事故
何事もきっかけが初めにある。小さなきっかけが大きな結果を生み出したりする。
人は、往々にして気付かない内にそのきっかけを踏んでいたりする。
結果が出て初めて、あれがきっかけだったのかと気付いたり、時にはあまりにもささやか過ぎて思い出せない事もある。
そう、蛇の尻尾に似てるのかもしれない。落ち葉から覗く蛇の尻尾。踏んで咬まれて初めて踏んだ事に気付いたりする様に。
僕の場合は大きな蛇の尻尾だったのかもしれない。あの事故がきっかけであり、原因だと思う。
…いやもしかしたらもっと小さな別のきっかけがあったのかもしれないが。
大学2年のあの日、僕は急いでた。どうしても行かなきゃならない所があったんだ。
愛車のペダルを思い切り踏んで目的地に向かってた。
いつもの商店街を抜けて大きな交差点に差し掛かった。
信号は青。
なんてラッキーなんだ。と思ったのを覚えてる。
交差点に進入した直後、右から来た車にはねられた。
…らしい。
途切れ途切れの断片的な記憶には救急車のサイレン音や赤ランプ、「大丈夫だからね」との女性の声。
目覚めたのはありがちな展開の様だけど病院のベットだった。目覚めた直後は病院のベットと解らなかったが。
白い天井と蛍光灯。
ダマゴ色したカーテン。
何やら遠くで聞こえる電子音。てっきり友達の家で寝てしまったんだと思って起き上がった。どこだよここは?
交差点の事を思い出した。
そういやぶつかったんだっけ…慌てて体のあちこちを調べてみる。
あれ?どこも痛くない。チューブも何もない。
見たことのないパジャマ着てるだけだ。
そこでやっと自分がいるのは病院だと解った。
参ったな…最近疲れてたからすっかり寝込んじゃったかな。
ふと、顎に手をやって不精髭が生えてるのに気付いた。
僕は髭が好きではない。似合わないんだ。生えてもしょぼい。だから毎日必ず剃る事にしている。だから不精髭が生えてると言うことは何日も眠ってしまったのだろうか…
目覚めても誰もくる気配もないので(モニターも何もないのだから解るはずもないだろうが)自ら起きた事を伝えに行く事にした。
その時、タマゴ色のカーテンの隙間から覗いてる目に気付いた。
おいおい覗くなよ…黒い人だな…黒目大きいな…外人か?
と思ったら消えた。
隣のベットの人かな…
そう思ってカーテンを開けるとそこは壁だった。
ありえない。カーテンと壁の間はたった10センチ程。
いや、今、人いたよな。10センチの隙間に人が入ってカーテンから覗くと絶対カーテン膨らむよな…
ダメだな…頭打ったのかな…反対側のカーテンを開けると空のベットが一つあった。
二人部屋らしい。
入り口の横にはトイレもある様だ。
枕元にナースコールのボタンがあるのに気付いた。
病院だもんな。
自分のベットのボタンを押すとすぐに何人もの医者と看護師がドカドカと入って来た。
「ああ気付いたんだね。具合はどう?」
「…いや、体は何てことないみたいです」
「良かったね。外傷は何もないよ。脳波もCTも異常ないのに3日も眠ってたんだよ」
「…3日?」
そりゃ髭も生えるわけだ。
10分程して母親が来た。
酷く心配したらしい。お前はいつもぼーっとしてるからだと小言を言われた。いやいや、母さん、交差点の真ん中につっ立ってた訳じゃないから…
母親の小言を右から聞いて左に放出してる間に今度は警官が来た。
事故の時の事で覚えてる事を話した。
概要を話した後で「で、あなたはどこに行こうとしてたの?」と聞かれて、ハタと困った。…あれ?どこに行くんだったかな…?何だか急いでた気がするんだけど…。どうしても思い出せない。
警官は医者の顔を見た。おいおい、やっぱり頭打ったんじゃないか?急に心配になった。
その答えも、有耶無耶になって質問は終わった。
警官が帰る時に気になった事を聞いてみた。「現場にいた女性はどなたか解りますか?大丈夫だよって言って貰ったんですが」
警「現場に行ったのは自分だけど…女性には気づかなかったな。目撃者も男性ばかりだし。」
おかしい…間違いなく聞いたのに…
その後、相手の運転手と保険屋が見舞いに来た。運転手が言うには僕の姿が全く見えなかったと。自転車を踏んで初めて気付いたんだそうだ。運転手も保険屋のどちらも僕に怪我がなくて良かったと喜んでいた。
退院が明日になると言うことで母親も帰った。
暇だ…ひたすら暇だ。薄い味付けの食事を終わらせるとする事がない。
テレビどころか雑誌もない。売店は閉まっているし私服も無いから財布も小銭すらない。
母さん、気を回して少し置いていってくれたらいいのに…仕方ない寝よう。
…が3日も寝てたからか全く眠くならない。当たり前か。
それでも寝ようと狭いベットで輾転反側していると病室の扉が開いた。廊下の光がカーテンに広がる。看護師さんが検温をしに来たのかと思った。
しかし病室を歩く音がしない。廊下から様子を見るだけなのかな?
