復讐させて頂くためにも、婚約破棄には応じません。
復讐譚です。スカッとしません。
「では、リスノワール。この書類にサインしてくれ」
一方的に婚約破棄を申し出てきた婚約者様は、その横で美少女を抱き寄せながら、私に同意書の束を差し出した。実に軽薄な御姿だが、これでも次期伯爵となる高貴な令息である。
差し出された同意書を無視して、私は婚約者様から目を離さなかった。不敬には当たらない。私の家もまた同格の伯爵家であり、主従関係には無いからだ。
「どうしても破棄なさりたいのですか」
「ああ。僕とフローレンスは、お互いに真の愛を見出した。結婚とは、親同士の婚約によってではなく、当事者同士が愛を確かめあってするべきものだ。そうは思わないか?」
思わないか?ではない。そういう話は婚約する前に済ませておくか、せめて婚約してすぐに相談すべきじゃないだろうか。婚約して二年も経ってから、真の愛とやらに目覚められても困るのだが。
「さあ、署名してくれ。名前を書くだけで済む話だ。中身を読んでもらえば分かるが、決して君が不利になるような内容ではない」
私は半ばどうでもいいと思いつつも、婚約破棄に係る同意書の内容に目を通した。
……なるほど、婚約者様の言っていることに嘘はないようだ。あくまでも有責はあちらであることが明文化されており、相応の慰謝料も支払われる。この内容なら、私の名誉が傷付く心配は無いだろう。
だがそもそもの話、婚約破棄自体が呑めるものではない。私個人の名誉や金の問題ではないのだ。
「拒否します」
「何?」
「私達の結婚は政略の一環です。結婚後にお互いの領地と資源の一部を交換しつつ、領地間の交易をより円滑にする事が目的だったはず。婚約を破棄されては、その目的が果たされません」
「それは婚約を破棄した後でも可能だろう。別に君のことが嫌いになった訳でも、恨みがある訳でもない。円満な婚約破棄、いや合意の下で婚約を解消したのならば、家同士の取り決めに影響など出ないよ」
「なんですって……本気でそうお考えなのですか?」
「?ああ、そうだが」
なんたる無知。なんたる不見識か。領地交換とは、そんな簡単な話ではない。
領地を交換するということは、そこに住む領民を管理する領主が交代するということだ。土地の交換だけなら結婚せずとも可能だが、交代した領主が前領家との婚約を破棄した家とあっては、領民が不安になって統治どころではない。
なにせ領民の中には、自分の領地を持たない貴族もいるのだ。彼らとの信用取引にも大きな影響が出る話であり、だからこそ政略結婚が必要だったのだ。軽々と破棄して良い話ではない。ただ――。
「何を迷っているんだ。君だって、僕のことは好きじゃなかっただろう」
「好き嫌いの問題では――」
「ないとでも?僕は政略結婚でも、君の愛が欲しかったよ。君は愛よりも政略が大事だったみたいだけどね」
――私と婚約者様の間には、既に埋めがたい溝が出来ているのかもしれない。それも私達二人で掘った、深い深い溝が。
私だって、幸せな夫婦生活を夢見なかった訳ではなかった。むしろその準備のために、少女時代を費やしてきたと言ってもいい。ポール様の事も幼いころから知っていて、個人的に慕ってもいた。ただ領民の生活と、自分の幸せを天秤にはかけられないと思っただけで。
しかし、そのポール様との仲を深めるための時間を、どれだけ作れていたかと問われると……正直、自信が無かった。結婚を見据えて様々な勉強はしてきたが、恋人らしいことは出来ていなかったかもしれない。もっとポール様と過ごす時間を作っていれば、こんな亀裂を生むことも無かったのだろうか。
でも、だからって、それが一方的に裏切っていい理由になるのか。こんな仕打ちを受けなくてはならないほど、私は至らない婚約者だったというのか。政略結婚を円満なものにしようとしたことが、それほどの罪だったとでも。
やるせない思いと、自責の念、そして私を裏切った婚約者と、婚約者を奪った少女への怒りでおかしくなりそうだった。生まれて初めて、憎悪と呼ぶべき悪感情を抱いた。
それらが混ざり合わさった結果、私の心は復讐の炎で燃え上がった。
この男を許さない。絶対に報いを受けさせ、裏切ったことを後悔させてやる。
私は先ほどから緊張した様子で黙っている美少女に、目線を向けた。
「フローレンスさん……でしたか。貴方は、私の婚約者であるポール様へ、真の愛を感じているのですか?」
「は、はい。リスノワール様には、大変申し訳なく思いますが……彼を一生支えていきたいという気持ちに、今も変わりはありません。」
「……そうですか」
大したものだ。普通ならば好いた男に婚約者がいたと分かれば幻滅し、頬を引っ叩きそうなものだが。これも恋心がもたらす強さなのだろうか?あるいは私とは違う色の血が流れているのか。
「分かりました」
「分かってくれたか」
私の一言で何か誤解したのか、向かいの二人はホッとした様子だった。だがその緩んだ顔は、次の一言によってすぐに冷え固まった。
「しかし婚約破棄には同意しません」
「なんだって?それは困る。それではフローレンスと結婚できないじゃないか」
「そうです。貴方達二人を結婚させないと言っているのです。しかし、お二人が実質的な夫婦となることは黙認致します」
「あの……おっしゃることが、よく……?」
フローレンスさんは、話の流れに付いてこれていないようだ。この察しの悪さ、まさかとは思うが平民だろうか?まあ、後で調べれば分かることだが。
私は不満そうにしている婚約者様への確認も兼ねて、困惑する美少女が平民であることを前提に、可能な限り簡単な言葉を選んで説明を試みた。
「政略結婚という言葉は、ご存じですか?」
「親同士で色んなお約束をしてから行う結婚ですよね」
「……ひとまずはその認識で構いませんが」
理解が浅い……これは素性を調べるまでも無いかもしれない。
「私の家とポール様の家は、結婚を機にお互いの領地の一部を交換する予定でした。理由は様々ですが、大雑把に言えばお互いの領地に不足していたものを補い合うことで、領民の生活を安定させるためです」
「それは少し違う。領地交換を条件に持ち出したのは、君の家の方だ。僕は別にそちらの領地など興味は無い」
「その通りです。今一番興味を持たれているのは、私やポール様ではなく、我が家の当主と貴方の父君様ですね」
「……ちっ」
確かに提案したのは父上だが、結婚を交換時期に据えて方針を固めたのはあちらの家である。だがしかし、今そこを指摘しても水掛け論になるだけだろう。
