面
子供の頃、祭りに行く楽しみは露天。
かき氷、焼きトウモロコシ、綿飴の食べ物。水ヨーヨー、射的、輪投げ、金魚すくいなどの定番露天。
中にはカラフルに染められたひよこまでいた。
あとお面屋さん。
薄いプラスチックで出来たテレビのヒーローやヒロイン。中には二次元物を無理やり三次元化してるので多少無理のあるものもあったが。
小さな子供達には人気があった。
お面を被ってヒーローになりきり、奇声を上げて走り回る子供達がよくいた。
そんなお面に関する話を。
大学二年の夏。今思えば貴重な時間を僕は塾講師のバイトと大塚との霊体験で消化していた。
――――――――――――
「この時期に海辺の高級旅館に泊まれるとは。
高山、ぬしは幸せ者じゃなぁ」
大塚はにこやかにそう言った。
「…ああ。そこだけ聞けばな。」
「浮かぬ顔をするでない。単に軋みか、見間違えかもしらんではないか。」
「何人もが同じモノを?」
「集団ヒステリーか集団催眠かもしらん。」
「…その方が怖いじゃないか…」
大塚の運転する車は隣の県のΙ市に向かっていた。
事の始まりは…
一昨日の塾のバイトの帰り、何時もの様に黄梅院のカウンターでコーヒーを飲んでバカ話をしてた。
その時、大塚のお婆さんから電話がきたのだ。
大塚は暫く話していた。話の中に『霊』とか『祓う』とかいう単語が聞こえる。
『例』とか『支払う』という意味ではないのは解ってた。
僕は、嫌な予感がして、そっと黄梅院を出ようとした。
…が、
「待て。逃げるな」
と言われ、捕まってしまった。
何時ものパターンだ。
そして今までのパターンの多分に洩れず、あれよあれよと言う間に僕の今回のΙ市行きが決まってしまったんだ。
概略は、大塚曰わく
『旅館のお面が夜泣く。時々踊る。見た何人かが入院した。』
そんな話らしい。
文章にするとたった25文字なのに、僕には充分怖い。
特に『何人かが入院』なんて…絶対に怖い。
『一人がびっくりして階段から落ちて入院』なら具体性があって、驚かない様にしよう。
とか思えるが…具体性がないから逆に信憑性があってイヤだ。
僕のそんな気持ちとは裏腹に車は海岸線を南下する。
大塚の鼻歌を聞きながら。
車は出発から数時間でΙ市のA温泉街に入った。
目的の温泉はその街の一番奥の山の裾にあり、周りを深い竹林と高い海鼠壁に囲まれて建っていた。
純和風建築平屋建ての建物は新しく、一見すると映画のセットの様に見えた。
新しく見える建物に『○○○屋』という古めかしい看板が掛かっている。
車回しに車を寄せると中から黒い上っ張りを羽織った男と派手目な着物姿の女性が出て来て迎えてくれた。
「女将のKと申します。この度は無理なお願いをいたしまして…」
そう言って女性は頭を下げた。三十過ぎだろうか。
髪をアップにしているから年齢が解りにくいが、美人なのはよく解る。
黒い上っ張りの男性に促されて入った玄関はひたすら広く高級だった。
上がり框の奥は水族館の様な大きな一枚ガラスで奥に枯山水の日本庭園が広がっている。
京都のお寺を思わせる造りは僕を気後れさせた。
靴を預けて部屋に通されたが途中の廊下にも坪やら絵画やらの美術品が飾ってあり、壁も天井もどこを見ても綺麗だった。
東京に初めて出て来た地方の人の様にただキョロキョロとしてしまう。
大塚に小声で「口を閉じろ」と言われた。
広い部屋に通され、部屋の真ん中に用意された座布団に大塚と二人で座っていると、女将が来て改めて挨拶があった。
「それで…その面と言うのは?」
と大塚が切り出すと、女将は僕たちの正面の大きな襖を開けた。
奥にはこの部屋と同じ位広い座敷があり、その奥の壁に『面』はあった。
「女形…小面ですね。」
大塚が言う。
僕にはさっぱり解らない。
白い顔の目の細い『能面の女の人のヤツ』位の知識しかない。
「はい。小面です。
