんは?」
「出身の大学病院の方が医者が足りない時期があってね。暫くそこに外来医師として行っててね。その時、患者として知り合ったんだよ。」
「なる程。既に婚約者がいたにも関わらず晴美さんともお付き合いしてたと。」
「ああ…当時は結婚して病院に収まったら遊ぶ事はできないと思ってたからね。」
「それがバレたんですね。」
「ああ。妻…当時の婚約者が携帯を見てしまってね。
携帯にロックをするのを忘れてたんだ。
義父はもうすぐ逝きそうだったし別れる訳にはいかない。
妻には友達だと言ったんだが信じては貰えなかった。
だからあの日、別れ話をする為に会いに行ったんだ。」
「そこで晴美さんの惨殺された現場を発見した」
「ああ。」
「現場の公園前にはタクシーは既に来ていましたか?」
「タクシーの後ろに車を着けたんだ。中まで覗いたりはしなかったからそんな事になってるとは思わなかったがね。…それより君たちは警察の何なんだね?全部証言したことじゃないか。」
「そうなんですね。五十嵐警部に確認取ります。またお会いする事になると思います。
では」
後ろから おい!ちょっと待てよ と聞こえたが大塚はスタスタとその場を後にした。
車に戻ると携帯で五十嵐警部に電話をした。
『何の用だ。こっちは忙しいんだぞ!』
「二つ教えて下さい。一つは角野は何科の医師ですか?もう一つは左利きですか?」
『産婦人科医で左利きだ。傷口の事だろ?右鎖骨下から胸骨に沿って切ってる。しかも刃物には馴れてるからな。
しかし防犯カメラがだな…
…お前らまさか角野に会ったりしてないだろうな?』
大塚はそっと電源を切った。
「あとはアリバイじゃな。」
「大塚、って事はまさか角野が…」
「わらわはそう睨んでおる。」
「そんな…だってアリバイが…」
「ふん。トリックであろう。暴いてくれる」
大塚は車を例の公園に向けた。
公園前の道路は比較的広く路側帯がつくってある。
住宅地とは少し離れているので車両も少なくて駐車もし易い。
雨の夜なら駐車車両は更に少ないだろう。
僕たちは車を降りて公園内に入って行った。
普通の遊具のある公園の横の道を奥へ進む。
山田が言っていた様に確かに奥に道が繋がっている。
道は両方が鬱蒼とした木々に覆われている。
遊歩道としてキチンと整備はされているが薄暗い。
暫く進むと赤い屋根の四阿が見えてきた。
「あれか…」
確かに想像してたより明るくて綺麗だ。
ただ、夜には街灯が灯っても暗いだろう。
二人でベンチに座る。
「なぁ、大塚…」
「なんじゃ?」
「僕は思うんだけど、もし本当に角野が晴美さんを殺したとして、なぜ殺さなきゃならなかったんだ?」
「…」
「別れ話で済んだ事だろ?」
「理由があったのだろう。」
「そりゃ理由が無いわけないだろうからな。その理由って何だったんだろうか?」
「…わらわの憶測に過ぎん。もう少し待て。」
大塚は難しい顔をして悩んでいた。
僕も考えながら空を睨んだ。
空は高く青い。刷毛でサッと塗った様に薄い雲が流れていく。
ザッザッと音がして人が近づいて来るのが見えた。
おばさんが犬を連れて歩いて来た。散歩だろう。
…あ、おじさんだった。
赤い服を着ていたから近くにくるまでてっきりおばさんだと思っていたがおじさんだった。
大塚も歩いてくるおじさんを見ていた。
「解った。…解ったぞ。」
「解ったのか?」
大塚は携帯を取り出すと五十嵐に電話をした。
『お前ら!何度も電話して来やがって。俺をおちょくってるのか?!』
只でさえ大きな声なのでこっちまで五十嵐の声が聞こえてくる。
「そうじゃない。聞きたい事があるのだ。ぬしが話したく無ければ捜査本部へ繋いで欲しい。」