その辺の再教育は向こうの家に任せるとして、今はこの略奪女に状況を把握させるのが先だ。
「私とポール様が婚約して、もう二年が経過しています。既に領地交換の準備は最終段階で、待った無しの引き返せない状況です。この同意書にはそれなりの額の慰謝料が提示されてはいますが、領地交換の準備に掛かった金額は、この同意書をあと100枚追加しても足りません」
「そ、そんなに!?」
「むしろ安い方です。私達の家は仲が良かったので、お互いに費用を相殺させながら進めてきましたから」
だが親が仲良し同士でも、その子供たちが仲良しになれるとは限らない。ポール様との付き合いも長いが、結局はこんな結末を迎えている訳だし。
想像を絶する金額で真っ青になったフローレンスさんに対し、ポール様は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。彼は本件の当事者なので、領地交換の過程で何が行われていたかは、ある程度知っている。にも関わらず、この金額を提示しているのだから、半ば確信犯なのだろう。
「君には失望したよ。結局は金の話か」
「違います。敢えて金額に触れたのは、事の重大さを認識してほしかったからです。私が問題視してるのは金額ではなく、領地交換後の運営についてですよ。婚約もまともに果たせない家が、領地をまともに運営できると、領民たちが認めるとお思いですか?」
「言ってくれるじゃないか……」
「私は一般論を言っているだけです。それともポール様は、婚約破棄の後に巻き起こる政治的混乱を、御二人の愛の力だけで収められる自信がお有りですか?貴族領民が、混乱に乗じて何もしないとでも?」
「…………っ!」
「領民全てが非力だと思わないことです。迂闊な動きをすれば手を噛まれますし、嚙まれるのが自分の手とは限らないのが、貴族の世界です」
憎々しげだが、反論の言葉が出てこなかったようだ。どちらに理があるのか、やっと彼も分かってきたらしい。まあ彼の場合は、フローレンスさんを巻き込みたくないという、ただそれだけの思いからかもしれないが。
「そういう訳ですので、嫌でも婚約は果たして頂きます。しかし愛妾としてフローレンスさんを抱え、御二人で実質的な夫婦生活を送ることには反対しません。私とは書類上の夫婦関係だけで結構です。どうぞ御二人で、真の愛とやらを存分に育んでください」
「なんだと……?何を考えているんだ、リスノワール」
何を考えているかだって?決まっている。
「私が今考えているのは、お互いの家の安泰と、領民の生活についてです」
そしてもちろん、貴方達二人を地獄へ堕とすための算段だ。
「貴方達二人がどう過ごそうと、私にはもう関係無い話ですから」
「リスノワール様は……それで良いのですか?」
この娘は何の確認をしているのやら。よろしくなくとも、そうせざるを得ない状況にしたのは、貴方達だろうに。
「はい、構いません。お互いの両親や取引先が来る時だけ、ポール様をお貸し頂ければ十分です。その時だけは、私も妻のふりをさせて頂きます。それでよろしいですね、ポール様?」
「……分かった。些か気になる部分もあるが、その条件を呑もう。言っておくが、あくまで表面上の夫婦関係だからな。僕の心がフローレンスから君に移ることは、絶対に無い。忘れないでもらおう」
「ええ、覚えておきましょう」
「よし。帰ろう、フローレンス」
捨て台詞とともに、二人は仲良く私の部屋から去っていった。後に残されたのは僅かな頭痛と、婚約破棄の合意書だけだ。私はその紙ゴミに火をつけて、暖炉の中へと放り込んだ。この胸の熱さは火に充てられたためか、それとも彼らへの憎しみのためか。
まるで当然の権利のようにたやすく婚約破棄を迫ったポール様。そしてポール様との幸福な未来を予感し、笑みを浮かべて帰っていったフローレンスさん。
どちらも許すつもりはない。私の一生を懸けてでも、その選択を後悔させてやる。
暖炉の中の紙ごみは、一瞬で全身を燃え上がらせていった。その輝かしい一生を主張するかのように、暖炉の中を明るく照らしていく。
ポール様の情熱は本物だ。だがしかし、どんな熱でもいつかは冷めるものだ。彼の情熱から熱が失われた時、何が残るのか。私は多少の興味を持ちつつも、強い関心を持つことはなかった。
あるのはただ、あの裏切り者と略奪者に対する復讐心だけだ。
あっという間に燃え尽きた紙束は、自らの灰に塗れたまま何かを求めるように、ゆらゆらと揺れ動いていた。
そしてこの一年後、私とポール様は上辺だけの結婚式を挙げた。仮面夫婦となることを心に誓った私達だったが、恐らく周りからは円満な結婚に見えたことだろう。もちろん新婚初夜であろうと、床を共にすることは無い。私の隣で寝る権利を持つ人間は、今後一生現れないだろう。
「おお、リスノワール様だ!おはようございます!」
「ええ、おはよう。領地交換後の交易は順調?」
「ええ、それはもう!奥様が屋台業を迅速に開放してくださったおかげで、大衆向けの商売が捗って仕方ないですよ!」
「全部貴方達の商才があってこそよ。頑張ってね、応援してるわ」
「はい!」
領地交換も滞り無く行われ、交換した土地の一部を、私とポール様で共同運営することとなった。あくまで表面上の共同運営であり、協力も最低限の範囲だったが、多くの領民にとっては日々の生活が全てだ。さほどの混乱も無く受け入れられ、彼の隣にフローレンスさんがいても、世話人か秘書だろうと勝手に解釈されていた。
近距離別居かつ不倫を公認しながらの奇妙な夫婦生活は、月日が経過しても大きな問題は起こらなかった。
だが、偽装結婚とも言うべき歪な関係だからこそ、普通なら問題にならないことが障害として立ち塞がるのだ。
「――リスノワール。夫婦生活は順調かい?」
「はい、お義父様。ポール様にはとても優しくして頂いております」
夫婦生活を始めて三年。領地運営にも慣れ、食事をしながら次の農地開拓について考えられるようになった頃のこと……遂にその時がやってきた。
「そうか。ではそろそろ、孫の顔も見られるかな」
それはこの夫婦生活の終わりの始まりであると同時に、私の復讐が始まる狼煙でもあった。
ここで言う孫とは、言うまでもなく跡取りとなる男孫のことである。政略とはいえ、結婚した以上は跡取りを求められるのだ。むしろ政略で結びついた関係だからこそ、その代で断絶させる訳にはいかないとも言える。政略結婚というものは、当人達以外の利益が大きく関わっているのだから。