以前からこの旅館にあるものなのです。先代から動かさない様に言われまして、建て替えましてからも前とほぼ同じ所に掛けております。」
「建て替えられたのですか?」
「はい…以前の建物は古くて…維持管理にもお金も掛かりますので、最近建て替え致しました。」
どおりで綺麗な訳だ。
大塚は立ち上がり、面の下まで行った。
暫くみていた。
僕も見てみた。実は僕は能面をみるのは初めてだ。
近くで見ると細かく作り込んである。
傷のある所から変色した木の一部が見える。かなり古いものの様だ。
大塚は女将を振り返り
「この面が夜になるとどうなるのです?」
と聞いた。
「この部屋を舞うのです。初めは廊下を通っていた従業員が足音を聞いた気がして覗きまして。
中で優雅に踊っていたそうです。
悪戯かと思い、声を掛けました所、振り向いた顔は小面では無く、何やら違う面になっており、その従業員に向かって来たのだそうです。」
「…その方は?」
「私どもが見つけた時には半狂乱でして…暫く休ませております。
その後も従業員の何人かが舞いを見まして…お客様に何かあったらと思いますと…」
「…」
僕らは他の部屋に通された。
夜まではゆっくりできる様だ。
『助手』である僕にあてがわれた部屋でも十二畳の座敷と三畳の控え座敷まで付いた立派な物だった。
内線で呼ばれて行った隣の大塚の部屋は更に広かった。
大塚は広い座敷の真ん中でお茶を飲んでこの旅館のパンフレットを見ていた。
「高山、ぬし、すまぬがお風呂に行った時に裏に何があるか見てきてくれぬか。」
「裏?風呂のって事?」
「ああ。男性露天風呂の裏側だ。何があるか見てきてくれぬか。
その後、この街の温泉会館に行って、以前のこの旅館の事をさり気なく聞いてみてくれ。」
「…解った。大塚はどうするんだ?」
「わらわは、お風呂に入ってからゆっくり昼寝でもするかのぉ」
…やれやれ
僕はまずは風呂へ行った。
廊下でも風呂でも誰にも会わなかった。
内風呂は総檜造りで小さめなプール位の広さが在っていい香りがした。
内風呂を満喫してから露天風呂へ移動する。露天風呂も大きな岩で作られた綺麗な物だった。
露天風呂からはよく手入れのされた庭も見えた。
…あ、そうそう。忘れかかってた。大塚に言われてたんだ。
…裏側って…
見えるのは庭だけだな。
この岩の向こう側か? 幸いな事に風呂には僕以外は誰もいない。
2メートル程の岩によじ登ってみる。
今、誰かが露天風呂に入ってきたら、岩にしがみつく全裸の男が目の前にいて驚くだろうな。
登ってみて気付いた。
あれ?!これ岩じゃない。
下の部分は本物だが、積み重ねてある上の岩はプラスチックだ。よく出来てる。隙間に苔まで生えてるように塗装してある。
岩の向こう側は…女風呂
…では無くて『ポンプ関連施設』『関係者以外立ち入り禁止』と書いてある看板を下げたコンクリート製の小さな建物があった。
がっかり…
…何があるんだろうと思っていたのに、無粋な建物だったと言う事だ。
決して女風呂で無かったから、がっかりした訳ではない…
…本当はちょっとがっかりしてたのかもしれないが。
風呂を出てから着替えて散歩に行く雰囲気で温泉街に出掛ける。
A温泉は川を真ん中に左右岸沿いにあちこち、温泉宿がある。
途中に無料の足湯があったり石造りの公園があったり、土産物屋や喫茶店(茶店みたいなの)が点在している。
ブラブラ歩くと公営温泉があってその看板の横に小さく温泉案内所と書いてあった。
公営温泉の建物は古い木造だった。
暖簾を上げて中に入るとギシギシと鳴った。
小さな番台におじいさんが居たので聞いてみる事にした。
「あの、※※※大学の者なんですが…A温泉の歴史について調べていまして、どなたか詳しい方がいらっしゃいましたらお話をお聞きしたいのですが。」
我ながら上手いセリフだ。
