隠れ里
薄いポンチョを叩く雨の感覚が解らなくなってきた。
雨が弱くなった訳じゃない。
ある一定の強さの刺激は慣れてくるものなんだ。
それとも感覚がおかしくなってきたのか…
視界は雨と霧の中で数本先の木までしか利かない。
足元の落ち葉は濡れたスポンジを踏んでいる様にグチャグチャと音を立てて登山靴の甲まで沈み込む。
変に沈むから力が入りにくい。脹ら脛もすねもガクガクする。
何よりも寒い。
山中とは言え、まだ8月下旬で気温は高いはずなんだが。
ポンチョの隙間から入り込んだ雨水がつうぅ…と背中や胸を滴る感覚が気持ち悪い。
何か虫が這っている様だ。
僕は一体どこに居るんだろう。首を持ち上げて周りを見渡すが煙っている現状と風景はさっきと何も変わっていない。
「こんな時に壊れるなんて…」
一人呟く。
借り物の携帯GPSの液晶画面はしばらく前から何も写らなくなっていたが何度も確認してしまう。
携帯電話は完全に圏外だ。
叫びだしたい自分と『大丈夫、すぐ知ってる道に出るよ』と思う気持ちが交互に表れる。
道に迷ったのは間違いない。
登った時と同じ道を歩いて下山していたはずなんだ…。
分岐点も覚えていた。大岩までは予定より早く降りていた。
その後の分岐で間違えたか…。
仲間と離れて既に5時間経つ。予定だと2時間位前には林道に出ていないといけないはずなんだ。
仕方ない。また山頂に向かおう。
遭難は下山途中に多い。
山頂は一つだが山の裾野は広いから間違えるとどこに降りるか解らないのだ。
『解らなくなったら山頂へ。』鉄則なんだが、下山してる途中からまた登るというのは心理的にもキツい。
『今まで降りて来ただけ登ると思うとうんざりする。それよりこのまま下れば知ってる道に出るだろう』と思うからだ。
しかし、これでは遭難してしまう。
僕は諦めて、戻ろうと振り返って気付いた。
振り返った足元は下っている。…あれ?今、僕は登っていたのか?
そう言えば、さっき写らないGPSを見て諦めてから山頂に向かったんじゃなかったか?
…いや、それはそう思っただけだったか?
それより何で僕は道を外れて落ち葉の上を歩いてるんだ?
脚がガクガクする。
疲れて乳酸が溜まって痙攣を起こしているだけじゃない。
怖いんだ。
落ち着け!落ち着くんだ!
雨と霧で解らなくなってるだけなんだから。
そう思って深呼吸を繰り返す。
「…!」
…雨の音に混じって左手の方から川の音が聞こえる。
やった!川沿いに下れば…
そう思って左の木立の中を進む
「あっ!!」
そう思った時には体は急斜面を滑り落ちていた。
滑る斜面の先は無かった。
次の瞬間、僕の体は宙に浮いた。
崖になっていたんだ。
顔に当たる雨水で目を覚ました。気絶してたみたいだ。首をゆっくりと回すとそそり立つ崖が目の前にあった。
上は霧で見えない。
背中のリュックと茂った下草がクッションになってくれたみたいだ。
起き上がろうとして足首に痛みがはしった。
右足首が痛い。捻ったみたいだ。
しまったなぁ…
登山用ストックも落ちた拍子に無くなってしまった。
近くの木にしがみつく様にして立ち上がる。
そっと右足に体重を掛けるとズキッとした痛みが膝まで走る。
見渡して杖になりそうな枝を見つけた。
小枝を払って杖代わりにする。
しかし、歩く度に痛い。
骨は折れてはいないと思うんだけど…。
暫く移動してみたが杖にすがって歩くのは体がとてもツラい。寒いのに嫌な汗が背中を伝う。
仕方ない。動かず天候の回復を待とう…
近くの大木の根元に座り込む。下はじっとりと湿ってはいるが濡れている訳ではない。
リュックを開けて中からウイスキーの小瓶を取り出した。
自分を落ち着かせるのと寒さに堪える為だ。
足首の痛みにアルコールがどんな作用をするか解らないが、寒さは耐えきれない。
茶色の液体を含んで飲みこむ。
熱い液体は喉を灼いて体の中心へ移動していく。
お腹に蝋燭が灯った様だ。
ホッとひと息つく。
目を閉じると大塚との会話を思い出す。
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
「登山に行くのか?」大塚は煎れているコーヒーポットの手を止めて聞いた。
「ああ。学校の友達とな。僕はバイトがあるから山頂小屋で一泊して下山するんだけどな。」
「良いのぉ…」
「一緒に行かないか?」
「良いのか!? …あ、ダメなんじゃ。明日ばあちゃんの件で病院に行かねばならんのだ…」
パッと笑顔になったがすぐ暗い表情になってそう言った。
「残念だなぁ。じゃ、次は一緒に行こうな」
「ん。きっとだぞ。ちゃんと事前に言ってくれ。予定は空けるから」
大塚はそう言った。
・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
「大塚…お前来なくて良かったよ…」
一人呟く。
雨は降り続いている。
天気予報だとそんなに崩れないはずだったんだが。
止んで天気が回復したら山頂も解るだろう。
焦らない焦らない。
自分で自分に言い聞かせる。
リュックの中からビニール袋に入ってる食料を取り出す。
クラッカーとチョコレートだ。
これを食べると後は飴とガムしか残らない。
お昼過ぎには麓の街まで下りる予定だったからそんなに食料を持ってきていなかったんだ。
でも、この寒さを凌ぐには食べて体温を上げて内部から温めないと。
衰弱すると移動できなくなっては明日困る。
大木を背もたれに座ってクラッカーを食べる。
『ぬし、山神様の為に全部食べたらいかんぞ』
大塚の声が思いだされる。
僕はクラッカーとチョコレートを少し残し、今夜守って貰わないといけない大木の根元に供えた。
どうも山の陰にいるらしく、辺りは急激に暗くなってきた。
心身共に疲れきっていたのだろう、ウイスキーの酔いも手伝ったのか、こんな状態なのに眠ってしまった。
「おい、起きろ!」
僕が目を開けるとそこに人が立っていた。
すごく違和感を感じた。
理由は簡単。
この山奥なのにその立っていた男はポロシャツにスニーカーの軽装だったから。
「こんな所で寝てると死ぬぞ」
そう言われて慌てて体を起こす。
起きて男を見ると薄汚れた感じもしない。
家からそのままちょっと近所に買い物に来たみたいだ。
「あの…ここはどの辺りですか?街にはすぐ下りれますか?」
「…この時間からじゃ無理だ。夜が明けてからにした方がいい。ほら、付いて来い。」
僕はポロシャツの男に腕を引っ張って貰って立ち上がった。
リュックを背負って男に付いて杖を使って歩き始めた。
ポロシャツで来れる様な所なのに夜の間は降りれないのか。無理って一体どういう事だよ…?