『お前…何か見つけたのか?』
「だから五十嵐殿が本部に話すか、わらわが本部に話すかの違いに過ぎん。どうする?」
『お前…駆け引きしようってのか?…解ったよ。あの捜査本部の中に俺の先輩がいる。
話してみろ。
俺が解らない事は先輩に聞くから。
いい加減な事を捜査本部に流されてもかなわんからな。』
「ふむ。約束じゃぞ。」
『解ったよ。』
「タクシーはいつから現場におった?」
『犯行時間の30分前には現場に停まってたらしい。他のタクシーが通過時に目撃している。』
「あのタクシーの移動経路は解ってるのか?」
『はぁ?どういう意味だ?』
「あのタクシーはどこから来た?あと、角野は自宅を何時に出たんだ?」
『えーと…ああ面倒だ。こっちに来い。待ってるからっ』
そう言って電話は切れた。
…何のこっちゃい…僕にはよく解らない…
大塚は何も言わずに車を五十嵐の居る所轄署に走らせた。
「会議室が塞がっててな。すまんがここしか空いてないんだ。」
僕らが通されたのは取り調べ室だった。
スチール机とパイプ椅子。窓の格子がお前ら逃がさんぞと物語っている。壁にある茶色の変な染みが嫌な感じだ。
婦警さんがお茶を持ってきてくれると同時に七三分けのメガネをかけた、如何にも堅物的なおじさんが入ってきた。
「五十嵐、こんな所しか空いてないのか?」
「すみません吉岡さん、わざわざ」
あの五十嵐がペコペコしている。
「本庁の吉岡警視だ。」
僕らの方を向いて五十嵐が紹介してくれる。
「何か情報があるそうだね。あの事件も三年経って本部も縮小されて専属も4人しかいない。正直捜査も行き詰まってる。
プロの我々がやってても困難な事なんだ。それをを君たちが?何か解決できるモノでもあったのか?」
吉岡はそう言うとドカッとパイプ椅子に座った。
「あのタクシーの移動経路は解っていますか?」
「ああ、※※駅前のそばの駐車場で回送の表示を上げて駐車してたのは確認されてる。午後7時頃だ。」
「角野が自宅を出たのは何時ですか?」
「えーと、午後7時半だな。」
「角野は公園に着くまで何で1時間半も掛かってたんですか?」
「…供述では○○デパート駐車場に車を置いてどうやって別れ話をするかを考えていたそうだ。○○デパートのカメラも確認した。ちゃんと8時前には車が入って行くのが映っていたよ。」
「何時にデパートを出たんですか?」
「午後8時半過ぎだな。出て行く車は確認出来てる。」
「…その間はずっと車に?」
「いや、暫く店内を彷徨いたと言っていた。」
「地図、ありますか?」
五十嵐が慌てて交通課から地図を持ってきた。
「○○デパートはここ。※※駅前はここ。距離で約2キロ。公園まで10キロ…。」
「デパート前のタクシーは目撃者探しはしてないですか?」
「…実施していない。」
「では、そのデパート前を利権として持っているタクシー会社にデパート前から※※駅前まで行った車を探してみて下さい。運行記録はまだあると思います。あと、逆に※※駅前から○○デパートまで行った車は無いか見て貰えませんか?※※駅の構内タクシーで。」
「なぜか説明しろ」
「入れ替わりですよ。」
「入れ替わり?角野とタクシー運転手がか?」
「タクシーに乗ってるからタクシー運転手では無いかもしれないと言うことです。
ちなみに○○デパートには私鉄の駅が地下に併設されてる。隣の駅前に行くのにタクシー乗りますか?まして雨降りです。隣の駅に行くなら地下から電車でしょ。タクシーで移動する必要がない。必要があるとすればそれは入れ替わる為。恐らく○○デパートの防犯カメラは入り口に入る車は映るのでしょうが帰る時には後ろからしか見えない。違いますか?だから入ってきた時の運転手と帰りの運転手が違っても解らない。」