しかし残念ながら、仮初の夫に過ぎない彼は私を抱く予定は無いし、私も浮気者と分かってる男に抱かれるつもりは無い。誰かさんと違い、外から種を仕込む真似も出来ない。
だから選べる手は、一つしかない。
「どうしたんだい?気分が悪いように見えるが……」
この先の地獄を憂いて、思わず返答に窮した私だったが、お義父様の心遣いによって現実に引き戻された。
「いえ、大丈夫です。それよりお世継ぎの誕生をお待たせしてしまい、申し訳ありません。良い報告をしたいとは、常々思っているのですが」
「慌てなくて良い。望めばいつかは、授かるものさ。時を待ちなさい」
「ありがとうございます」
「くれぐれも体を大事にするんだよ」
「はい、お義父様」
好々爺然として屋敷を去るお義父様の背中を見送り終えると、罪悪感で押し潰されそうになり、吐き気さえ覚えた。
お義父様は、私が心から尊敬している人格者だ。結婚前の小娘に過ぎない頃から私のことを気にかけてくれていたし、領地運営を始めた後も実父と一緒に私を支援してくれていた。
もちろん、あの浮気者にも平等に接し、正しきは認め、誤りは正し、その裁定に私が疑問を抱いたことは一度も無い。孫の顔を見たいというささやかな願いも、本当ならいち早く叶えて差し上げたかった。あの男が、真の愛とやらに目覚めさえしなければ。
私はお義父様が帰られた後、共犯者達と共に跡取りについて話し合いをすることにした。その横には、先程まで二階で休んでいたフローレンスさんが居た。皮肉なことに彼女の腹には、お義父様が待望している新たな命が宿っている。
「言っておくが、君と子供を作るつもりはない」
「私も真っ平御免です。考えただけで虫唾が走ります」
私の返答に、何故か微妙に傷付いた顔を浮かべたが、先に牽制したのは彼である。
「しかし、このままでは私達の関係が怪しまれてしまうでしょうし、将来に向けて跡取りが必要なのも確かでしょう。子供を作れない理由をでっち上げて、外から養子を入れるしかありません」
「いや、もう一つ手がある。僕とフローレンスの子供を――」
「それは無理です」
どうせ言い出すだろうとは思っていたが。
「無理なものか。紛れもなく僕の血を引く子供だぞ」
「ポール様の血を引いていても、その子に乳を与え、最も長く接するのはフローレンスさんです。彼女の実子に、私が母であるかのように演じさせるのは難しいでしょう。必ず何処かでバレますよ」
お義父様がここに来るのは、大体ひと月に一度だ。領地運営の一部を任せたにしては、かなり控えめな訪問回数と言っていいだろう。あのお義父様のことだから、きっと夫婦生活の邪魔をしないよう、気を使っているのだと思う。
そのひかえめな訪問を重ねても、お乳を与えてるはずの私に子供がいつまでも懐いていなければ、関係を怪しまれるのは時間の問題だ。下手をすれば虐待を疑われてしまいかねない。
「だが……」
……ここまで言ってもまだ諦めきれないのか。だったらその目を隣に向けてみるがいい。
「母子に対して酷だと言っているのです。お腹を痛めて生み、育てた子供を貸し与え、その間は他人のふりをしろと、彼女に諭すつもりですか?他人を母と呼ぶように、父親から言われた子供が、傷付かないとでも?」
「あ……!す、すまない、フローレンス。そこまで考えが至らなかった。僕はただ、領地を君との子供に継がせたかっただけで……」
「平気です、ポール様。ご心配頂き、ありがとうございます、リスノワール様」
「……別に。常識的な判断をしたまでです」
非常識な人達を相手にするのは疲れる。
もちろん、さっきのは彼女を心配してのことではない。あくまで私の意見を通すための方便だった。だが効果はあったようで、それ以上無益な要求をしてくることは無かった。
「では、リスノワールの言う通りにしよう。なにを名分としようか」
「私の身体に欠陥があって、子供が作れないことにしましょう。産めなくなるまで待つのも手ですが、両親や義両親に無駄な期待をさせ続けるのもどうかと思うので」
「良いのか?そこは僕が原因ということにしても構わないぞ」
「ええ。言い出したのは私ですから」
一々ずれた心遣いをしてくれる。まったく、こんなポンコツのどこに魅力を感じたのやら。
さて、合意は得られたのは良いとして、問題はどこから養子を取るかだ。教会からか、それとも民営孤児院からか。
「あの……養子になる子って、やっぱり貴族じゃないと駄目なんですか?」
考え込む私に、フローレンスさんが口を挟んだ。相変わらず何を考えているのか分からないが、意味の無い質問でもない。
「出自や血筋より、年齢が重要です。引き取った後で貴族教育を施すなら、幼子や赤子が望ましいと思います。あと、できれば男児がいいですね。女領主でも構いませんが、婿入りでも構わない子息を探すのは大変ですし、女はどうしても月の物で動けない日がありますから」
「では、民間の孤児院でも問題無いということでしょうか?」
「選択肢には入りますね」
「でしたら、私に心当たりがあります。昔馴染みが経営している孤児院があって――」
冷静に応対できたのは、ここまでだった。
「お断りします」
彼女の真っ当な提案を、私は最後まで聞くことが出来なかった。
込み上がる嫌悪感を抑えきれない。目の前の妊婦の口を、今すぐ縫い合わせてやりたい。そんな黒い願望を抑えるのに苦労した。
「ど、どうして……?」
「おい、どういう訳だ?孤児院から養子をとるべきだと言ったのは君だぞ。何故拒否する」
「調子に乗らないでください。提案が妥当で真っ当だとしても、フローレンスさんからは何も受け取りません。いえ、フローレンスさんだけではありません。100%の善意だろうと、無償の愛でも、貴方達からは一切受け取りません」
そもそも貴方達が真の愛などに目覚めたりしなければ、養子を取るかどうかで悩む必要すら無かったのだ。夫婦で領地運営に専念し、私は夫を支えながら子供を生み育て、血を分けた子や孫に囲まれた未来が待っていたはずなのだ。
その未来を全て破壊し、私を復讐者に仕立てたのは、お前達だ。特に婚約者を奪った元凶たる女が、現状打破に口出ししようとするな。反吐が出る。
「真の愛を知る貴方が、偽りの夫婦生活を送る私達を、手助けしてくださるとでも?それは傲慢が過ぎますよ」
「そ、そんな……私は、ただ……」
「言い訳ですか?どうぞ。何を言ったところで、婚約者を奪った立場である貴方の言葉が、正当化されることはありませんが」
「いい加減にしろ!!これ以上彼女の善意を踏み躙るな!!」
渾身の力で殴られたテーブルが悲鳴を上げ、その上に置かれていた調度品やカップが床へ落ちた。