しばらくして扉が閉じられたらしく光は消えた。
やっぱり見てただけなんだ…
雑誌でもないかと聞いてみたら良かったなと思いながら仰向けに体を捻った。
うわぁぁぁぁっっっ!
そこにいた。
まともに見てしまった。
カーテンレールに手をかけて上からベットを覗き込む顔。
紫色で腫れ上がった顔は半分しかない。あとはぐちゃぐちゃとした赤黒いモノ。
一つしかない目の部分はぽっかりと空洞になっている。口は笑っているように見える。
そこで気を失ってしまった様だ。
気付いたら朝になっていた。
夜のアレはなんだったんだろう…。
やはり事故の影響で脳のどこか壊れたのかな…。
悪い夢か幻視かな。
そう思って体を起こした。
?
掛けていた白い毛布の上に黒い髪の毛が落ちている。
長い。
…誰のだよ?
!!
一本じゃなかった。いたる所にパラパラと落ちている。
ひぇぇぇ…
背中に嫌な汗が流れるのが解る。
カーテンレールの上に何本がゆらゆら揺れている髪の毛を見た時確信した。
夢じゃなかったんだ…
病室を飛び出してナースステーションの前の椅子に座り込む。心配してくれたのか不審に思われたのか看護師さんがやって来てくれた「どうしました?」
「いえ…ちょっと悪い夢を見たみたいで…少しここで休ませてください」
看護師さんはにっこり笑って「大変でしたね。昨夜の見回りの時は良く寝てたみたいでしたよ。具合悪かったら言ってくださいね」
そう言ってステーションに帰った。
寝てた…と言うことはやはり夢だったのか。そもそも看護師さんが見回りに来た記憶もない。やっぱり寝てたに違いない。
じゃぁさっきの髪の毛は…?
僕は小さく座って足元を見て落ち着くのを待った。
時計を見るとまだ6時だ。
早く母さん迎えに来てくれないかなぁ。そう思いながら顔を上げずに(顔を上げたら昨夜の様な奴を見そうな気がしたから)、行き過ぎる人の足元を見るとは無しに見てた。
7時頃になると行き来する人が増える。看護師さんは白いナースシューズ。歩くとキュッキュッと鳴る。医者はサンダルが多い。カツカツと音がする。患者さんはまちまち。ピンクのキティが付いてるスリッパとかギプスだったり。足元ばかり見ていた事はないが案外飽きない。
しばらく人が通らない時は目を閉じてウトウトする。
ピタッピタッ…という音がする。プール上がり?そんな音だ。
うっすらと目を開けると視界の右から素足が来た。
…素足…赤黒くて白い斑点が浮いている…水疱?
爪が剥がれて上向いたり無かったり 片方はかかとがない。
緑とも赤とも言えない様な体液が垂れている…
…ヤバイ ヤバイ ヤバイ…また来た…
目を閉じたいのに閉じれない。
足は目の前で止まる。
止まるなよっっっ!泣きそうだ。むかむかと吐き気もしてくる。悲しい様な、怒りの様な感情が僕の中に流れ込んでくる。
…ピタッ…ピタッ…
足は動き出して視界の左に消えて行った。
音も聞こえなくなって少しづつ落ち着いてからゆっくりと首を持ち上げて左右を見渡す。
普通の病院の朝の風景だ。
…良かった…ホッと溜め息をついた。
しかし、どうしよう…病室にも帰れないしここにも居れない。
どうしようかとキョロキョロしていたらまた見えてしまった。
廊下の突き当たりを何人ものアレが移動しているのを。
距離にして20m位離れているが首が無かったり、片足が背中まで曲がってたり、胴体だけだったり…
ダメだ。
おかしくなりかけてる。笑いがこみ上げてくる。人間て恐怖が極限に近づくと笑いしか出なくなるんだと解った。
ここで笑ったりしたら元に帰れなくなる気がする。でも…でも…
「ぬし、助かったんだな」
幻聴か?