吉岡はいきなり電話を始めた。怒鳴り声を張り上げながら何カ所かに電話をしていた。
やっと僕にも解った。
角野はデパートの駐車場に車を置いてタクシーで※※駅前に行き、被害者のタクシー運転手と交代したんだ。
被害者のタクシーで公園に行く。
そして晴美殺害。
タクシー運転手は逆に○○デパートに行って角野の車を出して公園に向かう。
公園に着いたタクシー運転手は先に着いている自分のタクシー内で角野と交代。そして角野に殺害される。
角野はその車から降りて四阿の現場まで戻って発見者を装う。
「…なぁ、じゃあ着てた黒い合羽やナイフはどうしたんだ?」
「ぬしは観察力が低いのだ。さっき公園に行って車を置いたであろう。あの広くなった路側帯にあったマンホールに『雨水』と書いてあったろ?」
「…そんなの見てないよ」
「恐らくあそこに放り込んだ。雨合羽は返り血を浴びない為。恐らく晴れてる時の事を考えてウインドブレーカーの様な物だと思うのだが。
角野にとっては幸いな事に雨が降っていたんだ。もし見られても誰も怪しむまい。
雨水マンホールの中はドウドウと水が流れておっただろうから証拠も流れるわな。」
「凶器が見付かってないのもそれが原因か…犯人が持って逃げたと思っていたが。」
五十嵐は感心したように頷いた。
電話をかけ終わった吉岡はこっちを向いてため息をついた。
「すぐには解らん。調べさせる。」
「解ったらまた教えて下さい。あと、犯人は左利きですよね。晴美さんは右肩から切られてるのですから。
では何故お腹まで切ったのですか?」
「何故って…勢い?」
五十嵐が不思議そうに言う。
「必要あるまい。わざわざ殺すのに返り血を浴びやすい切り方にした理由がない。
刺してしまえばよいではないか。それを鎖骨下から刺して、肋骨と胸骨の間の軟骨を切り裂きながら腹まで…目的がお腹だったとしたらどうだ?死体検案書を見て欲しい。内臓の具合がしりたい。」
吉岡は頷くとまた電話を始めた。
「五十嵐殿、交通課に行って、Nシステムでこの日の被害者のタクシーの移動経路を調べて欲しいのと、
この地図にNシステムの設置場所と今回撮影された防犯カメラの位置を書き込んで下さい。恐らく、角野の車はいびつな走り方をしていると思うのです。タクシー運転手ならどこにNシステムがあるか知っているでしょうからワザと映る様に走ってるはず。」
五十嵐は頷くと取り調べ室を飛び出して行った。
「…解った。君たちにはヒントをたくさんもらった。これから先は我々がやる。引き取ってくれ。」
吉岡は疲れた表情でそう言った。
「いえ、もう一つできる事がありますね。警察では出来なくても我々ならできます。」
大塚はそう言うと吉岡に自分の計画を話した。
吉岡は聞き終わると更に大きなため息をついて内線と携帯で何人かを呼び出した。
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「何だ!また君たちか!」
明らかに不機嫌そうだ。
「すみません。奥さんにお聞きしたらこちらだと言われましたので。」
バシッ と言う音があちこちから聞こえる。
角野の病院のそばのゴルフ練習場だ。
ほぼ全区画でおじさんがゴルフクラブを振っている。
「わざわざこんな所まで来なくても…支配人呼んで追い出してやろうか?」
角野は如何にもお洒落したようなスタイルでクラブにもたれながら迷惑そうに言った。
「ああ、多野支配人でしたら私の知り合いですよ。
すぐ終わりますから。今日はあの日に先生が行った○○デパートについてですので。」
「…ああ、確かにあの日○○デパートに行ったよ。考えながら店内を歩いたよ。」