ポロシャツの男は傘もささず小降りの雨の中をスイスイと進む。
モタモタしてると置いて行かれそうなので必死で歩く。
足の痛みが響く。
薄いグレーのポロシャツの背中を必死に追いかけた。
小雨降る暗闇の中はぐれたらもう会えないだろう。
僕はスポンジの様な地面を踏みしめながら後を追う。
「お前足挫いてるのか?ほら」
そう言って男は肩を貸してくれた。
どの位歩いたのだろう
藪を抜けたところで灯りが見えた。
ぼんやりとしているが確かに灯りだ。
灯りの所には何人かの姿も見え、古い木造の小屋が何軒か建っていた。
男と僕が近づくと向こうからランプを手に持って人が近づいてきた。
「やあ、新顔かい?」
そう言ってその男は笑った。
若い感じのTシャツの男だった。
「御神木が呼んだみたいだ。
根元で寝てた。」
ポロシャツの男はそう言って僕を指した。
「パパー」
暗闇からおかっぱ頭の4~5歳位の女の子が出てきてポロシャツの男の腕を掴んだ。
ピンクのフリルのついたワンピースを着ている。
ポロシャツの男と同じ様に服装に違和感がある。
こんな女の子までこんな山奥に…。
もしかしてキャンプ場か何かなのか?
「いらっしゃい。」
声のした方を見ると、小屋からチェックのシャツに短パンの女の子…僕より少し若いかな…が出て来た。
こんな状態なのに不謹慎かもしれないがつい思ってしまった。
…かわいい…
「まずは中に入って着替えなさいよ…あなた怪我してるの!?」
その女の子に腕を引かれて一軒の小屋に入った。
入る姿を見て「ミサト頼んだぞー」と声が聞こえた。
中は思ったより広い。
部屋の真ん中に炉が切ってあり鍋が掛かっている。
暖かい。
登山用の靴を脱ぐのに苦労した。
濡れてる上に腫れてるから。右足首は紫色になって腫れていた。
「まずは早く着替えないと風邪ひくよね。すぐ着替えて」
女の子はそう言って小屋を出ていった。
僕は手早く濡れた服を脱ぎ、予備のシャツをリュックから取り出したがその服も濡れていた。
女の子が入ってきてバスタオルと毛布を渡してくれた。
女の子が急に帰ってきてパンツ一枚の姿の僕は慌てふためいた。
女の子はその姿を見ておかしそうに笑った。
その後、バスタオルと毛布にくるまってる僕の足を女の子が治療してくれた。
…草を揉んだ物を水で浸してタオルで包んでくれた。
「これで熱を冷ますのよ。折れてはいないから大丈夫よ」
そう言って腫れてる足首をポンポンと叩いた。
「痛っ!」
と言うとにっこり笑った。
…大塚みたいだな。そう思った。
その後鍋に煮えていたキノコ汁をご馳走になった。
女の子は僕の濡れた服を床に広げて乾かしてくれた。
「あの…ありがとう。助かったよ」
「気にしないで。お客さんなんて滅多に来ないから大した事はできないけどね。」
「…え…と、他のみんなは?」
「ああ、みんな違う小屋に住んでるから。ここは私の小屋なのよ。」
一つ屋根の下…若い男女…
…いいのか…?
