幻影
お気に入りの俳優さんや歌手を思い浮かべて下さい。
その相手が毎晩あなたの家までやって来ます。
二人は楽しい一時を過ごし、朝まで一緒にいるとします。
何日かして一緒になって欲しい。と言われます。
…どうです?幸せだと思いませんか?
…でも、何かうまく行き過ぎるとちょっと怖いですね。
…何か要求されそうで。
今回はそんな話を。
「あ!」
ガチャンと派手な音がして、ルミの手からトレーが落ちた。
自分のバックの紐がトレーの角に引っかかってしまったのだ。
バラバラとパンが落ちる。
右手にはトングをしっかりと握っている。
トングの方が引っかかってくれたら良かったのに…
ルミの勤めている会社の側にできた手作りのパン屋だ。
ちょっと値は張るけど美味しいと聞いたのでお昼休みに買いにきてみたのだ。
確かに普通のパン屋より高い。
でも美味しそうな匂いには勝てず、あれもこれもとトレーに乗せて、さぁレジに向かおうと思った所だったんだ。
お店の中のお客さんの視線が自分に注がれてるのが解る。
「…ごめんなさいっ」
ルミは慌ててしゃがんで転がったパンを拾い始めた。
…最悪。格好悪いわぁ…
「大丈夫?」
声がしてすぐ横にしゃがんで自分のトングで拾うのを手伝ってくれた人がいた。
「大丈夫です。すみません」恥ずかしくて顔も見れない。
袖口を見るとスーツ姿の男性みたいだ。
店員も飛んできて処理してくれた。
店員は
「これはこちらで処分致しますから、お気になさらず、もう一度お選び下さい」
と感じよく言ってくれた。
でもルミは恥ずかしいのが先で店員に謝って外に出てしまった。
あーあ…これで当分あの店には行けないな…ドジっちゃったなぁと凹んだ。
時計を見る。
休み時間はまだあるけど、何だか食欲無くなっちゃった。
ルミは近くの公園のベンチに座って、はぁ。と大きなため息をついた。
「あ、いたいた。ここに居たんだ」
そんな声がしたので横を見るとスーツ姿の凄く格好のいい男が立っていた。
パン屋で一緒にパンを拾ってくれた男だ。
「あ、さっきの!…パン屋ではありがとうございました。」
と言って頭を下げると
「はい。これ。」
男はそう言って紙袋を渡してくれた。
「拾う時見たら、確かこんな感じのパンを選んでたと思うんだけどな。」
袋を開けるとルミが選んでたパンが入っていた。
「これって…」
「買ってきたんだよ。君も食べなきゃ午後から頑張れないだろ?」
そう言って爽やかに笑った。
「お金払いますっ」
「いいって。…その代わりここで僕と一緒にパンを食べてくれないか?その袋に入ってるマフィンは僕のお昼なんだよ」
と言ってウィンクした。
ルミは緊張と驚きで、男性と一緒に食べたパンの味も解らなかったし、男性と何を話したかも覚えていなかった。
ただ、一つ覚えていたのは、「また明日のお昼にここで」という言葉だけだった。
男は食べ終わると公園の入り口付近に置いてあった外車に乗って去っていった。
ルミは夢を見ていたのかと思った。でも手にはパン屋の袋を握っている。
「夢じゃないんだ…」
そう呟いて会社に帰った。
午後仕事をして家に帰ってから夕御飯の代わりに今日買って貰ったパンをかじりながら、よく考えてみた。
何だかおかしい。
そんな美味い話が有るわけ無い。
やっぱり、何か売りつけたりする気なんだろうか…詐欺とかかな…
ルミは見た目は人並み。スタイルだって普通。
化粧だって派手ではない。
同世代でみたら地味な方かもしれない。
ルミ自身の預貯金は殆ど無い。実家は隣の県に健在だが、資産家とかじゃない。
ごく普通のサラリーマン家庭だ。実家の資産狙いとかではなさそうだ。
会っても私がお金を出したりしなければ大丈夫かな…
ルミはそんな事まで考えた。
少しときめいてしまった自分が腹立たしくて悲しかった。
翌日、約束はしたけど公園には行かなかった。
どう考えても怪しく思えたから。
何日かしたがルミの頭の中にはあの時の男の笑顔がこびり付いて離れない。
まさか、あの公園に毎日来たりはしてないよね…
ルミは公園のベンチに一人座っているあの男の姿を想像した。
パンを買ってきてくれて、一緒に食べただけなんだけど、あの男の事が気になって仕方なかった。
何日かして、ルミは思い切って、お昼休みにあの公園に行ってみる事にした。
居るはずはない。
男が居ない事が解ったら、頭の中の男の事も忘れられるんじゃないかと思ったから。
この間のパン屋に寄ってパンを買う。
あの男が買っていたマフィンも。
ついでに飲み物も2つ。
あの男が来なかったら自分が食べたらいいんだから。
そう思う事にした。
あの時の店員はルミの事を覚えていた。
「あのあと彼氏さんから聞きましたよ。彼氏さんカッコイイですね。」と言った。
彼氏?あの男がそう言ったの?頭が混乱した。
「彼女とちょっとケンカしちゃったって言って、落とされたパンのお代まで払って頂きまして…優しい彼氏ですね。」
続けてそう言った店員は嘘をついているようには見えなかった。
何を考えているんだろう?