「どこに行きましたか?」
「覚えてないよ。階段を使ってうろうろしたから。」
「五階には行きましたか?」
「だから覚えてないって。」
「じゃあ、館内放送は覚えてますか?」
「館内放送?」
「あの日、同時刻に△△銀行の支店長がゴルフ用品売り場で先生を見かけたそうですよ。携帯をかけたが出ない。仕方ないので館内放送をかけたそうです。…聞こえませんでしたか?」
「…いや気付かなかったな。階段を使って上り下りしてたから聞こえなかったかな。」
はったりと言うことに気付いたか…
僕はそう思った。
大塚は静かに続けた
「そうですか…。
角野、あんたが犯人だ!!」
「バ…バカな事を!」
明らかに動揺している。
「バカではない。あのデパートの階段には防犯カメラが付いておるのだ。各売り場にもな。ぬしは映っておらん。」
「あ、ああ…間違えたかな?隣の××百貨店の…」
「いや、そこも調べた。ちなみに周りの全てのデパートも調べた。どこにも映っておらんわ。ただ一カ所だけぬしが映っていた…」
「…」
「正面入り口横のATMの防犯カメラがぬしが乗り込む姿を捉えておったわ」
「それは俺じゃない!俺は横の…」
「横の、何です?」
「いや、何でもない。間違いだ。大体車で来た私が何故タクシーに乗る必要がある?」
「は?」
「タクシーなんか乗ってないって言ったんだっ。」
「…誰がタクシーと言いました?」
「お前さっきタクシーに乗ったって…」
「言ってません」
大塚はポケットからボイスレコーダーを取り出した。
「なんなら聴きますか?」
僕が言うと近くのブースで練習していた数人のおじさんが寄ってきた。
「いやぁ、我々もお聞きしたいですな。非番で練習してたらたまたま耳に挟んじゃいましてね。
…確かに○○デパート横の出口前のタクシーが※※駅前まで一人男性を送ってるんですよ。…興味深いですな。」
「貴様ら、騙したなっ!」
角野はクラブを叩きつけて真っ赤になった顔で怒鳴った。
「いや。わらわはお聞きしただけですよ。」
「そう。一般人が質問したのをたまたま我々捜査班が聞いただけでして。…ここじゃなんですから警察署の方へ」
角野はゴルフウェアの捜査員に囲まれて連れて行かれた。
「やっぱりあいつだったんだな。」
「ああ。あやつは鬼や悪魔ではなくゴミだ。地獄の業火に炙られたらよい」
そう言って練習場を後にした。
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
一週間程して新聞やテレビが賑やかになった。
『殺人医師逮捕』
『やはり犯人だった』
新聞にも賑やかに文字が踊っていた。
黄梅院のカウンターで大塚は新聞を読んでいた。
「おー高山、お疲れ。」
「お疲れ。新聞読んでたのか?」
「ああ。ひどい話じゃ。」
捜査本部の取り調べで角野は晴美のお腹に赤ちゃんがいたのを抹殺したかったと言った。
悪阻の症状が出ていたので間違いなく自分の子供だと思った。しかし自分が晴美と別れてから出産し、認知だと騒いだら身の破滅だと解っていた。時間があれば堕胎もさせられただろうが、義父が死んだらすぐに病院長になる。今後時間をつくる事は不可能だ。
そう思った角野は単に殺すだけでなく、全身を切り裂いた様に見せかけて子宮を切り中を確認したのだ。
監察医の死体検案書には子宮も破断しているという記載だけだった。
ただ、今回、再検討され、写真で見ると切り口が広げられた様にも見えるという注意書きが後からなされた。
子宮の中には赤ちゃんは居なかった。
遺体発見時の血液検査でもホルモン関係の数値でも妊娠はしていないと判断された。