振り返るとそこには同じ歳位の女が立っていた。
「あ…あれ…あれ」
廊下の先を指差すとその女の子は
「ぬしも見えるのか?」
「み、見える見える…」
「病院には沢山いるからな…しかし特に問題ない。大丈夫だ。あれらは邪悪な感じはしない。死んだ事が理解できていないだけだ。いずれ気付くであろう」
何なんだこの子は!?
何を言ってるんだ?
見えるって事はやはり…
「しっかりせい!」
僕を見て女の子は背中の肩甲骨の少し上の部分をぱぁーんと叩いた。
途端に体と気持ちが楽になった。周りが明るく見える。立ってるのが億劫な感じがしてがっくりと椅子に座った。
「あまり気弱だと入り込まれるぞ、高山。」
「え?」
何で僕の名前を…
「忘れたか?大塚だ」
「あぁ~!思い出したっ!大塚あんっ」
つい大声で叫んでしまった。中学の時のあの子だ。
周りの患者さんからは変な目で見られ、看護師さんからはキツい目で睨まれてシーッと言われた。
「…頼むからあまり本名を大声で呼ぶな。」大塚は恥ずかしそうに周りを見渡した。2人で面会フロアという場所に行った。
移動する途中では特に何も見えなかった。
れなが自販機でコーヒーを買ってくれた。文無しはただ、有り難く頂戴した。
「大塚は病院で何してるの?」「ばぁちゃんの見舞いだ。先週から腰を傷めて入院してるんだ。ホレ」
と言って持ってきた紙袋を持ち上げて見せた。
「そうなんだ。しかし僕が良く解ったな。」
「入院したのは知っていた。ついでに車に跳ねられたのもな」
「…なんで知ってるんだよ?」警官も現場には女の子は居なかったと言ってたじゃないか。
「現場を見てたからな。ちゃんと大丈夫だと言っただろ?忘れたか?」
「あ、あの時の声は大塚だったのか」
「ああ。近くの歩道橋にいた。」
「いや、待てよ、声はすぐ側で聞こえたぞ。歩道橋って言ったら50mは離れてるだろ?」
「ん。その事なら、また解る時が来るだろう」
そんな風に軽くかわされた。
「なぁ、知ってるなら教えてくれよ。僕はどうしてしまったんだろう?目が覚めてから変なモノばかり見るんだ」
「それはだな、電源が入った様なものだ。この間の事故でお前の中の感覚のスイッチが入ったんだと思うといい。
勿論、元々素質がないとスイッチが入っても変わらないがな。」
「?」
「解らないか…では、目の悪い人がメガネを掛けた様なものと言ったら分かり易いか?元々お前には見える能力…というか体質というか、そういうものがあるのだ。恐らくお前の先祖に強い力の持ち主がいたのだろう。その先祖にお前は護られていて見えなくて済んでいたのだ。しかし今回事故にあって見える様になったと言うことだ。」
「先祖なぁ…」
じいちゃんもばあちゃんも僕が生まれる前には既に居なかったから解らない。仏壇に写真はあるが。今ひとつ実感がない。
「今回怪我ひとつないのは先祖のおかげだぞ。感謝しろよ」
「うん…と言うことはこれからはああいうのを見ると言うことなのか?勘弁してほしいよ」
「能力として考えるなら当分はそのままだろう。ただお前が弱い気持ちでない時や見よう思わないと見えないと思うが…相手が強ければ見えるかな。それより問題は見えてからお前がどうするかだ。…すまんがばあちゃんの所に行ってから仕事に行かなくてはならないから。また会おう。」
大塚はそういうと片手を上げて去った。
僕はしばらくその場に残って大塚の言ってた事を反芻しながら考えた。
その場での結論。
『そんなはずはない』だった。恐らく大塚が自分をからかったんだと思った。
現に病室に戻る時も何も見えなかった。
お昼前に母さんが来て退院になった。
自宅に帰って事故に遭った自転車を見た。
ハンドルは折れ、ペダルは曲がり、後輪は捻った飴細工の様にぐにゃりと曲がっていた。
当時着てた服は擦れてボロボロになっていた。
これで擦り傷一つないのはおかしい。
やはり大塚の言った事は本当だったのか…
僕は洋服の一部を見て大塚の言った事は正しいと確信した。すぐ仏壇に向かって手を合わせた。
僕の服はボロボロだったが背中の一部が擦れていない所があった。その部分は小さな手の様な形をしていた。
これが事故の結果だと思っていたが、良く考えてみたらここまでが『小さなきっかけ』だった気がする。
おしまい