私の気持ちも聞かないで彼女だなんて、勝手すぎるわ。
ルミはもしあの男がいたら一言言わなきゃと思った。
そう怒ってみたのも、あの男を忘れる為だったかもしれない。
公園のベンチにはやはり誰も居なかった。
遠くに鉄棒をしているサラリーマンはいたけど、あの男ではない。
ルミはちょっとホッとした。
そして凄くがっかりした。
やっぱり何か騙そうとしてたんだ。
ルミはベンチに座って、パンを広げてパクついた。やけ食いだ。
「ごめん。俺、約束した日付間違っちゃったみたいでさ…。
約束今日だったんだね。」
ルミが振り向くとそこにはあの時のあの男が立っていた。
「あっ…」
「あれ?俺のパンも買ってきてくれたの?感激だなぁ。ありがとうな」
爽やかに笑いながらそう言って、当たり前の様に隣に座った。
ルミは真っ赤になっている自分に気付いた。
一言言ってやろうと思ってたはずなのに…
嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが錯綜した。
私は恋に落ちたんだ。
ルミはそう思った。
それから毎日、お昼は公園のベンチに行く事になった。
雨の日は同じ公園の屋根のあるベンチに移動した。
男はタクマと名乗った。
背は高く軽くウェーブの掛かった長めの髪。
切れ長で少しブルーの入った目。
高い鼻に薄い唇。
いつもノーネクタイのスーツ姿。見るからに高級なスーツだ。靴も時計もデザインは凝っているけど嫌みのないものばかりだ。
タクマの話は面白く休み時間はあっと言う間に過ぎる。
いつもお昼が終わると運転手付きの外車に乗って去っていく。ルミも初めの内はタクマが何かを売りつけて来たり騙して来るんではないかと思っていたのだが、いつまで待ってもそういう話は無かった。
タクマと言う名前だってルミが聞いて初めて解ったくらいだ。
毎日が楽しかった。
それまでは会社の女の子達とお昼を一緒にしていたのだけれど、タクマとお昼を食べる様になってからは全く一緒に食事をする事はなくなった。
『格好いい人と毎日公園でご飯を食べてるの』なんて言えない。
でも聞かれたら答えないといけない状況になるかもしれない。
ルミは職場の仲間と少しづつ間を取る様になった。
仲間と疎遠になるとタクマとお昼にしか会えないのが段々寂しくなってきた。タクマとは付き合ってる訳でもないし、友達という訳でもない。
ただお昼を一緒に食べる仲なんだから…
だから…
でも…
「無理にとは言わないけど、良かったら今度は夕食、一緒に如何かな?」
だからタクマがそう言った時、ルミは「はいっ」と即答してしまった。
約束の夜、待ち合わせたいつもの公園の入り口に、いつもの大型外車がルミの前に音も低く停まった。
運転手がドアを開けてくれると中にタクマがにっこり笑いながら待っていてくれた。
夜の街を車は音も無く走る。
ごちゃごちゃした街の雑踏も闇で覆われている、隣には優しいタクマ。
こんな時間がずっと続けばいいのに…
車は一流と言われているホテルに横付けにされた。
ホテル内のレストランに予約がしてあったらしく窓際のスィートシートに通された。
こんなレストランも、席も初めてだ。
まさかこんな所に連れて来てもらえるとは思って居なかったから自分の服装が浮いている様に思えて恥ずかしかった。
タクマにこっそり伝えると笑いながら
「そんな事、気にしなくて大丈夫。充分綺麗だよ。」
と言った。
タクマが頼んでくれた食前酒と軽く明るい話題をしてくれたおかげでルミは次第に緊張が取れていった。
食事も食事後に行ったラウンジでの夜景を見ながらのお酒も最高だった。
タクマの明るくて楽しい話や行動、さりげない優しさで、ルミは過去味わった事のない雰囲気に包まれ、幸せを感じた。
タクマは本物の王子様なのかもしれない。
ルミはこのまま、このホテルに泊まりになると思っていた。
その覚悟もできていたけど…。