「うん。何?」
「…えと、どなたか…」
おじいさんはポケットから名刺を出して渡してくれた。
『A温泉観光協会会長』の肩書きが付いている。
「わしが一番知ってるだろうな」
そう言って黄色い歯を出して笑った。
おじいさんの話を纏めると…
このA温泉は開湯は千二百年前。※※寺の※※法師が巡礼の途中に鹿が脚を浸していた湧湯を発見したと言う事らしい。
その後も細々と地元の人向けの温泉場として親しまれていた。
明治後期に近くまで鉄道が開通すると湯治場として人気が出て来る様になった。
その頃、山林王としてこの地域一番の分限者であった藤田家が源泉に近い自分の土地に○○○屋(今回訪ねている宿)を創設。
しかも高級温泉旅館として関東圏に大々的に宣伝した。
明治から大正、昭和戦前までは軍部将校や大臣、豪商などが主に利用したらしい。
「だからあんなに高級なんだ…」
と僕が一言言うと、強く首を横にふった。
「今のは見てくれだけ。
経営も建物も前の方がどれだけ立派だったか。」
そう言った。
「改装したらしいですね。」
「ああ。裏にあった山林を東京の不動産会社に売ってな。
そして今の建物を建てたんだ。
ついでに我々のA温泉観光協会も辞めてな。
みんな今の女将が来てから変えてしまったんだ。
先代も大女将もあの世で泣いておろうな。
若主人があんな事にならなければな。」
「若主人さん…女将さんの旦那さんですよね。どうされたんですか?」
「あまり話する事じゃないんだが…
自殺を図ったらしくてな。
麓の病院で何とか生きてるらしいが表には出てこなくなった。噂では経営の事と女将の事で悩んでいたらしいが。
今は女将が切り盛りしている…って言えば聞こえはいいが、乗っ取ったも同然だからな。
好き放題やってるんだろ。」
おじいさんはそう言って眉間にシワをよせた。
いくつか解らない点もあったが僕は礼を言って観光協会を後にした。
川沿いに歩いて帰る。
そう聞いた後だからか鄙びた感じは否めない。
以前の様に湯治客で活気づいた街は本当にあったのだろうかと思うほど閑散としている様に感じる。
その曰わく付きの旅館に戻って自室で横になる。
恐らく大塚も昼寝だろう。
旅の疲れか温泉が原因かそのまま寝てしまった様だ。
大塚からの内線で目が覚めると既に夜になっていた。
何だか目と喉がイガイガする。
風邪気味なのかな…
大塚の部屋に行くと食事の用意ができていた。
大塚は膳の前に座ってジュースを飲みながら手帳を見ていた。
「おお、高山、どうだった?」
僕は協会で聞いて来た事と露天風呂の裏側にポンプ室が在ったことを話した。
頷きながら大塚は手帳に書き留めていった。
時計が10時を指す頃、僕らは例の続きの和室に通された。
女将は宜しくお願いしますと言って出て行った。
「なぁ、色々とおかしいと思わんか?」
大塚はお茶を啜りながらそう言った。
「何が?」
「パンフレットは見たか?昔の建物の写真があったであろう?白黒の。」
「いや…見てない。」
「廊下にある絵や置物は見たか?」
「いや…見てない。」
はぁ…と大塚はため息をついてから話はじめた。
「ここにあるのは全て見せかけだけの偽物だ。」
「…すごく豪華な気がするけど…」
「騙されとるだけだ。」
大塚は説明してくれた。
写真で見る限り、以前は男性露天風呂の奥に井戸と蔵が幾つかあったこと。
一見木造に見えるこの建物は実は安い造りになっている事。
廊下に飾ってある骨董は全て偽物であること。
料理は大半がケータリングである事。
「…昼寝から起きた時、目と喉が痛かったのは…」
「シックハウスじゃな。
本物の漆喰ならおこらん。
壁を触ってみよ。壁紙であろう。」
見た目は土塗りの壁を触ってみると確かに見た目と違って壁紙だ。
「な、壁紙だろ。
何で以前からあった高級旅館をこんな安普請に変えたのだと思う?