「住んでるの?」
「ええそうよ。」
若いのにこんな山に住んでるって…
…いや、やっぱりキャンプ場とかなんだろうな…
「ここから近い街までどの位で出れるかな?」僕は普通に聞いてみた。
「出るの?…歩きで3日位かな…出る道無いけど…」
「え…?」
冗談だよな。まさかな。
「私はミサトって言うの。あなたは?」
「高山と云うんだ。」
「タカヤマさんね。幾つ?」
「もうすぐ21だよ」
「じゃあ、あたしの2つ上なんだね。」ミサトはなんだか嬉しそうに笑った。
「ずっとここに居るの?」
「うん。そうだよ。」
淀みなく答えた。
「テレビもラジオも無いから不便じゃない?」
「全然。この生活が私に合ってるみたいなの。」
「そうかぁ」
僕はそう返事はしたものの無理してるんじゃないかなぁと思った。
「タカヤマさん、肩を見せて。」
「肩?」
「気付いてないのね。怪我してるのよ。」
毛布をズラして右肩をみると確かに小枝が深く刺さっていた。さ迷っている間か崖から落ちた時にどこかで刺さったんだろう。痛みも何も感じなかったが血が流れて固まっていた。
ミサトが爪で小枝を摘んで引き抜いた。ズキッとした痛みが走る。
「痛っ!」
ミサトの指先には思ったより長い小枝が摘まれていた。
傷口から、つぅぅ…と血が流れ出てきた。
ミサトは当たり前の様に傷口に唇をつけた。
「…ぉ、ぉぃっ…」
僕はびっくりした。
傷口の熱を持った痛みがミサトの唇の冷たさで痺れた様になった。
ミサトは吸いながらこっちを見てニコリと笑った。
吸った血を屑籠に吐き出すのを何回かしてくれた。
傷口から流れていた血は止まったみたいだ。
「ごめんね。ここには消毒する物もないから…明日薬草を貼ってあげるわ」
そう言って毛布を肩にかけてくれた。
「朝まで眠りなさいな」
そう言ってミサトは、ランプの灯りを絞り、自ら服を脱いで下着姿になると僕の毛布に入ってきた。
「…ヤバいよ…」
「毛布は一枚しかないのよ。明け方は冷えるからこの方が暖かいわよ」
そう言って僕の背中にくっつく様に眠ってしまった。
唇はあんなに冷たかったのに背中に人の暖かさを感じた。
なんと言ったらいいのか…生きているという実感が伝わってきた。
いつの間にか僕も眠ってしまった。
目が覚めた。
植物を編んだ敷物に毛布を掛けていた。
…夢じゃなかったんだ…
隣には昨日僕の着ていた服がきちんと畳んで置いてあった。
小屋の中を見渡してもミサトはいなかった。自分の服を着て毛布を畳む。
足首の痛みはかなり楽になっている。
部屋の隅に僕のリュックも置いてある。
小屋の隙間のある壁からは外の光が漏れ入っている。
晴れたのか?
僕は小屋の外に出た。
木々の間から光が射し込んでいる。
晴れたんだ。これで帰れる!
「おはよう高山くん」
振り向くとミサトが立っていた。
水を運んできていた様だ。手には桶を持っている。
昨日の下着姿のミサトを思い出してドキドキする。
「お…おはよ。晴れたね。」
「いい天気になったわねー。
…でも川は増水していて暫く渡れないのよ…」
「えっ!? 川?」
「この先に谷川があるの。そこを越えないと街の方へは降りれないわ。
今、見てきたんだけど濁流になってた。
…あ、この汲んできた水はそばの湧き水なの。どんなに日照りでも雨降りでも涸れたり濁ったりしないのよ」
「…」
昨日崖の上で聞いた水音の川だろうか。
しかし困ったな…麓には降りれないのか…
僕の表情を汲み取ったのかミサトは続けた
「そんな心配しなくても大丈夫よ。
2~3日したら川も落ち着くわ。それまでは一緒にいたらいいし」
「…迷惑じゃない?」
「そんなことないって。ほら朝ご飯にしましょ」
ミサトは僕を連れて小屋に入った。
囲炉裏端でお粥と焼き魚を出してもらった。
質素な気がしたが食材の味が濃く、とても美味しかった。
粥の米の質感と甘さ、小魚本来の旨味。
僕が今まで食べていた物は一体何だったんなんだろう…
素直に美味しいと伝えるとミサトはにっこりと笑った。
食事が済むと何もする事がない。
二人は囲炉裏端に座って話をした。
共通の話題を見つけようと思ったけど何だかミサトの過去を聞くのはいけない様な気がした。
普通に考えてもこんな所に住むなんて訳ありとしか思えない。
だから二人の会話は天気や自然の話が中心となった。
ネタが尽きると二人で黙って時間を過ごした。
小屋に二人きりでする事もなくただぼんやりしてた。
でも気まずい雰囲気にもならずなんだかほんわかとした、まったりした時間だった。
僕は聞いていいものかどうか解らなかったけど他の三人について聞いてみた。
「ポロシャツの人は元銀行員のナガノさんよ。女の子はカナちゃん。本当の娘さんじゃないんだけどナガノさんと親子として住んでるの。
Tシャツの人はヨコタさん元プログラマー。
ゲーム作ってたらしいわ。」
「みんなは仲間…元々知り合いなの?」
「いいえ。みんなここで出会ったのよ。最初に来たのはナガノさん。次がヨコタさん。私。女の子の順ね。」
僕はそこでふと寒気がした。
あんな女の子一人で家族でもない人と一緒に暮らしてるって…
学校…幼稚園かな…家族は?
心配してるんじゃないかな?てか、それを普通に受け入れているここの住人って…
…僕は考えるのを止めた。
助けてもらっている立場もある。
僕は色々な思いをぐっと飲み込んだ。
「ねぇミサトさん、僕に何かできる事はないかな?