タクマはちゃんと一人暮らししてるルミのマンションまで車で送ってくれた。
車を降りる時、
「ルミ、今日はありがとう。…俺と付き合ってくれないか?」
真剣な眼差しでそう言われた時、ルミには断る理由が無かった。
翌日からはお昼は公園で会って、夜にはルミの家まで迎えに来てくれる車で夜景を見に行ったり食事に行ったり。
休みの日には美術館や遊園地に行ったりもした。
時々、車を返して二人で夜の街を散歩したりもした。
コンビニでスナック菓子とジュースを買って河川敷で食べたりもした。
慣れて来るとポロシャツにジーンズといった服装もして来るようになった。
いつもスマートで格好がいいタクマはラフでも変わらなかった。
タクマは誘うまでルミの部屋には来なかったし来たいとも言わなかった。
狭いワンルームの部屋に入っても、多少、砕けた話し方にはなっても、襲ってきたり豹変したりはしなく、終始紳士的だった。
ルミは益々タクマにのめり込んでいった。
――――――――――――
大学二年の夏も後半に入った頃、僕の頭の中に次第に『試験』の文字がチラホラして来た頃でもあるのだけれど…そんな事は頭のどこかへ仕舞ってしまい、毎日、バイトや大塚との霊体験で過ごしていた。
「おー、高山お疲れ」
いつもの黄梅院のカウンターからいつもの様に大塚が明るく言う。
「ちーす。相変わらず暑いな。」
「じゃ、すぐ行こうかっ。」
大塚はいつものリュックを手に取り立ち上がった。
「…待て待て。一体何があってどこへ行くのか、まずは説明しろ。」
「時間がないのだ。移動しながら話をするから。ホレ、ごちゃごちゃ言わずに出掛けよう。」
「ごちゃごちゃって…」
まぁ、急に出掛けるのはいつもの展開ではあるんだけど。
釈然とはしないが大塚の車に乗り込む。
大塚は運転しながら話をはじめた。
下田(『木』参照)からの紹介で連絡があったのだそうだ。
友達の状態が明らかにおかしいと言う。
「おかしいって?」
「解らぬ。何やら生活が急に変わってしまってボロボロだそうだ。」
「それって霊なのか?病気じゃないの?」
「だから会ってみんと解らぬ。ただ、その友達曰わく、何かに憑かれている様だと言うのだ。」
「憑き物かぁ…」
僕は以前に見た憑かれた人を思い出して大きくため息をついた。
――――――――――――
「ねぇルミ、久しぶりにお昼一緒に行こうよ」
あと10分もしたらタクマに会える。
そう思いながら机の上の資料を片付けている時、同僚のナツに言われた。
「…ごめん。私お昼はちょっと無理なの…」
そう言うとナツはちょっと真剣な顔になって
「ねぇルミ、どうしちゃったの?ここ暫く様子おかしいよ」
と言った。
「おかしい?何で?お昼を一緒にしないとおかしいって言うの?」
つい語気が強くなってしまった。
「…そういう訳じゃないけど…仕事も上手く行ってないみたいだし、
痩せていくし…心配になっちゃってね。」
「痩せた?」
毎日、鏡は見ているが全然そんな風には思っていなかった。
「…うん。何か悩み事かなぁって思ってね。…何もないならいいの。気に障ったんならごめんね」
ナツはそう言うとルミの側を離れていった。
チャイムが鳴ると同時に会社を出る。
これからの一時間が私の時間なんだ。誰にも邪魔されたくない。
いつものベンチに行くといつもの様に笑顔のタクマが待っていた。
話をしながらさっきナツに『痩せた』と言われたと言うとタクマは笑いながら
「そんな事ないと思うけど、気になるなら今夜は焼き肉かな?ルミをまん丸にしてみようかな」
そう言って笑った。
話をしてる間に会社が始まる時間が迫ってきた。
携帯のアラームが鳴る。
午後の始業に遅刻しそうに何度かなったので鳴る様にセットしたんだ。
「なぁルミ、勤め辞めないか?」
「えっ?」
「即答しなくていいんだ。考えておいてよ。…じゃまた夜に。」
そう言ってタクマは車に乗り込んで行った。
『仕事を辞めてはどうか』…私へのプロポーズなんだろうか…