しかも主人の権限が無くなったらいきなりだ。」
「…でも…経営の問題とか…ホラ、女将が言ってたじゃん維持管理にお金が掛かるってさ。仕方なくこうしたのかも知れないだろ?」
「建て直す方が余程高いわ。」
大塚はそう言って渋い顔をして続けた。
「何かカラクリがあるのじゃ。面が教えてくれるやもしれん。」
灯りの点いた和室は別段変わった事もなく只時間だけが過ぎて行った。
僕と大塚は特に話をする事もなく、お茶を飲みながら面を見てた。
今夜は動かないんじゃないのか?
と思っていたその時
キィ…キィ…
「何の音だ…?」
キィキィキィ…
面から音がする。
「大塚…」
「シッ!」
小面がカタカタと揺れている様に見える。
あれ?何か違う…似てるんだけど…
「ますかみ…」
大塚は呟いた。
面はキィキィと鳴きながら掛けてある壁から外れた。
面は下に落ちる事無く空中をふわふわと舞う。
朧気ながら人影も見える。
間違いなく霊が被って舞っている。力強く何かを訴えるかの様に。
身動きできない。
怖さよりも、威圧感の方が強い。
大塚が手印を組み始めた時、壁からまた一つ別の顔が浮き出てきた。
「!」
今度の面は髭を貯えた男の物だ。
こっちもうっすらと人影が見える。白っぽい男の様な体型だ。
男の面は小面の前に進み出るとこれもまた、強い舞いを始めた。
何だ…この二体は何をしているんだ?
二体はただひたすら舞っている。
声も囃子も聞こえないが能の演目を見ている様だ。
『ますかみ』を『髭の男』が抑えている様に見える。本当に舞っているだけなのだろうか…
隣では大塚が手印を組み、目を閉じて静かに何かを聞いている様に見える。
どの位時間が過ぎたのか
ふっと気付くと『ますかみ』は元の顔に戻って壁に掛かっていた。
『髭の男』は姿が見えなくなった。
「終わった様だな」
大塚が言った。
僕も体が動くようになった。
女が何かをしようとするのを男が押し止めている様に見えたと感想を言うと、
「大体そんな感じだな。…二体の話を聞いていたのだが…。女の方が『小面』から『十寸髪』(ますかみ)に変わっておったろ?
『十寸髪』は女性の狂気な姿として使われる面だ。」
「…誰なんだよ?前の女将とか?」
「解らぬが…後から来た『男系』が待てと言っておった…小面はここを壊した事に対しての怒りなのか。
あの舞いは怨みの舞いじゃ。
後から来た男系の面はここの主の前世の霊であろうか。
その怒りを収めようとしておった。」
「主って、自殺を図ったと言う?」
「そうだろう。その主の先祖だな。」
「…よく解らん。女将が悪いなら女将に霊障が出てもいいんじゃないか?」
「わらわにも解らぬ。
ただ、主が自殺を図った事も関係あろうな。
面に何かの霊が宿り、誰かを呪っており、それをここの主の先祖が止めている…。
…どちらにしても女将から話を聞かねばな。」
大塚はそう言うとしばらく考えていた。
「いや…違うかもしらん…高山、一緒に考えてくれぬか…」
大塚と僕は二人で数少ないパズルのピースをつなぎ合わせる作業に取りかかった。
――――――――――――
和室で僕らは話をしながら朝を迎えた。
大塚は自分の考えを話してくれた。
それを聞いた僕は驚いたが納得もした。
朝になって女将が様子を見に現れた。
大塚は至って普通に淡々と話はじめた。
「凡そ解ったのですが…女将さんに正直に話して頂かなければ対処が出来ません。」
そう言って大塚は話しはじめた。
「はい。解る事なら…この様な事が続きますと困りますので…」
女将は神妙な顔でそう答えた。
「では…女将さんは幾ら儲けられたんですか?」
いきなり大塚は女将にはっきりと言った。
「!」
女将の顔が引きつった。明らかに狼狽している。
「…儲けるだなんて…そんなっ…」
狼狽する女将の返事を待たずに大塚は続けた。
「東京の不動産会社や骨董品売買の業者を当たれば解るはずです。」
「…」
「私達には関係のない事ですが…ご主人の件も霊が関係してるかどうか。
何なら、警察と病院に連絡してもう一度、調べてみてもいいと思うのですが。」
女将の顔はみるみる赤くなり鬼の様な形相になり叫んだ
「主人は勝手に自殺を図ったんですっ!私達は何も知りませんっ!!」
それを聞くと大塚はニヤリと笑った。
「…語るに落ちましたね。お子さんもいないあなたが言う『私達』とは誰を指すのです?