お世話になってるのに何もできないのもツラいからさ。」
「…そうね…考えておくわね」
ミサトはそう言って笑った。
僕は杖を使って歩く練習を兼ねてミサトと近場を散歩に出ることにした。
ここの集落には四軒の小屋が建っている。一つは共同物置とトイレになっている。
ナガノと女の子は共同畑に出かける所だった。
「やぁ、元気になったみたいだな。」
僕を見てナガノは言った。
「野菜を採ってくるわね」
女の子は僕たちに小さく手を振って出かけて行った。
「畑があるんだね」
「あるわよー。菜っぱとか瓜とかイモとかね、色々植わってるわ」
「みんなで育ててるの?」
「うん。4・5人位なら充分賄える位は採れるから。ちなみに魚はこの先の川で捕れるわ。ヨコタさんが今は麦と稲を栽培実験もしてるし。
」
…こんな山奥で本当に自給自足の生活してるんだ…
集落の先に左右に分かれ道がある。
右に行けば川に出る。
左に行けば山奥に入って畑があるそうだ。
僕らは川の方向に向かった。
川の手前に木立があり、そこに湧水池があった。大きな石があり、その下から滾々と透き通った水が湧き出している。
石の上に木のコップと柄杓が置いてある。コップで掬って口に運ぶと冷たい山の恵みが体全体に染み渡る様だ。
湧水池を超えるとドウドウと川の音が聞こえてきた。
杖を突きながら河縁まで行くとそこには茶色な濁流が渦を巻いて飛沫を飛ばしていた。
これは無理だ。
河幅は20メートル位だろうか。中程に尖った岩が幾つか見えるがあそこまで辿り着くのも不可能だろう。
ここは、流れのちょうどカーブの途中らしく上流を見ても下流を見ても見通しは利かない。
橋や高圧鉄塔も見えない。
やはりかなり山奥の様だ。
ミサトが僕の事をじっと見ていたのに気づいた。
「ほんとだ。スゴい濁流だね。」
簡単なコメントをするとミサトはホッとした表情をしたように見えた。
「さぁ、戻りましょ。ここは危ないわ」
ミサトはそう言うと僕の腕を取った。
小屋に戻る。
小屋に戻る途中でミサトがしゃがんで何か葉を摘んでいたが、小屋に帰るとその葉を石ですりつぶして緑色のガムみたいな物を作った。
「はい。脱いで」
僕はシャツを脱いで肩を出した。
肩の傷口は塞がっている様に見えるが周りは赤く熱を持って腫れている。
ミサトはその緑色の物を傷口に塗ってくれた。
「葉っぱが乾くまでそのままね」
そう言ってにっこり笑った。
「薬草に詳しいんだね。」
「ううん。お山が教えてくれるから…。」
「お山…」
会話はそこで途切れた。
そそくさと葉をすり潰すのに使った石を持ってミサトは小屋を出て行った。
やはり深くは聞かない方が良いのだろうか。
暫くして帰ってきたミサトは焼きジャガ芋を持ってきてくれた。
ナガノ親子が採ってきて焼いてくれたらしい。
ふたりでハフハフ言いながら食べた。…美味しい。
幸せそうにジャガ芋を食べているミサトを見てるとなんだか暖かい気持ちになった。
「夜はみんなで食事しましょうってナガノさんが言ってたわ。」
「うん。みんなでご飯も楽しそうだね」
「ヨコタさんが狩りに出たからお肉もあるかもよ」
ウインクしながらミサトは言った。
午後ミサトが洗濯に出掛けたので僕はリュックの中を探して機械類をチェックしてみた。
GPSは電源すら入らない。
携帯は電源は入るが、カラー液晶の文字が滅茶苦茶だ。
日付も曜日も時間も全て有り得ない数字や文字が並んでいる。カメラも全く起動しない。
落ちた拍子に壊れたんだろう。飴の入った袋とウイスキーの小瓶とナイフを取り出す。
部屋の片隅に積んである薪を一本持ってきて、小屋の入り口そばに置いてある鉈で小振りな木片を作る。
囲炉裏端に腰を下ろしてナイフで削りはじめた。
僕は昔からこういうのは得意なんだ。
シャッ、シャッ…と音がして木クズが囲炉裏の中に飛ぶ。
ひたすら何も考えずナイフを思うまま動かす。
次第に自分が何を作っているのか見えてくる。
頭の中にミサトの笑顔が浮かぶ。
気付くと手の中に小さなイルカが出来ていた。
なぜこんな山奥でイルカなのか解らないが…僕のミサトに対するイメージなのかもしれない。
背鰭の部分にナイフの先で小さな穴を開ける。
バックの中を探してクスリを入れる袋の紐を引き抜いた。
穴に通して結ぶ。
「できた」
すぐ隣でミサトが僕を見ていた。
「何が出来たの?」
僕の方に首を伸ばしたミサトの首に今できたイルカのペンダントを掛けた。
「えっ!?」
ミサトは驚いた表情をして僕とペンダントを見比べた。
「こんなものしか出来なくて。」
「いいの?私がもらっていいの?」
「ミサトさんの為に作ったんだよ。もらってくれるかな?」
「…ありがとう…」
そういうミサトは泣いていた。
喜んでくれたみたいで良かった。
周りはもう薄暗くなっていた。
二人でみんなの所へ行った。
小屋と小屋の真ん中に石でサークルが作ってあって火が起こしてあった。
「やあ、青年来たかい。」
ヨコタが手を挙げて迎えてくれた。
「こんばんは」
挨拶をしてみんなの輪に入る。
…ナガノさんにウイスキーの小瓶を渡して女の子には飴をいくつか渡した。
「おっ久しぶりだなウイスキーなんて。みんなで戴こう。」
ナガノが嬉しそうに言ってみんなの竹のコップに注いでまわった。
女の子は
「ありがとう」
と言って飴玉を早速一つ口に入れた。
料理は肉や魚や野菜、果物、お粥などが出た。
食後にはコーヒーまで出て驚いた。
「コーヒー驚いたろ?」
そう言ってTシャツ…ヨコタさんは自慢気に言った。
頷くと満足そうに続けた
「タンポポコーヒーだよ。タンポポの根を洗って干して煎るとコーヒーみたいになるんだ。カフェインは無いけど美味いだろ?」
タンポポコーヒーを飲んで黄梅院で大塚が淹れてくれたコーヒーを思い出した。
