10:記憶と呪い
行平が相沢創司とはじめて会ったのは、交番勤務を経て所轄の刑事課に配属された日だった。五年前の春のことである。
不可思議を視る行平の右手は、様々なものを視た。事件の重要証拠を掴んだこともあれば、知る必要のなかった不正を認知することもあった。
情報源のあやふやな、だが、的確にモノを挙げる行平は、「死神」や「疫病神」と揶揄されたこともあった。裏組織との癒着を疑われていたことも知っている。
そのなかで、ずっと行平に対して「普通」だったのは、相沢だけだった。行平の右手の秘密を知ったときも、使えるものはうまく利用しろよと言っただけで。だから、信用できると思ったのだ。この人は。
なにを考えているのかはわからないが、それでも誠実だと信じたのだ。
だから、だから。二つ返事で請け負った。感謝をしていたからだ。このビルの管理人をやらないかと警察を辞した直後に話を貰ったときも。化け物ばかりだけどな、と彼が笑ったときも。
壁にかかる時計は午前一時を指していた。犬は寝ている。永原悠からの返信を最後に確認し、行平は事務所のドアを開けた。
「いたのか」
そう言いつつも、内実はあまり驚いていなかった。事務所を出てすぐの階段に通じる廊下にもたれていた影がゆっくりと動く。
「行くの? 滝川さん」
「おかげさまで会えそうなんだ。例の呪殺屋に」
「着いていってあげようか」
しゃらん、と呪殺屋の錫杖が揺れる。着いてくるつもりだったのか、呪殺屋はしっかりと法衣を身に纏っていた。薄暗闇の中、呪殺屋の瞳が猫のように光る。
「大丈夫だ」
自身に言い聞かせる調子でもって、行平は断言した。
「来なくていい」
「いいの。俺に頼らなくて」
数瞬の沈黙のあと、呪殺屋が唇をゆるくつり上げる。行平にできることはたかが知れている。そう告げられているのと同じだと思った。
「呪殺屋」
不服を示す代わりに、行平は静かに息を吐いた。
「可哀そうだろう。いつまでも禍根を抱えたまま、生きていくのは」
それは、永原悠のことであったし、今日すれ違った少女のことでもあった。行平自身のことでもあったかもしれない。
「それを少しでも薄めてやれるのなら、俺は手助けをしてやりたい。それに、これ以上、負の連鎖が続いてほしくないんだ」
呪殺屋はただ行平を見上げていた。すべてを見透かすような、その瞳で。
「止められるものなら、止めてやりたいと思う。でも、これは俺の勝手な考えで、ついでに言うと、『呪殺屋』とやりあうつもりもない。だから」
一度言葉を区切り、行平は呪殺屋をまっすぐに見返した。
「おまえの、その力を頼りにするつもりはないんだ」
「本当に?」
探るように呪殺屋が笑う。試すような、だが、どこか不満もにじんでいるようなそれが、場違いに少し幼く見えて。行平も笑った。
「そうだな。じゃあ、代わりに、大丈夫だって言ってくれないか」
永原悠を止めた夜。迷う行平の背を押したのは、その声だった。
睨み合うように視線が絡んだのは一瞬だった。ふ、と呪殺屋の目元が笑む。仕方がないとでもいうように。
「それも一種の呪いだと思うよ、滝川さん」
「おまえなぁ……」
「冗談。いいよ、滝川さん。大丈夫だ、あんたなら。あんたは、滅多と見ない馬鹿だからね」
壁から呪殺屋が背を離した。そのまま上階へ戻ろうとする背に声をかける。
「おまえは毎回、毎回、人のことを馬鹿呼ばわりか」
「なぁに? 俺に褒めてほしかったの?」
たしかに、それはそれで気持ちが悪い。納得して、行平は肩をすくめた。
「行ってくる」
応じるていで、呪殺屋の白い手がひらりと揺れる。無言の見送りに、行平は階段に足をかけた。
あの日、行平を救ってくれた言葉があった。ぬくもりがあった。人は憎むばかりでは生きていくことはできない。希望があるから、生きていくことができる。
美しい顔は、この世のものでないように思えた。夏の夜のような濡れた髪が蝋燭の灯りに揺れる。
あどけなく唇が開いて、――最後の瞬間。彼女は、なんと言ったのだっただろうか。
――の……は……。
まるで陽炎だ。不詳に揺れる声は、行平の鼓膜の中で正確に再生されることはない。十五年も昔の記憶だからだろうか。
遠ざかる蜃気楼の中、少女の瞳が悲しそうに揺れた気がした。