不動産会社か投資会社の恋人か愛人ですか?」
「!」
女将の赤い顔が青くなった。
図星だったのだろう。
「恐らくあなたは元からこの旅館を乗っ取るつもりでご主人に近づいたのでしょう。
ご主人を自殺に見せかけて亡き者にする予定だったのでしょう。
殺すまではできなかったが、ご主人が自分で判断出来ない状態になったのを見計らって、旅館の建て直しを行った。
それは蔵の中などにあったこの旅館の骨董品を売却するいい口実だ。
計画通りに東京の不動産会社と結託して裏の山林を売却。
いずれ時期をみてこの旅館も手放す予定なのだろう。
…解らんが、平屋建てにしておけばゴルフ場の開発をしてもクラブハウスに改築しやすいかもな。」
それを聞くと女将はキッと顔をあげて大塚を睨みつけた。
「帰って下さいっ。もう結構です!お帰り下さいっ。」
女将は口を引きつらせながら叫んだ。
『その通りだ』と認めた様なものだ。
「…言われずとも帰るから心配せんでよい。」
大塚は立ち上がった。
帰るつもりらしい。僕も立ち上がった。
…キィ…
…キィキィ
女将と僕はギクッとして面を見た。
笑っていた。
その細い目が次第につり上がってくる。
ふくよかな頬はみるみる痩せていき、顔の色が黄色くなっていく。小さな口が割れる様に大きく広がり、その真っ赤な中に、尖って白く光った歯が並んでいるのが見えた。
髪は広がり波打ち、中から短いが先の鋭い角が生えてきた。
「般若となったな…もう抑えられぬぞ」
大塚は驚くほど冷静に言った。
般若はゆっくりと壁から離れると頭を抱えてうずくまった女将の周りを回り始めた。
「ヒィィ!…」女将は声にもならない声を上げてガタガタと震えている。
キィキィと鳴きながら飛び続ける。
その般若の泣き声の中に
『貴様…よくも私を…』
と言う言葉が聞こえた。
今にも女将に飛び付きそうだ。
大塚はその姿を見ていたが、すぅっと息を吸い込むと
「ぬしが主人に手を下したのかっ!」
大声で女将に怒鳴る。
「…!」
女将は涙目で大塚を見上げて小さく何度も頷いた。
大塚はそれを見ると手印を組んだ。
だが、真言を唱えるまでに般若の面は、元の小面の顔に戻り壁に戻っていた。
その後、女将は震えながら話をした。
「…私は東京で自堕落な生活をしてたのよ。
元は地方から家出同然で上京してきてね。
水商売で働いてたんだけど、稼ぎよりも使う方が多かった。
見栄っ張りで、負けず嫌い、抑えも利かない性格だから借金も増えて。
風俗に入って稼ぐ事にしたけど、ホスト遊びが辞められなくて…。
借金でいよいよ首が回らなくなった時、風俗のお客だった男が話を持ちかけてきたの。
俺がその借金をチャラにしてやる。その代わり三年だけ俺の言う通りに動け。
三年して稼いだらその内3割はやるって。
その男は私に計画を話したわ。
汚い仕事をしていた男で、金融会社と不動産会社に顔が利いたのよ。
老舗の高級旅館を乗っ取って大手不動産に売るんだって。その大手不動産では温泉付きの高級ゴルフ場付きのリゾートホテルを造りたかったらしいの。
その下準備として、その男が動いていたのよ。
まさか大手不動産が自ら汚い事はできないでしょ。
…真面目な旅館の若旦那を騙すのは簡単だったわ。
信用させて結婚まで持ち込んだ。
ちょうど先代が亡くなったばかりだった。
先代の奥さん…大女将ね…は私の事を薄々感づいていたみたい。
旦那が寄り合いで出掛けたある日、大女将と喧嘩になったのよ。
出ていけって凄い剣幕だった。でもね、元々高血圧だった大女将は脳溢血を起こしたの。
私の目の前でね…。
私、救急車も呼ばなかった。深夜に旦那が帰って来るまで気付かなかったことにしたの。勿論、手遅れで亡くなったわ。