僕は帰れるのかなぁ…
食後、小屋に帰ってゆっくりする。
ナガノさんの女の子が
「お風呂どーぞ」
と迎えに来てくれた。
ミサトに見てもらったが、肩の傷口がほぼ塞がっていたのでお風呂に入る様に勧められた。
倉庫やトイレと同じ小屋の一部が木切れで囲ってあってお風呂になっていた。
ドラム缶風呂だ。
ナガノさんが沸かしてくれたらしい。
ゆっくりとお湯に浸かると星空が近くに見えた。
「ユートピア…いや、桃源郷だ」僕は頭に浮かんだ言葉を口にした。
ここは桃源郷だ。
桃源郷は中国の秦の時代の戦乱を避けた子供達が住む理想郷の物語だが、今の殺伐とした現代社会から隔離されたここでの牧歌的な生活はまさにそれだ。
「高山さん」
「え?」
振り向くと上半身下着姿のミサトがいた。
僕の作ったペンダントが揺れていた。
「わっ!ミサトさん!」
「背中流してあげるから出てきて」
そんな笑顔で云われても…
「…」
苦心しながらタオルを駆使してなんとかドラム缶から出てミサトに背中を擦ってもらった。
恥ずかしさもあって頭上の星の話をしながら。
楽しい時間だった。
その夜も二人で一つの毛布にくるまって眠った。
深夜にふと目覚めると寝返りをうったミサトが僕の胸に入ってきた。
ミサトを抱く様な状態になった。
僕の胸の辺りにミサトの暖かい息がかかり優しく湿った。
抱きたい。きっとミサトも解ってる。
…いや、ミサトの気持ちを聞かないで抱くわけにはいかない…。
頭の中の悪魔と天使の口論で僕は朝まで眠れなかった。
僕が目覚めると目の前でミサトが既に目覚めてたみたいで僕を見ていた。
「高山さんおはよ」「ミサトさんおはよ」
僕は今までこれほど幸せを感じた事は無かった。
今まで何人かの女の子と付き合った経験はあるけど、ミサトへの想いは今までの誰とも違った。
ミサトは自然なんだ。
作った感じがない。
無理してる様子もない。
本当に喉が乾いた時、甘いジュースや炭酸飲料よりも何も含まない『水』を欲する様に僕はその自然さに惹かれた。
…勿論、状況が状況だから一概に比べる事はできないがそれをさっ引いてもミサトは魅力的だ。
『付き合いたい』というレベルの話ではなく『ずっと一緒にいたい』と思った。
昨日と同じように食事をして河の確認をしに出た。
今日はドウドウと流れる音が聞こえてくると何故だろう、ホッとしてる僕がいた。
昨日見てがっかりした濁流も今は嬉しかった。
河を見た後、昨日は行かなかった集落の反対側へ行った。
反対側は深い森だ。
森の奥には山が重なり合う様に聳えている。
僕はこっちから降りて…いや落ちて来たんだ。
ミサトの案内で柿や野いちご、みかん(自生なのですっぱいらしい)、オリーブの木など植物を案内してもらった。
少し高台に上ると森が眼下に広がった。
「ほら、あそこに見える木、解るかな?あれが私たちの言う御神木よ。」
森の中に一本だけ背の高い木が見える。
あの下に僕がいたんだ…。
「あっ、そうそう。この先には行ってはダメよ。結界があるの。」
「結界?」
大塚の世界みたいじゃないか…
「ほら。…高い崖になってるんだけど、その崖の下は守られていないから…」
崖を覗き込むとかなり深い崖になっている。
下の方が磨り硝子の様になっている。
目を擦ってみたが、ある所から景色がぼやける。
「見てて」
ミサトは小枝を拾って崖から落とした。
小枝はくるくると回りながら落ちていったが、曇りガラスになった所になるとふっと消えた。
ゆっくり落ちる落ち葉を投げるとゆらゆらと落ちて行くがやはりそこに行くとふっと消えた。
「分かってくれた?あの先はどうなってるのか解らないのよ。
落ちたら怪我ではすまないだろうし、消えたら…だからここには来ないで。ね。」
ミサトは真剣な顔で僕にそう言った。
何なんだあれは…
散歩の後、ミサトが洗濯と木の実拾いに行くというので僕は昨日の様に薪を使って木工細工をした。
今日は手間が掛かったがミサト用のお椀を薪で、箸とスプーンを乾燥した竹で作った。
ミサトは喜んでくれた。これだけ喜んで貰えるなら何でも作ってあげたいと思った。
夕食は今夜もみんなで食べた。
ヨコタが苦心して作った『トチモチ』を食べたり、ナガノが星空を見ながらギリシャ神話をしてくれたりして楽しい時間は過ぎていった。
今夜もお風呂があったので順番を最後にしてもらった。
世話になってるのに早い内に入れさせてもらうのは気の毒だから。
ミサトにも先に入ってもらった。
ミサトと入れ替わりでドラム缶に入る。
今夜も月や星がすぐそばに見える。
ドラム缶の横の棚にあるランプを消す。
青白い月明かりの元ではいる風呂は別世界の様だった。
…そう。ここは別世界なんだ。僕は解ってる。
ある意味夢の世界なんだ。
僕はお湯に浸かりながら真剣に考えたんだ。
このまま夢の世界に生きてもいいかなと。
現実社会に戻って何がある?
内容よりも要領だけで単位を取る大学。自分を捨てて仮面を被り取り繕う社会。何に使われるか解らないのに取られる税金、年金。
激しい物欲。
守銭奴に成り下がった人達。
小さな事でいがみ合い憎しみ合う世界。
そう。そんな世界とは別れてもいいのではないか?
例え、雨の中を歩くポロシャツが全く濡れてなくても。
油をどこから調達してるか解らないのにランプが灯っていても。
みんな知りもしない薬草が一目で解っても。
この緯度でミカンやオリーブの木がすくすく育っていても。
ジャガ芋や麦、米の最初はどこから来たのか解らなくても。
魚をどうやって捕まえてるか解らなくても。
生活する上でなんの不都合がある?
ミサトがいて、生活ができたらそれでいいんじゃないか?理屈より実質の方が重要だ。
…だよな。
でも僕はここに居ていいのか?