「まさかここまで性根が腐っていたとはな!!形だけとはいえ、お前が俺の妻であることは、人生最大の汚点だ!!そもそもこの仮面夫婦の関係は、お前が望んだことではないか!!そんなに彼女の存在が不快ならば、今すぐにでも離婚して縁を切ってやる!!領地運営が軌道に乗った今、お前に頼る必要など無い!!どちらの領地も僕が統治すればいいことだ!!」
大きな音を立て、大声で圧倒すれば、相手が萎縮するとでも思っているのだろうか?それとも自分の言い分に、少しでも理があると思えばこその暴走か。
少女だった頃なら、これだけで震えあがっていたかもしれない。だが、今の私にとっては――
「どうやら大きな勘違いをされているようですね」
私は全ての憎しみと怒りをため息と共に吐き捨てて、床に落ちて割れたカップを拾い集めた。
「別に離婚されても構いませんよ。私は何も困りません」
「何……!?」
「むしろ、離婚されて困るのは貴方達でしょう」
私は拾い上げたカップの欠片を、丁寧にテーブルの上に置き直した。そしてその欠片の一つを私の近くに、そして二つを向こうの近くに置いた。
「確かに通常であれば、離婚した際に領地運営を引継ぐのは、次期領主であるポール様です。一方の私は同格貴族の娘であり、名実ともに領地の共同運営者ではありますが、書類上の役職としては領主補佐に過ぎません。現領主もまだご健在ですし、時期的にも今が離婚するには良い時期でしょう」
「分かっているじゃないか……!そうだ、今のお前は我々の障害だ!お前と離婚し、フローレンスと再婚すれば、お前は全てを失い、僕達は全てを手に出来る!!それが分かったら――」
「いいえ、言ったはずです。離婚されて困るのは、私ではないと。何故ならば……」
憎悪が指先から滴り落ちるのを感じながら、割れたカップの欠片をもう一つ向こう側へ置いた。
「――貴方達二人が、決定的な不貞の証拠を作ってしまったから」
「ッ!?」
「領地交換の条件は私達の結婚でしたが、そこには当然夫婦生活の継続が含まれています。しかし話し合いによる協議離婚ならまだしも、夫側の不貞行為による生活破綻となれば、相応の代償を支払うのは有責側です。父上がお怒りになるのはもちろんのこと、この不祥事はお義父様でも庇いきれないでしょう」
当然の流れとして、領地交換で発生した費用に対する、賠償請求訴訟も提起されることになる。さすがに全額とはいかないだろうが、その額は有責離婚で発生する慰謝料とは比較にならず、この二人に払える額ではない。下手をすれば交換した領地の返還騒ぎにすら発展しかねない重大事だ。
そうでなくとも、領民からの印象は地に落ち、これまで通りの運営は不可能だ。そんな状況で、まともな生活を送れるはずが無い。まず破滅する。この男も、婚約者を奪った女も。
「それでも離婚なさいますか?なさりたいなら、どうぞ離婚届の用紙をご持参ください。証人欄に、父上とお義父様の名前を書く勇気が、貴方にあればですが」
「き……貴様……!」
……これ以上は危険か。あまり追い詰め過ぎると、何をするか分かったものではない。
「ご安心ください。私から積極的に、貴方達を害することは絶対にありません。不貞行為を明かすこともしないとお約束します」
その一言に、ポール様は安堵するよりも戦慄を覚えたようだった。
「重ねて申し上げますが、私に離婚の意思はありませんし、御二人の生活を邪魔するつもりもありません。これまで通り過ごしていれば、何も変わらないのです。どうぞ、今後ともよき夫婦生活をお送りください。ただし――」
青い顔をしながら首を縦に振るフローレンスさんに対し、ポール様は握りこぶしを震わせたままだ。私は彼の不快な顔を視界から隠すように、カップの欠片を彼の顔面に突きつけた。
「公私ともに貴方達は加害者で、被害者は私なのです。私の幸福な未来を奪ったのは、夫である貴方と、夫を略奪した女です。その事実を貴方達が忘れた時、私は貴方達の延命に手を貸すことをやめるでしょう。今の関係を維持出来ているのは、私の不断の努力と忍耐によるものであることを、努々お忘れなきように」
ポール様は最後まで頷かないまま、震えるフローレンスさんと共に屋敷を出た。その敵意ある目が、何よりも物語っている。
いつか、お前を殺してやると。
……殺してやりたいのはお互い様だ。しかし私の復讐は、ただ相手を痛めつけたり、破滅させることが目的ではない。軽率な行動で、一人の人生を狂わせてしまったことを自覚させ、後悔させることで初めて達成されるのだ。
そのために必要な舞台は、ここではない。役者もまだ揃っていない中、ここで離婚して破滅させるつもりもない。
やるのは、まだ先。彼らが全てを失い、悔い改めても遅いと気付く、その時にこそ。
私は床に残ったカップの欠片と、壊れてしまった調度品を丁寧に拾い上げた。破片によって傷ついた私の指からは、赤く細い血液が流れ出ていた。
――この数カ月後、私とポール様は偽りの診断書を手に、お義父様の屋敷へと赴いた。診断書には、私が石女であることが端的に記録されている。口が堅いことで有名な町医者に、金を上積みして書かせたものだった。
今、この屋敷には両家の両親も揃っている。目的はもちろん、診断書の内容を両家に説明するためだ。ただし、まだ両家とも呼び集められた理由を、詳しくは知らない。
「こうして全員で顔を合わせるのも、久しぶりだな」
「そうだな。お互いに引退したら、また釣りにでも行こう」
両家の和やかな談笑は、却って私の神経を削り取っていった。私はこれから、善良な彼らが確実に悲しみ、あるいは怒りを覚えるような嘘をつくのだ。愚かな浮気者達の平穏と、私自身の復讐を成就させるためだけのために。
その復讐対象の男の顔は、共犯者でありながら被害者であるような、卑屈なものを浮かべている。しかしそれ以上に彼の顔はやつれ、声は掠れきっていた。
「先日、フローレンスが出産した。健康的な男児だった」
「そうですか」
「……それだけか」
「それ以上に何が?まさか好きでもないばかりか、憎いばかりの私から祝われたい訳でもありませんでしょうに」
思わず手が腹部に伸びた。ここに宿るはずだった命。今後宿ることのない命。その命に見合うだけの何かを、私は成しえるのだろうか。
……成しえるわけがない。隣の男に対する復讐を成就させる程度の些末事が、私が母になることを放棄することと、釣り合うはずがないのだ。ならばいっそ、この場ですべてを――
「やっぱり君は、すべてを知っていたのか?」
……は?