仕事が無ければフリーな時間はずっとタクマと一緒にいる事ができる。
結婚したら一生一緒に居られる。
タクマの話ではタクマは貿易や旅客の仕事をしてるって言ってた。家はちょっと遠いらしく、また機会を作って連れて行くって言った。
ルミは午後の仕事を上の空で片付けながらずっとタクマの事を考えてた。
夕方、課長に呼ばれた。
昨日頼まれていた書類ができていない事とパソコンの入力が間違っていたと怒られた。
バカバカしい。
数値を弄った書類で会議をして何の意味があるのかと思う。
『体調が悪いんじゃないのか?』
とも言われた。
今日二度目だ。
そんな事はないと言って会社を出た。
――――――――――――
大塚の運転する車は、ある大きな商事会社のビルの前の喫茶店に停まった。
中に入るとサラリーマンや学生にのテーブルの奥にOL風の女性が僕達を待っていた。
長い黒髪の背の高い女性だ。
「ナツミさんですか?」
大塚が声を掛けると立ち上がって頭をさげた。
今日も僕は『助手』と紹介された。
「あの、お電話でお話したように、同僚で友人のルミの事で。」
「はい。何かおかしいとか?」
「ええ。入社は一昨年でお互い同期でした。
ずっと仲良くしてたんですが、この2ヶ月程の行動が…あの…ちょっと…おかしくなりまして」
「具体的には?」
「お昼になると、フラフラと会社を出るんです。
仕事が始まるまでには帰って来るんですが、雨が降っても、どんなに暑くても出掛けるんです。
ひと月位前からは服装などにも無頓着になったみたいで…。
化粧もしなくなって顔色が悪い、髪は抜けてペタンとしている、目は落ち窪む…」
「病気なのでは?」
「そう言ったんですが逆にキレられて。
…であまりにもおかしいのでお昼休みにルミの後を付けてみたんです。
やはり友達だから心配なんで…。
そしたら公園のベンチに座って何かぼそぼそと一人で話しているんです。
時折笑ったりしながら。
そして携帯のアラームがなるとトボトボと歩いて会社に戻って来るんです。
後、うちの会社の人がこの前の休みに美術館で見かけたそうなんです。
一人で目は虚ろでフラフラと。気づいて声を掛けたらしいんですが、その人には全く気付かなかったらしくて、横をぶつぶつ言いながら通り過ぎたらしいです。」
「…仕事は?」
「休まず来てますが、内容的にミスが多くて。
社内でも問題になりつつあります。
極力フォローはしてるんですが…」
「…悪いのが憑いとるな」
大塚は黙って首を横に振ってそう言った。
――――――――――――
家に帰ってタクマが迎えに来るまでに準備をしなきゃ。
もしかしたら今夜、本当にプロポーズされるかもしれない。
プロポーズされたらちゃんと返事するんだ。
「喜んで」って。
きっとタクマは笑って言うだろう「大事にするよ」と。
ルミは想像してニヤニヤと笑った。
まずは化粧…洗面所に行って電気を点けるとチカチカと点滅する。
やだ、切れかかってるの?
鏡に写る自分を見る。
みんなが言うほど痩せてなんか居ないじゃない。
肌も、もちもちで白くキメ細かいし、目も最近二重がはっきりしてきて大きく見えるし、柔らかそうな唇もグロスなんか必要ないみたいだし、髪もふんわりとカールしている。
やっぱり恋すると女の子は綺麗になるのね。
なんて思った。
チカチカッと蛍光灯が光る。
鏡の中に写るルミも一緒に点滅した時、
キャッ!
鏡の中に痩せた女がいた様に見えた。目は落ち窪み、髪は薄く、肌は黄褐色に見えた。
蛍光灯の光が安定するといつものルミの姿が写った。
ああ、びっくりした!何よこれ!
…ああ、みんなから痩せた痩せたって言われたから、変なもの見えちゃったのかな?
鏡の中のルミも驚いた顔をしている。
さぁ、急いで準備しなくっちゃ。
~♪
チャイムが鳴る。
「お迎えにあがりました。」
運転手の声だ。
「はい。今下ります。」
そう言って部屋を出る。
今夜はどこに行くのだろう?