遭難しかかって『山』に助けて貰ったが、僕はここに残る権利…条件は備えているのか?
そんな事を考えていたらミサトが心配して見に来てくれた。
一緒に小屋に帰る。
ほんの数十歩の所なんだけど何だか嬉しい。
月明かりに照らされたミサトの横顔は綺麗だった。
3日目の夜もミサトと同じ毛布で眠る。
僕は思い切って腕枕を提案したら嬉しそうに僕の腕に入ってきた。
腕枕して小声で話しかける。
「…僕はいつまでここに居ていいのかな?」
「え?残ってくれるの?」
ミサトは驚いた様に、そして嬉しそうに言った。
「うん。それもいいなって思ってる。」
「嬉しいっ」
ギュッとしがみついてくる
「…逆にミサトさんは元の社会へは帰らないの?」
そう言うとミサトの顔は曇った
「…ええ。私はここから出ようとは思ってないわ。…戻る社会もないと思うし、戻りたいとも思わない。」
「じゃあ一緒に居るためには僕がここに残らなきゃいけないんだね」
「…元の世界に戻りたい?」
「…いや、ここは平和だ。平和でない世界に戻ると云うのは…
…さぁ、寝よう。」
「うんっ」
ミサトの頭の重さや体の暖かさを感じながら僕は考えていた。
僕は間違いなくミサトが好きだ。…離れたくない。
目が覚めた。
明け方少し明るくなってから眠ってしまった様だ。
まだ早い時間のようだ。
ミサトはすでに起きて朝ご飯の用意をしている。
その姿を寝ながら見ていた。
本当に幸せを感じていた。
毎日こんな生活が続くのか。
夕べミサトが言った『元の世界』と言うのが正しい様に思えた。
朝ご飯も終わり、今日も1日が始まった。
僕もここにいる以上、何かしなくてはならない。
今日はナガノさんに付いて行って畑仕事を手伝う事にした。
ミサトは午前中、女の子に文字を教えるという。
僕らはナガノさんの小屋に行った。
ナガノさんは鍬と手製の麦藁帽子を貸してくれた。ミサトと女の子を残して畑に向かった。
畑は思ったより広かった。
ナガノは畑に着くとポロシャツを脱いでシャツ姿になった。
「さて、始めるか。高山君はそっちの畝に土を盛ってくれないか?」
「…はい」
意外だった。
正直、今まで農作業なんてした事もないから『畝』意味も解らないし、『土を盛る』ってどんな事か解らないはずなのに、頭の中に作業終了後の画が頭に浮かんだんだ。
僕は上半身裸になって“使った事のない”『鍬』を“器用に”使って作業をこなしていった。
お昼近くなって、休憩にしようと言われて、キュウリを渡された。
塩も何もないが二人で座ってキュウリをかじる。
キュウリなんて青臭くて水っぽいだけのものだと思っていたのに、このキュウリは違った。
水気は多いが青臭くないんだ。いくらでも食べられそうだ。
食べ終わって一息つくと
「ここ、どうだ?」
と聞かれた。
「いい所ですね。」
「本当にそう思うか?」
「はい。まだ数日しか居ませんが…」
ナガノは遠くを見るようにして言った。
「ミサトは良い女だぞ。
…あいつは信頼してた仲間に騙されて酷い目にあってここに来たんだ…。」
「…」
「お前に好意を持っているみたいだな。…どうするか解らんがあまりツラい思いをさせないようにしてやってくれ」
「ツラい思いって…」
「…元の社会に戻るなら、この世界に深入りせずに戻りたいと言え。深入りすればお前もここの呪縛から離れられなくなる。」
「どういう意味ですか?」
不器用に包んだプレゼントの様に中身は僕にも何となく解ってるが、はっきり言ってもらいたかった。
「自分で考えろ。自分の事なんだから。
…数日居て分かっただろう。俺たちは昔の社会を捨てたんだ。そしてそんな俺たちを森や山が受け止めてくれたんだ。
自然の優しさは偉大だ。
俺たちはその優しさに甘えて過ごしている。
お前はその優しさの中だけで生活できるか?」
「…」
何も言えなかった。
「住人になれば間違いなく逃げられないぞ。
…もし元の社会に未練が無ければ一緒に暮らそう。」
最後の言葉だけは笑って言った。
ナガノは立ち上がり「さあ、帰るぞ」と言ってナガノは集落に向かって歩き始めた。
…僕は決断を迫られたんだな…
山道を下る途中
「高山!耳を塞げっ!走れっ!」
ナガノが振り返って僕に大声で言った。
今までに聞いた事のないような剣幕だ。
何なんだ一体!?