つまり角野は罪のない殺さなくてもよい晴美とタクシー運転手を殺した事になる。あまりに残酷で身勝手だと捜査関係者はみんなが憤った。
マスコミには別れ話のもつれとだけ警視が発表した。
「なんだか悲しいな」
「…子供ができたら身の破滅と言うのがわらわには解らぬ。子供を悪魔の様に言うとはの。」
大塚はそう言った。
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
「晴美、花を持ってきたよ」
四阿のベンチのそばに花束を置いた。
花をくるんである透明なセロハンに雨粒が付いている。
そこにポタリと涙が落ちた。
気づかない内に泣いてたみたいだ。
『ほら龍平くんっ、泣かないの。私はいつもあなたの側にいるから。
ねっ』
そんな声が雨の中から聞こえてくる気がした。
あの大塚という女の子に依頼してから3日目呼び出されて大体の話を聞いた。
「雫…晴美はやはりあの世に行かせてやらねばならぬ。」
「だってそんな事したら…」
「ああ。ぬしとは会えなくなるかもしらん。しかしな、晴美の事を考えたら。この世に捕らわれて行けなくなってしまうのはツラいのだぞ。」
「…」
「一度会わせてやる。四阿へ行こう」
小雨ふる四阿で大塚さんは何か唱えた。
雨の向こうから赤い傘が見えて来た。
「雫!」
「龍平くんっ!」
小雨の中、二人は抱き合った。
「色々ありがとう龍平くん。
…私、あなたに生きてる間に会いたかったなっ」
「俺も…」
「私ね、自業自得の様な気がするの。人を見る目が無かったのが一番の原因なのよ。」
「いや、そんなことないだ…」
話そうとすると雫は人差し指で唇を押さえた。
「いいの。私、そろそろ行かなくちゃ。本当にありがとう。」
雫はキスをしてくれた。
それと同時に姿がフッと消えた。
「雫…いっつもすぐに居なくなっちゃうんだもんな。最後位さ…愛してるって…言わせて欲しかったよ…」
「浄仏したの…。」俺は大声で泣いた
ひたすら泣いた。雨は止んでいたが目からは涙がとめどなく溢れ続けた。
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
「高山、わらわはここに行きたいのだ。」
大塚はカウンターの上にパンフレットを置いた。
『秋のヨーロッパ七カ国12日間 45万円』
「大塚が出してくれるのか?」
「わらわがそんなお金があるわけなかろう。でも行きたいのじゃ!連れていけ高山!」
「お前さぁ無理言うなよー!」
「…じゃ、これはどうじゃ?」
『秋の京都二泊三日』
「ああ…これなら行けるかな…」
「よしっ!決まった。」
「何が?」
「秋の旅行じゃ。電話するぞっ」
「おい、待てよっ…」
大塚は僕の話も聞かずに電話を始めた。
あーあ…仕方ないな。
大塚は楽しそうに電話を掛けている。
黄梅院の窓から見上げた空は高く青くすっかり秋になっていた。
おしまい。
杏の霊譚 夏 お読み頂きましてありがとうございました。
元はかなり前にノートの端にちょこっと書いたイメージから膨らんだものです。
書いてる途中から杏と高山が、下田や仲間を増やしながら勝手に動き始めましたので、作者的には二人の行動を追いかけるのに一生懸命でした。
『こりゃビスコ!わらわの話を早く進めんか!…しかし、ぬしの力量ではわらわの可憐さを出すのは無理なのかのう…』
『…僕もそう思う。もう少し動きとかどうにかならないかい?』
『いやぁ俺は彼女ができたから感謝してるんッスよ』
『ユージ!あんたは出て来なくていいんだよっっ!』
…という感じで賑やかに『杏の霊譚 秋』へと進行して行きます。
拙い文章で読みにくくて申し訳ありません。
懲りずにまたお越し頂けたらと思っております。
2010 夏 ビスコ