楽しみだわ。
――――――――――――
「そのルミには、何かが憑いている可能性がある。」
「一体何が?」
「解らぬ。ただ、話をしていたとなると、相手は人語を解する者である事は間違いない。動物や物ではない。」
「…人…だよな。」
すごく当たり前な反応をしてしまった。
「…しかも悪意を感じる。他に何か気付いた事はないですか?」
大塚はオレンジジュースを一口飲んで言った。
「…あ、ルミ、今日課長に怒られたんですが、いつもならすぐ謝るのに、今日のルミは課長に喰ってかかってました。
その後挨拶もしないで会社を出て行ったんですが、その時、『もうすぐ辞める』とか『今夜には』とか聞こえました。」
「…急がねばならんな。ナツミさん、ルミさんの住まい解りますか?」
大塚は伝票を僕に渡しながら立ち上がった。
――――――――――――
「ルミ、今日はやけに綺麗じゃないか。どうした?何か良いことでもあったの?」
隣に座ったタクマは笑いながらルミの目を見てそう言った。
「ううん。別に。仕事でミスして怒られた位よ」
拗ねた様な目でタクマを見上げる。
「そうかぁ。さぁ今日はどこへ行こうか?」
「タクマの行きたい所でいいわよ。どこでも。」
「…じゃぁ、どこかでご飯食べてから星空でも見に行こうか。」
「私、星って好き。キラキラして…ダイヤモンドみたいで…もちろん私は持ってないけどね。」
「欲しい?」
「うん。なーんてね。」
本当は欲しい。
タクマから私の左手の薬指に。
――――――――――――
僕達三人の乗った車は郊外の小綺麗なワンルームマンションに着いた。
ナツミさんの案内でルミの部屋まで行く。
ドアが半開きになっている。
「ルミー!ナツよー!いる?」
外から声を掛けてみるが反応がない。
法律的にはどうなのか解らないが僕達三人はドアを開けて中に入った。
短い廊下の先に大きめな部屋のあるタイプのワンルームだ。
「なにこれ…」
部屋は荒れていた。
服があちこちに積み重ねてありいたる所にゴミが散乱している。
ベットマットはずり落ちているしテレビも倒れている。変な匂いもする。洗面所を覗いたナツミさんが小さく声を上げた。
蛍光灯が切れかかっているらしく、チカチカしていたが、洗面台には夥しく抜けた髪の毛が落ちていた。
纏めて抜けているようなものもある。
となりのユニットバスは底の方に茶色く変色した濁った水が溜まっていた。
トイレも何か嘔吐物の様なものが辺り中に付いていた。
ただ事ではない。
「…どこへ行ったのか…マズいぞ。」
大塚はポツリと言った。
――――――――――――
車は一旦海沿いのレストランに入る。
「ここのステーキは美味しいぞ」
タクマは笑いながら言った。
「今日のお昼の事?」
「そうそう。ルミを丸くしなきゃな」
意地悪そうに言う。
「もうっ」
わざと怒ってみせる
季節柄なのかテラス席の様な席に通される。
海風がそよそよと気持ちいい。
テーブルにはガラスのコップに入った蝋燭がチラチラと揺れている。
向かい合わせに座るタクマの顔が蝋燭の炎でぼやっと見える。
いつもの様に甘いマスクだ。
ソムリエが来て何事かタクマと話をする。
タクマが頷くと奥から古めかしいビンのワインを持ってきた。
ソムリエナイフで器用にコルクを抜く。
「テイスティングはいい。信用してるから。そのまま注いでください。」
タクマはそう指示した。
ワイングラスに赤い液体が注がれる。
蝋燭の炎の光に照らされた液体は真っ赤…そう、まるで血のように見えた。
「乾杯の前にちょっと話があるんだけどいいかな?」
来た!
ルミは心の歓喜を抑えるのに苦労した。
「え?何?」
一応そう言わなくてはならないわよね。
「僕と一緒に来てくれないか?」
「どこに?私はどこに行けばいいの?」
「僕と永遠の時を過ごして欲しい。」
少し変わったプロポーズね。
ロマンチックだわ。
ルミはそう思った。
――――――――――――
大塚はいきなり叫んだ。
「そうじゃ!携帯だ!ナツミさんルミの携帯を鳴らすのだっ!」
ナツミさんはびっくりした様だが慌てて携帯を取り出して掛け始めた。
「アラームで仕事に戻ると言っておったであろう?着信音で我に帰るかもしらん。
…あとは
…仕方ない婆ちゃんに頼るか…」
「大塚さんっ!呼び出しは鳴ってるけど出ないですっ」
ナツミさんが言う。
「構わないから鳴らし続けてっ。」
そう言って大塚は自分の携帯で大塚のお婆ちゃんに連絡をしていた。
――――――――――――
電子音がする。
私のバッグの中の携帯だ。
蝋燭の灯りが風でチラチラする…
!
タクマの姿が見えたり消えたりする様に見える。
テーブルが透けているような…
タクマの顔が急に曇る。
眉間にシワが寄った。
ダメダメ!タクマに嫌われちゃう!何でこんな重要な時にっ!
邪魔よ!
ルミはバッグごとテラスの向こうの波打ち際の方へ放り投げた。
タクマの顔が元に戻る。
心なしかホッとした表情にも見える。
「ルミ、僕と一緒に行ってくれないか?」
また同じセリフだ。
やり直しなのかな?