考えながら歩いていた僕はいきなりで驚いたが、言われた様に両手で耳を塞ぎ走り出した。
…!…
「…やま…い……しろー」
はっきりと聞こえた。
響いた様に聞こえて、男とも女とも判断つかなかったが、集落の四人の誰の声でもなかった。
走りながら声のした左側の藪の方を見てしまった。
僕の居る道と藪の間に、この間ミサトに教わった崖の下の様に、磨り硝子の割れ目の様な空間が浮かんでいた。
その割れ目の中に何人かの人影が見えた。
曇りガラス状の空間を通して見るからかぼやけてはいるが、ブルーやオレンジの服を着た人が確かにいた。
走り続けていたから見えたのは一瞬だったけど。
…元の世界だ…
集落に着く直前にナガノは走るのを止めた。
「…高山君、あれを聞いたか?」
「はい…」
「空間の歪みだ。時々あの辺りであの様な歪みが出来るんだ。御神木から一番離れた場所だからか…。」
「ここは…」
「ああ。ここは元の世界とは違う空間世界なんだ…と私は思ってる。
あの空間や崖下の空間に物を投げいれると無くなる様に見える。
きっとあれは元の世界に繋がってるんだ。
次元が違うのかどうか解らんが…」
「じゃあ、あの空間に飛び込めば元の世界に帰れるんですか?」
「それは解らない。私がここに来てから、こちらからは誰も入った事がないから。…ただ、神隠しとか…霊界とか…急に物が消えたり出たりするのはこういう空間が原因なのかもな。」
「…」
ナガノは続けた。
「君を止めたのを悪く思うなよ。君が見つけて飛び込めばどうなるか解らないから止めたんだ。」
「ええ。解ってます。」
以前、大塚が猫を探した時に見た空間も中はこうだったのかもしれない…。
いや、霊的な感じが全くしないのだから違うのか…
解答のない疑問は積算すると誰かが言ったが僕も疑問だらけで訳が解らなくなった。
僕の出した結論…疑問を持たない様にしよう。
単純にここに居たいと思えば残ろう。異次元だろうが空間の歪みだろうが…自然の持っている優しい夢の世界であっても構わない。
僕が今、居る所が僕の現実社会なんだ。
ナガノの小屋に着くと中から女の子とミサトが出てきた。
「パパおかえりー」
女の子はナガノに飛びついた。
「お疲れ様。暑かったでしょ」
ニコニコとミサトが笑いながら言った。
お昼はヨコタが苦心して小麦を挽いた(石臼から作った)うどんもどきだった。
塩が岩塩をすり潰した物らしく荒いのでなかなかうまくいかないらしい。
醤油はないので自家製味噌で食べた。
確かに改良の余地はたくさん在りそうだが美味しく食べた。
ここは笑いが絶えない。
小さいが煌めく喜びも。
自然への感謝の心も。
午後はみんなそれぞれの小屋に籠もって仕事をした。
僕は木工だ。ナイフを研ぐ為のすべすべな石を拾ってきて研いだから作業は進んだ。
今日はみんなのフォークとスプーンを作った。
数があるから夕方まで掛かったがなかなか立派なのが出来た。
僕はミサトに空間があった話をしなかった。
ひたすらナイフを動かして自分の本心を固めていたんだ。
夜になったらミサトに話そう。
夜はみんなで夕食だ。
今夜はヨコタの『野生ゴボウと肉とキノコの炊き込み御飯』だった。
味噌の上に溜まった『溜まり』を初めて調理に使ったという醤油は、いつも買って使っている物より香りが強く美味しかった。
ヨコタの話ではこれが醤油の原形だそうだ。
みんなは僕の作った竹のフォークとスプーンを喜んでくれた。
近々ヨコタは果物を発酵させて作ったという酒を発表すると宣言したりした。
ミサトは粘土を集めてツボや皿を作ると言った。
女の子は、かけ算の九九を覚えると自慢気に言ったのでまたみんなで笑った。
となりではミサトが笑ってる…
幸せってこういう事なんだろうな…ここに居るのが幸せなんだ。
月が真上に来る頃、みんながそれぞれの小屋に帰った。
僕もミサトと一緒に帰った。
「どうしたの?怖い顔して」
ミサトが聞いた。
「いや、実は…」
僕は今日畑からの帰りに見た事を話した。
ミサトは真剣に聴いていた。
僕が話終わるとたっぷり一分以上黙っていた。そして
「私も2・3回見たわ。
…元の世界に帰りたい?」
と聞いた。
「…ミサトと一緒ならね。」
ミサトはびっくりした顔で僕を見た。
「…だって、そんな…」
「ミサトと一緒ならここの世界でも元の世界でも構わない。
僕は君が好きなんだっ!
一緒になりたいんだっ!
君が元の世界に戻れないならこっちに僕もいる。
戻れるなら一緒に戻りたい」
…言ってしまった。
ミサトは大きな目で、僕をじっと見ていたが、ポロポロッと涙が零れ落ちた。
「…」
ミサトは何も言わず僕に抱きついてきた。
「ミサト、一緒にここを出よう。
向こうの世界で君が大変な思いをしたんだろうと言うことは理解してる。
あっちはどうしようもなく乱雑で乱暴で汚くて嫌な世界だ。
こっちの様な楽園じゃない。
こっちが理想地だから行きたくないのも解る。
だけど…そんな世界でもミサトとならやって行ける。
楽園で仲良くしていけるアダムとイブより波乱の中に愛を育てる二人の愛の方がずっと強くて本物だと思う。
…解ってる。
向こうに行ったら誰も二人を知らない所に行こう。
二人の過去を誰も知らない所に。
そして二人でここの様な穏やかで平和な地を作るんだ。
僕とミサトならできる。
…僕はそう思ってる…いや、そうしよう。」
「…ありがとう…付いていく…」
ミサトは泣いて潤んだ瞳で僕を見上げて何度も何度も頷いてそう言った。
夜が更けるまで二人で毛布に包まり抱き合っていた。
朝になってから行こうと話した。
元の世界の夜の山中にでたら今度こそ遭難しかねない。
僕は自分の向こうでの生活について話をした。
大学の話、母子家庭の話、大塚や下田達の話…
ミサトは僕の腕の中で笑ったり頷いたりした。
ミサトもポツポツと向こうでの話をしてくれた。
両親の事、友人の事、学校の時の事…ツラかった事も嬉しかった事も話してくれた。
僕も頷いたり笑ったりした。
本当のミサトを見る様な気がして嬉しかった。
夜明け前、畑のそばの異空間がまだあるかどうか調べてきて欲しいとミサトに言われた。
ミサトはここに残る人達に手紙を書いておくからと言った。
僕はまだ暗い道を歩いて確認しに行った。
あの曇りガラスの割れ目は空中に漂っていた。
ただ少し縁が揺れている気がした。
閉じかけているかもしれない。慌てて走ってミサトの所に戻った。
「ミサト!閉じかけてるんだ。急いで行こうっ」
僕はリュックを手にとった。
ミサトは手紙を書いたらしく一通をテーブルに置き、もう一つを手に持って立ち上がった。
「さあ行こう!」
力強くミサトは頷いた。
二人は手を握りしめて走った。
二人で幸せになるんだっ!!絶対に!