邪魔者は居なくなった。
その後、少し焦りすぎたのよ。
建て直しをしよう。
建て直しで傷つけたくないから骨董品は一旦東京の倉庫に仕舞おう。
昔から雇っていた従業員を解雇しよう。
裏の山林を売ろう。
色々と手を尽くして計画を実施しようとした。
…旦那は私の動きがおかしいと思ったらしくて、私の過去を興信所で調べさせてたのね。
結果は私が旦那に話してた過去とは全く違うじゃない。
『騙したな』『離婚だ』『告訴してやる』って言われた。
私が好きでもない男と結婚までして苦労してきた二年半。
全てが水の泡になってしまう。
そう思ったら…
私は男に頼んで劇薬を送って貰った。
睡眠薬で寝むらせた旦那に無理やり農薬を飲ませた。
部屋中に請求書や税理士の作った資料をバラまいておいたの。
案の定、警察は経営の事を苦にしての自殺未遂と判断してくれたわ。
…旦那は死ななかったわ。でも神経がやられて歩く事も話す事も見る事もできなくなった。
私は淡々と計画を実施していったわ。
…あの時、旦那がもし死んでいたら、遺産の件で悶着あったでしょうから、ああ言う形で生きててくれるのは理想的だった。
計画が済んだら離婚したらいいのよ。
財産のない旦那に未練はない。
もう少しだったのよ。
あの小面が舞ったりしなければ…
その舞いを見たものがいなければ…
早く処理が終わっていれば…
旦那が早く逝っていてくれたら…」
「鬼じゃな」大塚はそう一言言うと立ち上がった。
女将…のお面を被った『鬼』は崩れる様に平伏して泣いた。
――――――――――――
旅館を出て少し走った所でサイレンを鳴らして『元高級旅館』に向かうパトカーとすれ違った。
「大塚が言ったので殆ど合ってたな。」
「ああ。…ただ、例の舞っていた小面が『旦那』だ。
押し止めていたのはやはり『先代』だったな。
主人は騙した女を恨むのと同時に誰かに伝えたかったのだろう。
しかし…先代の霊はなぜ止めていたのか…」
「なぁ、大塚、変だよ。なんでご主人が『小面』なんだ?『男の面』だろ普通。『小面』は女なんだから。」
「男でも関係ないのじゃ。
能は全員男が舞うのだ。
最近になるまでは男だけの世界だったのだ。
演目や役柄で面を変えて舞うのだ…。
…あ、そうか。」
「なんだよ?」
「昨夜、『小面』から『十寸髪』になったな。
普通の状態から狂気な状態になったと言う事だ。
つまり、まだ生きているのだ。
能面には、死んで恨んだりする時の『怨霊系』。怒り狂った霊の『鬼神系』とあるのだ。」
「つまり…?」
「…『狂気の舞いではまだ呪いが足りぬ。
お前が死んでから怨霊として更なる力で相手を呪うのだ。
今はまだ待て。』と先代が止めていた…としたら話は合うな。」
僕は聞いていて鳥肌がたった。
もっと恨む力をつけてから恨めとは…。
――――――――――――
数日していつもの様に黄梅院に寄る。
「おー高山、お疲れ」
「あれ?」
大塚の顔がちょっと違う。
「気付いたか?ちょっと化粧を変えてみたのだ。似合うか?」
大塚のすっぴんに近い化粧しか見たことがないから新鮮な感じがする。
「…あ、いいと思うよ。」
ちょっとドキマギする。
「なんじゃその反応は!かわいいなら、かわいいと綺麗なら、綺麗と言わぬか!デリカシーがないのう」
そう言ってプッと膨れた。
中身はいつもの大塚だった(当たり前だが)。
ふと気付いたのだが、化粧もお面の仲間か。
見た目を変えるだけで、その人が物事を明るく考える事ができたり、楽しくなれたりするのだから。
世の中の女性は今日も化粧という『面』を被って日常を舞うんだな。
…中身が般若になりません様に。
おしまい