「いいわ。喜んで。」
タクマはルミの言葉を聞くと本当に嬉しそうに笑った。
「ありがとうルミ。じゃ、乾杯しよう。」
二人はグラスを合わせた。
――――――――――――
大塚はお祖母さんのツテを頼んで、警察の幹部経由で携帯会社のセンターに連絡を入れてもらって、ルミの携帯の発信位置の特定依頼をしてもらったらしい。
「大塚さん、ルミの携帯電源が落ちたみたいです…」
ナツミさんががっかりしたように言う。
「そうか…間に合えば良いが…」
大塚は目を伏せた。
~♪
大塚の携帯が鳴った。
「みんな車に乗れっ!」
慌てて外に走りながら出る。
「もしもしっ大塚ですっ。
…はい。
すみません。お手数かけまして。…はい。
…はい、※※海岸付近ですね。解りました。
ありがとうございます。」
僕らは大塚の車に乗り込むと※※海岸を目指した。
「ナツミさん、下田に電話して仲間に※※海岸付近の女を探す様に伝えて。
発見したら大塚に連絡してから様子を見てと伝えてっ」
大塚は交差点をタイヤを軋ませ通過しながらそう言った。
僕はシートにしがみついた。
――――――――――――
食事は申し分なかった。
肉は焼き方も柔らかさもこれ以上はないんじゃないかと思った。
ワインも口の中に染み渡る様な、それでいて存在感のある一級品だった。
パンも表面はパリッとしてて中はもちもちした食感。いつものパン屋のパンとは違って、噛めば香ばしさが肉の味を更に引き立てた。
食事をしながらもタクマはいつもの様に明るい話題を提供してくれた。
これから毎日こんな日が続くのかと思うと幸せで嬉しくて涙が出そうになった。
――――――――――――
下田の姉さんから電話掛かって来た時、俺、仕事がやっと終わったとこだった。
『ユージ!今どこ?』
母ちゃんかよ?って突っ込み入れようかと思った。
「今っすか。えーと○号線××交差点の側の現場っす。どーしたんすか?」
『※※海岸まで近い?』
「はあ。五分位かな…」
『あんた、良く聞きなよ!三分で海岸まで行って女を探すんだ。』
「女?どんな女なんです?婆ちゃんも含むんすか?」
ほら、軽いジョークもいれないと話が重くなったらダメだからさ…
『ボケッ!!早く行けっ!』
電話が切れた。
姉さんもキレた。
仕方ないからバイクに跨る。
現場のメットは被ったまんまでエンジン吹かして加速した。
マフラー音がたまらんなっ
二分で着くかと思ったんだけど五分掛かった。
女探せって言ったってよぉ、どんな女なんだよ…。
もしかして…めちゃかわいい女の子が帰れなくなってるとか?
『わぁーありがとうっ♪格好いいバイクね。後ろ乗せてー』みたいな…。
『ちゃんとつかまらなきゃダメだぞ。落ちちまうからなっ』
『あなたとなら恋に落ちてもいいっ』
みたいな…
…マジ探そ。
でも、海岸って言っても広いんだよな。砂浜ならもっと広いしな。
大体、情報量が少ないんだよ。
…まぁ情報有っても人影すら見えないんだから一緒か…
周りは引き上げられた漁船や網小屋があるばかりだしよぉ影にいたらわかんねえし。
この広い海岸沿いから女一人見つけろって言ってもさ。
…てか、この間、河川敷でも探したよな。台風の跡を探せとか…。
まさか幽霊とかじゃねぇだろうな…
イヤだなぁ…
ユージはアクセルを吹かして怖さを誤魔化した。
――――――――――――
遠くから暴走族のバイクの音がする。
こんなお洒落な所に無粋ね。
タクマも嫌そうな顔をしてる。
…何だかタクマの顔が揺れてる様に見える…
「そろそろ行こうか。ルミに星を見せてあげたいんだよ」
タクマはそう言って立ち上がった。
ルミも席を立つ。
「ここからそんなに遠くないから歩きだよ。大丈夫かな?」
「うんっ。」
ルミはタクマの腕に自分の腕を絡める。
タクマはそんなルミを見て幸せそうに笑う。
店の前の道を海岸沿いに歩く。
波の音に混じってバイクの喧しいエンジン音がまだ聞こえる。
…もう!台無しよぉ
――――――――――――
エンジン吹かしてたけど…頭の中にさっき想像してた、めちゃかわいい女の子が浮かんできた。
『ちょっと!このバイクウルサくない?』想像の女の子は嫌そうな顔をする。
…そうかもなぁ。女の子はうるさいの嫌いだよな…
ユージはアクセルを戻してギヤを落としてクラッチをちゃんと繋ぐ。
普通に静か目なマフラー音になる。
これなら大丈夫かなぁ。
でもさ、誰もいないじゃん。
…あれ?何だ?