分岐点を左に曲がりあの空間の場所へ。
さっきより縁の歪みが大きくなっていて真ん中の磨り硝子の部分が狭くなっていた。
二人一度には入れそうもない。
「僕が先に行く。手を繋いだまま順番に飛び込もう!」
僕はまずリュックを投げ入れた。
リュックは青い水に沈む様に向こう側に入っていった。
ヤバい。縁が更に小さくなる。
山が出すまいとしているのか?
僕は大きく息を吸うと飛び込んだ。
磨り硝子は厚みがあるかと思っていたが紙の様に薄いものだった。抜けた途端にセミの声が響きわたっていた。
抜けてすぐに振り、返り掴んだミサトの手を引いた。
ああっ!空間が…
縁が揺れて数十センチにまで狭くなっていた。
「ミサトっ!」
「…やっぱり私はまだ無理みたい。」
「何言ってるんだっ!!早くっ」
「この隙間じゃ無理よ」
「…」
「前に一度出ようとしたの。だけど閉じてしまった…山はまだ私を出してくれないのかもしれないわ」
「ミサト…」
「大丈夫…今度見つけたら飛び込むわ私。だってそっちにはあなたが居るもの。必ず行くから。…一緒になってね…」
空間は狭くなっていた。もうミサトの顔しか見えない。
「ミサトっ!」
「これ…読んで…もしはぐれたらいけないと思ってさっき書いたの。」
もう顔の半分しか見えない
「待ってるから!必ず来てくれ!黄梅院だぞっ!
…ミサト…
愛してる…」
「私も…愛し…て…」
指が離れると同時に空間は消えた。
そして何も聞こえなくなった
気付くと目の前には木立が広がっていた。
セミの鳴く声が周りから押し寄せてきた。
膝をついてへたり込む
手紙を握りしめて僕は泣いていた。
なぜ昨夜のうちに空間に飛び込まなかったのか…
悔しくて悔しくて…
向こうの世界と同じ様に道が出来ている。
僕はトボトボと集落のあった方向に進んだ。
集落のあった場所は広い空間になっていた。
振り返るとナガノと女の子が畑に向かって行った姿が思い出された。
ひょっこりと『青年、酒できたぞー』とヨコタが出てくる様な気がした。
そして左をミサトが歩いている気がした。
僕はその後、どこをどう歩いたのか覚えていない。
途中、ミサトが教えてくれた崖のそばを抜けたのは覚えている。
人の声が聞こえた
そう思ったら両足から力が抜けて崩れる様に倒れた。
草の上を滑り落ちている感覚はあった。
背中からいやと言うほど地面に叩きつけられた。
落ちた所には紺色とオレンジ色の服の人が周りにたくさんいた。僕の捜索に出るために準備してる広場に落ちてきたらしい。
『おい大丈夫か!?』
『君は高山くんか?』
『高山ーっ!ぬしはどこにおったのだっ!このウツケモノ!!』
おじさん達の声に交じって懐かしい声がする。
目を開けると目の前に大塚がいた。
泣いていたのか寝ていないのか目がパンパンに腫れている。
「大塚…お前すごい顔してるぞ」
「うるさいっ!!ぬし、後で焼き肉奢れよっ!」
訳の解らない事を言いながら怒ってた。
僕は担架に乗せられて病院に連れて行って貰った。
発見された時は熱が高くて朦朧としていたらしい。
自分の事ながら覚えていない。
後から聞いた話だが僕が行方不明になったと聞いてから大塚は自分が先頭になって、警察や消防、知り合いや友人、お祖母さんの人脈まで動員して捜索してくれたらしい。
大塚は何も言わなかったが下田が後から『そりゃ大変だったんだぞ』と教えてくれた。
捜索中にユージが蛇に咬まれて病院に運びこまれるという(下田曰わく『余興』)事もあったらしい。
病院に一週間入院した。
母親ですら3日で一旦帰ったのに、毎日大塚はやって来てくれた。
まぁ、来てもくだらない話をして帰るだけだったが。
心配してくれている事はよく解った。
ありがたかった。
「ありがとう」と言うと「よいよい。早く退院して焼き肉食べよう」と笑って言った。
ミサトの事は大塚にも話さなかった。
ミサトがくれた手紙はこんな文面だった。
高山さんへ
今、あなたが出口を見にいきました。
あなたがもし、これを読んでいるなら私はまだ元の世界に戻れていないんだと思います。
一緒に脱出するのになぜこんな手紙を書いているのかと不思議に思うかもしれませんね。
以前私は一度出ようとしたのです。
でも飛び込む瞬間に扉は閉じました。
まだ元の社会に戻れる程の強い心の準備(意味わかりますか?)が無かったからだと思っています。
山は優しいです。
だからきっと私の心の準備が出来たら山はまた出口を開いてくれると思います。
私はあなたが夕べ言ってくれた事、本当に嬉しかった。
生きてきた中で一番嬉しかったよ。
イルカのペンダントは私の宝物です。
いつかきっとこのペンダントをしてあなたの前に現れます。
会って数日しか経たないのにこんな事を言うのはおかしいかも知れませんが、私はあなたと出会う為に、ここで待っていた様に思います。
はっきり言います。
あなたを愛しています。
サヨナラは書きません。だって必ずまた会えるから。
その時まで元気でいて下さい。
私の事、忘れないでね
佐古田美里
おしまい