「なんの話ですか?」
「すべてを知っていて、僕達を泳がせたのかと聞いているんだ」
私に知られたくなくて、コソコソ浮気行為に勤しんでいたのは貴方達の方だろう。それを言うに事欠いて泳がせたとは、言いがかりも良いところだ。
「意味が分かりませんし、大変不愉快な決めつけですね。私は裏切られたあの日まで、貴方のことを信じていました。泳がせたのではなく、貴方達が隠れて泳いでいただけです。その結果責任まで私に求められるのは迷惑です」
「……そう、だな」
「そもそも全てを知っていたなら、貴方から婚約破棄を打診されるより前に、彼女との交際を止めるよう忠告していました。尤も、貴方が聞き入れたとも思えませんが」
「……そうか」
「ご心配なさらずとも、外で子供が生まれたことは秘密にしますよ」
「いや……その心配はしていない」
じゃあなんなんだ。何を言いたいのか全く分からない。真に愛する女性との間に、健康的な子供が生まれたなら、その幸せを享受すればいいだけだろうに。
私の方こそ、こんな男に構っている余裕などないのだ。愛する家族を騙し続ける未来を想像して、昨晩どれほど思い悩んだか、破滅するだけで良い男には分かるまい。
「二人とも、どうしたの?顔色が悪いわよ」
顔色が最悪なのは男の方だったに違いないが、私も平静だったとは言い難い。普段から人の顔をよく観察している義母に、内心の憂慮を隠すことなんて出来なかった。
「……大丈夫です、お義母様。これからお話しすることを思うと、気が重くて」
落ち着け。深呼吸をしろ。一気に言い切ってしまえば、きっと大丈夫だ。
人生最大にして最悪の嘘を吐く覚悟を決めた私の心臓は、今にも爆発してしまいそうだった。叫び出したくなるのを必死に堪え、平静を装う努力を重ねながら、手元の診断書を読み上げた。
返ってきたのは、罵声でも、罵詈雑言でもなく、沈黙とすすり泣き声だった。
私が子を生せないと打ち明けた時の、両親と義両親の落胆は大きかった。二人の母は泣き崩れ、父は私を慰めるように抱擁し、いつも微笑んでいる義父もまた、私のために涙を流した。
それを見たポール様の表情は、壮絶を極めていた。
「それは……とても辛かったね。だが子供というものは、血の繋がりだけで結び付くものではないし、子を生せないことで君の価値が損なわれた訳でもないよ。あまり、気を落とさないように」
「気持ちの整理が付いたら、養子縁組も考えると良い。必要なことがあれば、なんでも手伝おう」
私は一瞬、反応に窮した。政略結婚で一番期待されるのは、当然のことながらお世継ぎである。それも可能な限り優秀で、男子であることが望ましい。
その常識を、二人の父は敢えて破り捨てて、私の心にただ寄り添ってくれていた。この家族ならばと納得できる気持ちと、その気持ちを利用している自分への嫌悪感が、何よりも私自身を責め立てた。
「ありがとうございます。でも実は、もう養子の話は進んでおりまして。まだ二歳ですが、元気で素直な、お勉強熱心な男の子です。きっと将来、立派な伯爵子息になってくれることでしょう」
「なんと……!」
私が既に養子縁組を進めていると知り、ポール様を除く全員が驚愕した。二人の母は更に多くの涙を流しながら微笑み、二人の父の目にも滲むものがあった。
「今一番つらいのは貴方でしょうに、なんて気丈で、責任感の強い娘なのかしら……!ありがとう、リスノワールさん。貴方を義娘と呼べることを、誇りに思うわ」
「私も同じ気持ちよ。その子を迎えられたら、私達にも見せて頂戴ね。貴方の子供は、私達の孫になるんだから」
「ありがとうございます、お義母様、お母様」
善良な貴方達を騙している自分を、許してほしいとは言えません。
でも……ごめんなさい。
ごめんなさい。
ただ、心の中で謝罪を続けることだけは、どうかお許しください。
その後は私の心を慰めるための食事会となった。暗い雰囲気で始まった食事会だったが、私が思ったよりも未来を悲観していないと感じた家族は、必要以上に言葉を重ねたりはしなかった。むしろ養子となる男の子のことを聞かれ、歓迎ムードとなったことで私の心も軽くなり、一瞬だけ復讐のことを忘れることができた。
「名前は決まっているの?」
「ポール様と相談して、私が名付けることになりました。名前は、カルーナにしようかと」
「カルーナ……自立、か。まさに君たちの子供に相応しい意味を持つ名前だね」
「素敵な名前だわ。育児で困ったことがあれば、なんでも相談してね」
「はい、お義母様」
後ろめたさと同時に、頼もしさと愛おしさすら感じる家族に囲まれた私は、きっと独りでも領地運営を続けることができるだろう。そう確信できる食事会だった。
一方のポール様は、そんな温かな祝福の中にあってさえ、ほぼ無言だった。出された食事や酒にさえ手を付けず、どこか遠くを見つめたまま、適当な返事をただ繰り返していた。
明らかに様子のおかしいポール様だったが、その理由が明かされたのは、それから何年も経過してからだった。
カルーナを引き取ってからの日々は、とても忙しくも充実していた。至極当たり前の流れだったが、カルーナは主に私と一緒に暮らすこととなった。本来父と呼ぶべき存在の隣には、母と呼ぶべきでない女と子供がおり、貴族教育を施す環境として明らかに不適だったのだ。
目の前で私のことを「ははうえ」と慕う男児は、血の繋がりを考えさせないほど可愛かった。悪さをすれば叱り、成功したことは何でも褒めた。一応の父親とは、お義父様が訪問する時だけ顔を合わせるのみであり、数年が経過してもどこか他人行儀のままだった。
それでも聡明なカルーナは、名目上の父親を蔑ろにはしなかった。私達の態度を見れば、何かあることは察していただろうに、そのことには触れないでくれていた。なんとも子供離れした感性と判断だと思うが、その聡明さは貴族社会において必須とも言えるスキルでもあった。
ちょっとマセたようにも見えるその才能は、家族の心を射止めることにも成功していた。それはあのお義父様が、次期領主であるはずのポール様を差し置いて、カルーナが統治する未来を夢想するほどだった。
その夢想する未来こそ、あの男を絶望の底に落とすものであり、私の復讐の核であるとも知らずに。
そしてカルーナがあっという間に十二歳の誕生日を迎え、私も伯爵夫人というより女領主としての貫禄を備え始めた頃。ポール様との運営会議も年に数回という頻度にまで減り、今日は今年一回目の貴重な会議の日だった。一回目にして、すでに初夏の虫が鳴き始めていたが。
「――では鉄鉱石と木材の関税は、以上の額で調整する方向でよろしいですね?」
「ああ」
「では、これで議題は一通り解決しましたね。私はこれで失礼いたします」
予め話し合うことを決めていたため、この日の会議もごく短時間で終わった。余暇の時間をカルーナと共に過ごそうと思い、席を立った時に声が掛かった。
「……リスノワール」
言うまでも無くポール様の声だったが、その陰気は極みに達していた。幽鬼と言っても過言ではない。
「話がある」
「私からはありません」
「頼む、聞いてくれ。フローレンスと、アルフレッドのことなんだ」