ユージが見てる道の先に白い物がユラユラと動いてる。
向こうへ向かって歩いている様だ。
酔ってるのか?ヨタってんじゃん。
ヒラヒラと…スカートみたいだな。
あ、…あれか?姉さんが言ってた女って。
ユージはバイクを停めて携帯を取り出す。
「…もしもし…あ、姉さん?多分あれじゃないかっているのがいましたよ」
『なにっ!良くやったユージ!どこだ?どこにいるんだ!?早く言えっ!』
…間違ってたら俺、殺されるんじゃないか…?
――――――――――――
僕の携帯に電話が掛かってきた。
下田からだ。
『大塚ちゃんに伝えてっ、※※海岸、△△交差点から左手2キロ!』
オウム返しに大塚に伝える。
途中で下田の仲間のバイクが何台か抜いていく。
連絡が入っているんだろう。
そんなに遠くない。
少し開けた窓からは海の匂いがした。
――――――――――――
『見つからない様にして後をつけるんだよっ!もし、見失ったり、連絡絶やしたら…』
電話が切れた。
連絡絶やしたらどうなるんだよ俺…
バイクを端に置いて、歩き始める。さすがにバイクだと気付かれるよな。あたまいー
しっかし、こんな時間にどこ行くんだよ。
確かこの先は岬になってて展望台があるだけ…
…展望台か。
じゃぁ向こうから回り込んだら早いな。
バイクまで戻ってUターンさせる。岬に反対側から回り込める道を飛ばす。
あのヨタりかたならこっちの方が断然早いって。
やべー俺天才じゃん?
――――――――――――
やれやれ。
やっとバイクの音も聞こえなくなった。
タクマと二人きりの時間にやっとなれた。
星を見ながら話をするの…
これからの二人の人生についてね。
歩きながらタクマは何も話さず、でもにこやかに隣を歩いている。
きっと何十年かして今日の事を思い出すんだろうな。
あの日パン屋でバッグの紐がトレーに引っ掛かったのがきっかけだったのね。
…あれ?
バッグどこに置いたんだろう…お財布も携帯も入ってるんだけど…
「大丈夫かい?もうすぐ着くからね。」
「うんっ大丈夫よ。タクマは?」
「僕は大丈夫さ」
バッグなんてどうでも良くなった。
笑うタクマの歯がキラリと光った。
――――――――――――
『岬を逆に上がって展望台へ回って!』
下田から次の連絡があった。
先行するバイクが左手の道に入っていく。
僕らの車も山道に切り込む。
気付くと後ろにも何台か車が付いていた。
下田の仲間だろう。
間に合わない…いや間に合うかも。
――――――――――――
藪蚊がひでえ…
あいつまだ上がって来ねぇのかよ?
まぁかなりフラついてたからな。
しっかし、あの女何しでかしたんだ?
…まさか下田の姉さんとあの女が男をめぐる三角関係とか?
いやぁ、ヤバいっしょ。
人の恋路を邪魔しちゃ。
…どっちが邪魔してんだ?姉さん?…いやぁそれはないな。
あ、来た来た。
山道を越えて向こうからひょこひょこと白い服の女が見えてきた。
何だか風に乗ってぶつぶつと話す声が聞こえる。
あ。ヤバい系?薬とか?
白服の女は展望台のベンチに座った。
月明かりで良く見える。
なぁ、何があったか知らねぇけどさ、酔っ払って、夜中に一人でこんな所に来るような生活はしない方がいいって。
他に楽しい事もあるとおもうぜ。
ユージは、ぼそりとそう言った。
――――――――――――
「な、綺麗だろ?」
「本当に綺麗っ」
手を伸ばせば届きそうに見える。
チラリとタクマを見ると相手もルミを見つめていた。
タクマの深く青い瞳に吸い込まれそうになる。
数え切れない程の星が瞬きながら二人を見下ろしている。
「こんなに沢山あるのにさ、不器用だから一つしか穫れなかったんだ」
タクマはそう言うとポケットから指輪を取り出してルミの薬指にスッと嵌めた。
夜空に光っている星が薬指の付け根で瞬いている。
「タクマ…」
ルミの瞳からポロリと零れ落ちた涙に月明かりが反射してキラリと光った。
タクマはルミをギュッと抱きしめた。
「さぁルミ、そろそろ行こうか。」
「うん。タクマと一緒ならどこでもいいよ…」
二人はベンチから立ち上がった。
――――――――――――
白い服の女がゆらりと立ち上がった。
お、行くかい?
そうそう。それがいいよ。
俺も藪蚊にはウンザリしてるんだよ。
!
女は展望台の先の手すりを越えようとし始めた。
ダメだ!下は崖だぞっ
ああーどーすりゃいいんだ俺
ユージは反射的に藪を飛び出した。距離約30メートル。
黄色いヘルメットを飛ばしながら走る
間に合えっ!
地下足袋が地面を蹴った。
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「大塚あれっ!」
「みえておる!」
先行するバイクのライトと大塚の車のヘッドライトが展望台の柵を越えようとしている白服の女とそこに走って向かっている作業服の男を照らしている。
先行したバイクを降りて追う二人に続いて僕らも走る。
月明かりの中に白服の女の隣に黒い男の影が見えた。
「見えたか?あやつが元凶じゃ!」
正に飛ぼうと柵の上に女が立った時、作業服の男が腕を掴んだ。
女は怯えた表情のまま柵のこちら側に引きずり倒された。
暴れる女を必死で抑える作業服。
そこに二人のバイクの男が加勢した。
僕らも側に着いた。
黒い影は女の片腕を持って柵の向こう側へ引いていこうとする。
大塚が手印を組み真言を唱え始めた。
男三人で女を抑えているのにズルズルと柵の方に引きずられていく。
更に四・五人が加わる。
「ぎゃぁぁぁぁっったくまぁぁぁぁっ!!」
女は叫んでぐったりとなった。
黒い影はしばらくのたうつように動いていたが次第に見えなくなった。
女は泣いていた タクマという名前を呟きながら。
痩せた女の濡れた顔は月に照らされてキラキラと夜空の様に光った。
「マジでギリ。よかったぁ~。てか、あんた痩せてんのに力持ちだなぁ」
ユージが大きくため息をつきながら言った。
――――――――――――
「まるで『牡丹灯籠』じゃな。」
いつもの黄梅院のカウンターでコーヒーを淹れながら大塚が言った。
あの後病院に運ぶ車の中でルミがうなされる様にポツポツと語った。
話が終わると気を失ったんだ。
大塚は病院に入る前に十字を切りながら真言を唱えた。
「…なんだそのボタンドーローって?」
「夜な夜な美人が男の所に来るのじゃ。男には美人に見えるが周りからは骸骨にしか見えん…まぁそんな話だ。」
「それも霊なのか?」
「そうだろう。今回のあやつは間違いなく悪霊じゃ。しかもタチが悪い。女心を弄んであの世に連れて行こうとしたのだからな。」
「…ルミが言ってたタクマってのがそいつか?余程いい男だったんだろうな。」
「ぬしも夢を見るであろう?
夢では見えたり聞こえたり食べたり飲んだりしてる時はそれが現実と区別つかんだろ?
ルミも同じ状態だったんだ。
悪霊に幻影を見せられておったのだ…代償は命だったがな。」
「幻影の世界…」
「ああ。…それは中にいれば楽しく幸せだったのかもしらんな。
…そっとして置いてやってもルミには良かったのかのぉ。」
「ダメだろ。死んだら。」
「解っておる。気持ちの話じゃ。
夢だけの世界は何でも手に入るかも知らんが、全て幻影じゃ。
相手の心もな。」
大塚は寂しそうにそう言った。
――――――――――――
私は気付いたら病院にいた。腕に何本ものチューブが刺さっていた。
警察が来たり知らない人が何人も来たり。
ナツが連れてきてくれた女の子や黄色いヘルメットの作業服の男の人が助けてくれたらしい。
大変だったらしいけど何も思い出せない。
ガリガリに痩せてるのも何でそうなったのかも解らない。
事情を聞いても誰も教えてくれない。
会社は辞めた。両親が迎えに来て退院して実家に帰った。
今はすっかり元気になったけど、何でか解らないけど、散歩で公園のベンチを見ると、悲しくも無いんだけど涙が出るの。不思議でしょ?
それに最近変な夢を見るのよ。
何かに追われてるの。
格好いい男の人と手を取り合って逃げてるの。
私の指には指輪が光ってる。
目の前の塀を乗り越えたら私たちには自由が待ってるの。
でもね、私の靴が引っ掛かってしまって…
追っ手に追いつかれて、私たちは無理やり引き離される。
お互いの名前を叫ぶんだけど。
そしたら男の人が言うの。
『本当に好きなんだっ!! ルミ、愛してるっ』
ってね。
胸が苦しくて、泣いて泣いてそこで目が覚めるの。
何でなんだろうね…
おしまい