「アルフレッド?……ああ」
追い縋るような目が、ただただ不快だった。なおアルフレッドとは、この男の血を引いた息子の名前だ。興味が無いので、この男の口から出てくるまでは毎度忘れてしまうのだが。
「でしたら猶更、話すことなどありませんでしょう。下手に私が絡めば、貴方達の夫婦生活が破綻しますよ?それはお互いに望むものではないはずです」
「いや……その……」
埃を蹴散らすように追い払う私だったが、内心では復讐の成就が目前であることを確信し、自分でも醜悪と分かる笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
「アルフレッド君とポール様に、血縁関係がありませんでしたか?」
「ッ!!!」
やはり図星か。だがこの程度のことは、ちょっと調べれば分かることだ。
「な……んで……それを!?」
「十年前でしたか、私が子供を産めないという、虚偽の診断書を披露したのは。あの日の貴方の様子があまりにおかしかったので、調べさせてみたんですよ。私が期待したのは、そちらの疑似夫婦生活の破綻だったんですが……まさか、彼女の不貞を知ることになるとは」
「知っていて、教えてくれなかったのか!?」
「言える訳が無いでしょう?言えばお二人の邪魔をすることになりますから」
「なっ……!?」
あの日、家族の温かさに触れた私は、ほんの少しだけこの男のことを考える余裕が生まれていた。そして様子がおかしい彼の周辺調査を依頼し、その結果を聞いた時、敢えて離婚をしなかった私の判断が正しかったことを確信していた。
「アルフレッド君の父親と思しき男性について、私の方では答えが出ています。ですがポール様も……すでに察しがついているご様子ですね?」
「あ、ああ……僕も僕で調べたからな……」
ならば話は早い。お互いに出し渋らず、答え合わせをしようじゃないか。
「フローレンスさんが出産された子は、孤児院を経営する昔馴染みとの子でしょうね。貴方と一生を共にすると誓った後も、彼女は昔馴染みと密通を繰り返していた。そうですね?」
「……っ」
「いや、たぶん逆ですね。ポール様がフローレンスさんを見初めた時、すでに彼女の心には昔馴染みがいた。貴方が後から現れて、貴族の財力にものを言わせて、困窮する彼女を救った」
私があの女に感じた違和感。それは私が養子縁組を考えている時に、やけに積極的に絡んできたこと。あの時は、私の未来を勝手に決めつけようとしたことへの怒りもあったが、それ以上に何故彼女がそこまで私を気にするのかが分からなかった。
だが、孤児院の院長と繋がっているならば話は簡単だ。孤児院から次期領主候補が輩出されたとなれば、当然その施設は注目される。大量の孤児が預けられる可能性もあるが、それ以上に貴族からの引き取り手が増える見込みが高い。同じ孤児院からの出身者という名目で、次期領主候補に接近するチャンスが生まれるからだ。
それは間接的にではあるが、院長の立場と人脈を強化するのに役立つはずだった。
まあ結果的に、私はその可能性を徹底的に排除していたため、彼女のささやかな希望が叶うことは無かったのだが。
「彼女が困窮していた原因にも、もう当たりがついているのではないですか?」
「……恐らく僕に出会う前から、生活費の一部を孤児院に寄付していたからだろう」
「ええ、そうですね。そしてその寄付は、今も続いている。もちろん、貴方からお預かりした生活費から」
「……っ」
「そう、アルフレッド君が生まれてからも、ずっと続けていた。彼女も律儀というか、実に献身的ですね。いえ、一途と言った方が良いのでしょうか」
その一途に愛する男がいながら、別の男と結婚しようとする精神は、まったく理解しがたいが。
彼が今感じているものは、愛するフローレンスさんに裏切られていたことに対する怒りか、それとも裏切られていたことに気付かなかった自分への怒りか。握りしめる手は自らの爪によって傷付き、血を滲ませていた。
だがそこに、私を裏切ったことへの悔恨と反省はあるのだろうか。前者はともかく、後者は期待できないだろう。人を裏切る人間は、根本的な部分で利己的なのだ。
「……十年前、生まれた赤ん坊の顔を見た瞬間に、違和感を覚えたんだ。僕と同じ髪色、同じ目の色をしているのに、僕に似ていない気がした。それでも最初は、まだ乳児だから分からないだけだと……フローレンスが頼れるのは自分だけなのだと、自分に言い聞かせ、奮い立たせていた」
「結構なことですね」
「……だけど……君が不妊であると発表した日、父の屋敷で見た光景を見て、僕は愕然としたんだ。一人で頑張っているのは、僕だけなのかと」
「というと?」
嗤いたい気持ちと罵声を浴びせたい気持ちが内心で暴れまわり、平静を装うのに苦労した。この男の孤独は、婚約者を裏切った自らが招いたことで、極めて自然な成り行きだ。それをさぞ人生の重大事であるかのように独白する姿が憎らしく、滑稽で、哀れだった。
「あの日、君が血の繋がりが無い養子を迎えることに、家族は全面的に賛成していたな。子を生せない君を軽蔑するどころか、家族全員で支えようとしていた。一方で僕はどうだ。正統な血を引いた長男がいるというのに、それを家族に明かすことも出来ない。誰からの支えも、理解も得られない。たった一人で、妻子を護らないといけなかったんだ」
思わず鼻で笑い飛ばしたくなった。あまりにも馬鹿げた弱音だ。吐く相手さえも間違えている。
「そうお考えになったなら、愛する彼女に胸の内を打ち明ければよかったでしょうに」
「打ち明けたさ……そしたら彼女は、どんな困難でも一緒に乗り越えようと言ってくれた。だが元々困窮していた彼女に出来ることなんて知れている。生活費も、出産費用も、殆ど僕が負担しているんだ。そう考えたら……僕はとんでもない間違いを犯しているんじゃないかって思えてきたんだ」
人を平気な顔で裏切っておいて、自分が裏切られたらこのざまだ。自分がどれだけ最低な発言をしているのかにすら気付いていない。
馬鹿にされたものだ。フローレンスさんも、私も、家族も。まあ彼女は共犯に近い立場だから、同情の余地は無いが。
「ずっと彼女のために頑張ってきたんだ。必死に。だが……だが、それを知っていながら、彼女は……!」
「フローレンス様にとって、ポール様は良い財布だったわけですね」
そろそろいいだろう。この長く下らない茶番劇の主役達に、引導を渡してやる。
「……」
「渡したプレゼントも幾つか無くなっているのでは?たぶんもう売却されて、売上金は孤児院に寄付されているのでしょうね」
「……そうだろうな」
「そういえば院長の髪色と目の色は、ポール様と同じらしいですね。もし違う色だったら、フローレンスさんはどうするおつもりだったのでしょうね」
そもそも、貴方を選んだかどうかさえ、怪しいものですが。
そう内心で呟いた直後、ポール様は私の前で這いつくばり、額を床にこすりつけた。
「僕が……僕が悪かった!!どうか許してくれ!!」
その後頭部に足をのせる欲求を、私はかろうじて抑え込んだ。まだだ。まだ彼を楽にするつもりはない。
「何がどう悪かったと?」
「僕が愚かだった……!僕があの女に惑わされたりしなければ!君との婚約を破棄しようとせず、健全な夫婦生活を送ってさえいれば、こんなことにはならなかった!どうか、どうか許してくれ!!この通りだ!!」
私に対して殺意すら向けていた男が、私に許しを乞うている。その光景は、思わず嗤いたくなるほどの快楽と、吐き捨てたくなるほどの不快感を伴った。
「おかしな謝罪ですね。別に謝らずとも、私たちはずっと前から夫婦ではありませんか」
「リスノワール……君は……!」
「はい。私たちはこれからも――」
――未来永劫、書類上の夫婦関係ですわ。
「……え?」
「だって、そうではありませんか。私たちは婚約を履行した。私は貴方達の関係を認め、絶対に邪魔をしないという約束も守り続けている。私は全て、貴方の望み通りにしてきました。これ以上、何を求めるというのですか?」
「そんな、待ってくれ!僕に、僕にもう一度だけチャンスを!!あの女に惑わされた哀れな僕に、やり直すチャンスを与えてくれ!!この通りだから!!」
やり直す?馬鹿を言うな。勝手に始めて、勝手に失敗しておいて、今更やり直したいなどと。そんな身勝手な希望が、通る訳が無いじゃないか。
「自らの非をお認めになるのですね」
「そうだ、僕が全部悪かったんだ!!だから!!」
「いいでしょう。では、貴方に最初で最後のチャンスを差し上げます」
完全に主従関係が逆転したことを確信した私は、まずはこの男の介錯をする決意した。私の復讐は、この後で全て成就することになるだろう。
何故ならこの計画は、離婚をしなかった時点で既に勝ちが確定しているのだから。
偽りの希望で紅潮する男を直視する苦痛を無視して、私は見下したまま告げた。
「私とポール様がやり直す条件……それは貴方が自らの過ちを、自らの手で家族に明かし、謝罪することです」
「なっ……!?そ、そんなことをしたら!?」
大したことを言ったわけでもないのに、男の顔は再び青ざめた。彼は分かっているのだ。長年に渡って私を裏切り、親族を裏切り続けてきた報いが、生半可なものではないことを。
少なくとも次期領主の座は諦めるしかない。どう転んだとしても、これまでの生活は終わりを迎えることになる。
「ええ、貴方は社会的に終わります。でも考えようによっては、破格の条件でしょう?貴方が誠心誠意、自らの罪を認め、女性関係を清算した後で罰を受け入れてくれたなら、貴方は罪を償うことに専念出来て、これ以上家族を裏切らずに済む。そして貴方をこんな窮地に陥れたあの女に、報いを与えることができる。万事が、良い方向に向かうのです」
「万事が……うまくいく……?」
「そうです。万事が、片付くのですよ」
今の彼に、冷静な判断をする余裕はない。彼が生き延びる唯一の道は、唯一の味方となりうるであろう、妻の私の言うことを聞くことだけなのだ。もちろん、そう考えているのはこの男だけであり、そう仕向けたのは私なのだが。
「さあ、ご決断ください。正道に戻るのか、これまで通り彼女から搾取される生活を送るのか。決めるのは私ではなく……ポール様ですよ」
彼が貴族でいられる最後の時間であろうと予感した私は、努めて優しく諭して差し上げた。
――その効果は、絶大だった。
「正道……そ、そうだ。僕は、次期領主になるんだ。僕の妻は、リスノワールじゃないか。こんな間違った状況は、すぐに正さないと……!」
その日の晩、彼は火急の用件として両家の両親を集めた。そして食事と酒が運ばれるより前に、全員の前で体を地面に這わせ、全身で謝罪したのである。
「皆様、大変申し訳ありませんでした!!」
突然、理由も一切明かさずに謝罪するポール様に対し、家族全員が困惑した。
「ど、どうしたのだポール君?領地運営で、大きな失敗でもしたのか?」
いち早く手を伸ばしたのは、私の父だった。一方のお義父様は驚きのあまり動けなかったようだが、ちらりと私の方を見た瞬間、顔をこわばらせた。
「顔を上げてくれたまえ。領地運営に失敗は付き物――」
「友よ、待ってくれ。恐らくはそうではない」
お義父様は、父の手をやんわりと抑えた。抑えたのが右手だったのは、その後の展開を予感したからか、それとも無意識からか。
「……ポール。心して答えよ」
「……はい!」
「まさかとは思うが、お前は……リスノワールさんに不義理を働いたのではないか?」
「何!?どういうことだ!?」
「交換領地の運営に問題があったなら、共同運営者であるリスノワールさんも謝罪するはずだ。それが無いということは、これはポール個人の問題なのだろう」
ポール様は、体を震わせたまま答えられずにいた。或いは返答をしようとしたのだが、喉が動かなくて失敗したのかもしれない。
「答えよ、ポール。お前は何をしたのだ?」
張り詰めた空間。そして沈黙。十年前と異なり、すすり泣きは聞こえず、ただポール様の自白を聞き逃すまいとする、厳しい時間だった。
「…………実は」
ポール様は、正直に白状した。全ては婚約中から始まっていたこと。自分は婚約破棄を要求したが、私が政略結婚の成立を優先して認めなかったこと。そして私が政略の維持を条件に、不倫生活を黙認していたこと。
私の不妊が、その不倫生活を継続させるための、嘘であったこと。
そして、自白を決意した理由が、不倫相手の裏切りであったことさえも、赤裸々に語り続けた。
「貴様ぁ!!」
「ヒィ!?」
本物の殺気を浴びたことで、ポール様は半泣きのまま失禁していた。私も父がここまで激昂するのを見たのは初めてで、身動き一つ取れなかった。
その父が腰に下げたサーベルを抜き放とうとしたのを、唯一動けたお義父上が制した。
「止めるな、友よ!!いくらお前の愛息といえど、この所業は許されん!!」
「大丈夫だ、私もこの男を許すつもりは無い。だが、今少し時間をくれ」
その声は、いつものお義父様だった。しかし父はその声でハッとしたように表情をこわばらせ、サーベルを鞘に納めた。
「ポール」
「は、はい、父上!!」
「女の名は?」
「フ、フローレンスです!」
「今どこにいる?」
「わ、私の別荘宅です!息子も一緒です!」
「そうか。お前は自らを救うために、あっさりと家族を売るのだな。残念だ」
「ひぃ!?そ、そんな!?」
「お前の領地運営権を剥奪し、書類、会合、その他の業務への関与と接触を禁ずる。これは即時命令だ」
父がサーベルを収めた理由が分かった。本気で怒ったお義父様は、サーベル以上に危険な男だからだ。怒りの純度が高過ぎて、その量と質を推し量れない。
「今すぐに離婚届を持ってきなさい。当然、お前の名前を記入しておくこと。買い与えた屋敷からは今日中に退居し、その別荘宅とやらで待機して、然るべき沙汰を待て。持ち出しは衣類と剣のみを許可し、宝飾品や金品の類は禁ずる。その後の連絡は代理人を介して行うので、そちらとやり取りをするように」
「お、お待ちください、父上!私が正直に話しましたのは、今後次期領主として正道を貫くためであって!!」
「次期領主はリスノワールさんと、彼女の息子カルーナが引き継ぐ。話を聞く限り、手腕は確かだ。お前は安心して、真の愛とやらを貫くと良い」
「父上!?ち、ちが……!リ、リスノワール!君からも言ってくれ!君は言った筈だ、ちゃんとすべてを明かせば、正道に戻れると!まともな夫婦関係に戻れると、そう言ってくれたじゃないか!君は僕を許してくれたじゃないかぁ!」
「き、貴様……!?娘にそこまで言わせたのか!?貴様の謝罪は、娘の優しさを当てにしてのことだったのか!!どこまで我々を馬鹿にすれば気が済むのだ!?」
「ひいいいい!?」
馬鹿な男だ。それを聞いた周りが、どう受け取るかなんて、子供でもわかることだろうに。
私は何も返答しなかった。そして軽蔑する気持ちを抑える必要さえもない。この男は、もう終わったのだ。
「口を慎め痴れ者が。これ以上、リスノワールさんを巻き込むな。そして私がお前に何を命じたか、もう忘れたのか?」
その手が初めて腰のサーベルに添えられたと同時に、ポール様は小便でズボンを濡らしたまま退室した。その後まもなくして、代理人を通じて記入済みの離婚届が送られてきた。
「リスノワールさん」
「……は、はいっ」
「君が領民の生活を優先し、愚息の裏切りを知りながらも政略成立に心砕いてくれていたこと、感謝の申し上げようもない。ありがとう。そして、気付いてやれなくて、本当にすまなかった」
「そんな……頭を上げてください、お義父様。私も政略のためとはいえ、不妊であると嘘を吐き、家族を欺きました。この罪は、一生をかけて償います。ですが……赦されるのであれば、これからもお義父様と呼ばせてください」
実際は政略のためではなく、この結末へ導くためだったのだが、その考えは墓の下まで持っていくことになるだろう。私の復讐対象は、あくまであの二人だ。それ以外の人達を害する気持ちは、微塵もない。
「おお、リスノワールさん……!すまない、本当にすまなかった……!」
「リスノワール。父親として、そして家族としてお前には色々と言いたいことがあるが……友の言う通り、これまで気付いてやれなかった私には、その資格が無い。だから敢えて、何も言わずにおこう」
「申し訳ありません、お父様」
「後のことは任せて、カルーナを大事にしてやりなさい。あの子が私達の可愛い孫である事実は変わらないのだから」
その言葉は、私の気持ちを前へ向けるのに十分だった。母と義母からも励ましの言葉を貰った私は、その後カルーナを招いて、その場で臨時の食事会を開いた。これまでの反省と、これからの発展を願っての食事会だった。
――三年後。
「おはようございます、母上」
書斎の前で、息子のカルーナが頭を下げている。その角度は完璧の一言で、いつ社交界へ出ても問題無いだろうことは、誰の目にも明らかだった。
「ええ、おはよう。今日からいよいよ学園生活ね」
「はい。いち早く母上の仕事をお手伝いできるよう、勉学に励みます」
「真面目なのは良い事だけど、学園は勉強をするための場ではないわ。学友との生活を楽しみなさい。気を付けて行ってくるのよ」
「はい、行って参ります」
堂々とした足取りで去っていく姿は、その出自が平民であることを一切感じさせない。もう彼は名実ともに、立派な伯爵子息だった。
一方で私は、二人の前任領主から全権を引き継ぎ、既に正式な新領主として働いていた。私の隣にパートナーはおらず、息子と数名の執事や侍女、そして秘書がいるだけだった。
その若き秘書が、数枚の書類を届けてきた。丁寧に運んでいるが、書類そのものの粗末さは隠せていない。
「奥様、いつものお手紙が届いております」
「ありがとう。一人で読むから、しばらく書斎に人を通さないで頂戴ね」
「はい」
私はその手紙を受け取ると、書斎机の上で適当に開封し、中身を確かめた。雑に切った訳でもないのに、それだけで手紙の一部が破損した。製紙ではなく、低品質な羊皮紙だったため、元々かなりボロボロだったのだ。
「遂にまともな手紙を見繕う余裕すら無くなったわけね」
その羊皮紙には、ペンではなく木炭を押し付けて書いたのであろう、粗末な字が書かれていた。差出人は、私の元夫である。
……三年前、あの男に自滅の道を示した後、周囲は大変な騒ぎになった。
彼はその後も代理人を介して許しを請うたが、彼に対して同情する者は一人としていなかった。許しを貰うには、不貞行為の期間が余りにも長過ぎ、そして悪質を極めていたからだ。
そしてもう一人の復讐対象であるフローレンスさんも、それから間もなく地獄の日々が始まった。
爵位と仕事を失ったポール様は、彼女の不貞と裏切りを大変責め立てたようだ。心当たりが十分過ぎる程あった彼女は、何も反論できず、ただ木人の如く詰られる他無かったらしい。
しかし少々意外だったのだが、彼女は息子をポール様との間に出来た子供だと、本気で信じていたようなのだ。血縁関係が無い事実を知った彼女は取り乱し、あろうことか精神を病んだ。彼女がポール様へ真の愛を感じていたというのは、皮肉にも本当だったらしい。
過去に送られてきた手紙には、彼女と昔馴染みとの関係が泥臭く陰惨なものであったこととか、その孤児院の院長へ慰謝料請求したとか、様々な情報が書かれていた。そのどれもが、聞いてもいないことを一方的に書いて送られてきたものだった。
わざわざ他人へ窮状を知らせてくる精神性は、私には理解できない。もしかしたら私への贖罪のつもりかもしれないが、単に貴族の生活が忘れられず、関係性が途切れるのを恐れているだけかもしれない。
今日送られてきた手紙には、彼女の精神がやや安定してきた一方、息子が経済的事情で入学出来ず、若くして働きに出たことが書かれていた。
「……そう。確か、カルーナと歳が近かったはずよね」
今のところ、アルフレッドと呼ばれる少年が悪さをしたという話は聞かない。品行方正のまま社会貢献をするなら、あくまで一人の領民として正当に扱い、邪魔はしないでやろうと思う。
手紙の最後は、もう羊皮紙を買う余裕さえも無いなどという泣き言で締め括られていた。それが如何にも彼らしく、ささくれだった神経を逆なでした。
私は羊皮紙に火を点けると、そのまま暖炉へと投げ込んだ。あまりにも品質が悪く、湿気っていたのもあってか、製紙のように激しく燃え上がらなかった。白煙を上げ、のたうち回る気力さえも無いかのように、ただじっくりと種火に炙られ続けている。その火は今にも消えそうなほど小さく、暖炉の中を灯すことさえも出来ないでいた。
……情熱から熱が奪われた時、彼に残されたものは情と、しがらみだけのようだった。哀れで、愚かだが、今は滑稽とまでは思えなかった。
私は裏切られたことへの復讐のために、人生をかけて彼を切り捨てた。でも――
「――彼は地獄へ堕ちても、彼を裏切った女と、その息子を捨てなかった訳ね。その情の深さだけは、認めてあげてもいいわ。絶対に許してあげないけども」
暖炉の中の羊皮紙は、未だに白煙を上げて燃え続けている。延々と無意味に燻る姿に、あの男の姿が重なったが、不思議と苛立ちは感じなかった。
最大の復讐は、積極的に攻撃することじゃなくて、「助けてほしい時に助けてやらないこと」じゃないかと思います。