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愚者の園  作者: 木原あざみ
案件3.天狗の遠吠え
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21:八月十四日3

「お帰り、滝川さん。風邪って怖いね。なんかものすごく寒いんだけど」

「たぶん、まだまだ熱上がるぞ、おまえ」


 神妙な顔でベッドに転がっていた呪殺屋が、信じられないとばかりに布団を引っ張り上げる。夏用のタオルケットじゃ寒いとごねたので、行平が押し入れから引っ張り出したせんべい布団だ。


「この時期にインフルエンザってことはないだろうし、ただの風邪だろ、たぶん。水分とって寝てたら治るだろ、そのうち。……というか、おまえ、保険証持ってるのか」

「知らない」


 布団の下からの籠った声に、持ってないなと行平は溜息を零した。


「市役所、着いて行ってやろうか?」

「要らないし。っていうか、俺、戸籍ないし」

「戸籍? 住民票、実家から移してないってことか?」


 実家に置きっぱなしのまま、ふらふらと移住する人間が案外と多いことを行平は知っている。警察官だった折、住所不定の人間の数に驚いたのだ。『呪殺屋』はその典型かもしれない。


「いや……、うん、まぁ、それでいいや」


 もぞもぞと布団から頭を出した呪殺屋が、現実的なことを口にした。


「そもそも、絶対、保険つくるより、十割払ったほうが安いから」

「ただの風邪だったらそうかもな」

「ただの風邪だから病院なんて行かないから、問題ないの」

「なに、子どもみたいなこと言ってんだ、おまえは。ほら、プリン食うか?」


 コンビニ袋からプリンとスプーンを取り出して渡してやると、呪殺屋はしげしげと容器を眺め出した。


「ふぅん。病人はこういうのを食べるんだ」

「まぁ、家それぞれだろうけどな。おまえの家はどうだったんだ?」

「さぁ。俺、風邪引いたことなかったから」


 ぺり、とフィルムを捲って呪殺屋がスプーンを突き刺した。


「ぬるいし、これ」

「腹が冷えなくていいだろうが。味覚があるならなによりだ」

「そういう意味不明な優しさでぬるいの、これ。どうせ、誰かに捕まってたんじゃないの」


 風邪を引いていようがいまいが、呪殺屋の頭は通常運転らしい。


「なぁ、神野」


 ベッドの背もたれにもたれたまま、ちびちびとプリンを食べていた呪殺屋が、瞳を瞬かせた。


「こないだの賭け。アレ、全部、本当の話だろう」

「滝川さんが俺の名前を覚えていたことに驚いたな」

「神野」


 もう一度呼びかけると、呪殺屋が眉を上げた。


「さぁね、忘れちゃったな。昔の賭けの話だしね」

「おい」

「滝川さんもさ、いつまでも過去に固執してなくてもいいんじゃない?」


 呪殺屋の指先が緩慢にプリンを突き崩す。幼い子どもがするようなそれを、行平は黙って見ていた。


「もし、万が一、あんたの妹の居場所がわかるようなことがあれば、俺が絶対に助けてあげるよ」


 だから、と呪殺屋が呟いた。


「あんたはそのときまで忘れていていい」


 この部屋に、昨日までは『妹』がいた。呪殺屋が顔を上げる。なにも映し出していないような瞳が行平を捉えた。


「いつまでも忘れられないのは、苦しいだろう」


 この男に、そんな感慨があったのかと驚いた。

 サイドテーブルに置いていた袋から行平はショートケーキを取り出した。結局、ゼリーとプリンのほかに、これもレジに持って行ってしまったのだ。


「妹の誕生日は、毎年これだった」


 机に並ぶホールのケーキ。大きな苺の乗ったそれに妹は瞳を輝かせていた。

 生クリームの溶けかかった表面にプラスチックのフォークを突き刺し、口に放り込む。なんとも言えない甘さに行平は顔をしかめた。


「甘いな、これ」

「滝川さんは甘いの好きじゃなさそうだね」

 

 呪殺屋が微かに笑った。


「おまえ平気なら食うか?」

「……あんたの妹のケーキじゃないの、それ」


 不可解な顔をした呪殺屋に、行平はそっと笑った。祝いのケーキは、誰かと一緒に食べるから美味しいのだろう。


「前に言っただろ、俺も。忘れるつもりはないって」


 あんたの記憶を消してあげようか。嘯いた呪殺屋に、自分はそう応じたはずだ。


「でも、おまえも覚えていてくれるなら、俺は嬉しい。今日みたいな日だけでいい。たまに俺の昔話に付き合ってくれたら、たぶん、それだけで、俺は潰れずに歩いて行ける」

「ふぅん」


 含んだ雰囲気で呟くなり、呪殺屋はケーキの端をスプーンでさらった。そのまま口に放り込み、軽く眉をひそめる。


「甘いし、ぬるい。来年はせめて冷たいの用意しておいてよね」


 来年。その言葉に、行平は心が温かくなったことを自覚した。来年も、このビルに自分はいるのだろう、そうして、きっと、この男も。


「そうする」


 コンビニではなく、妹が好きだった店まで買いに行ってもいいかもしれない。まだ営業していただろうか。


「おまえは早く、治せよ、それ」


 どこか赤い顔の呪殺屋の頭を、弟にするかのようにぐしゃぐしゃと撫でる。呪殺屋は不本意な顔で、


「だから、全部あんたの所為なんだってば」


 と呟いた。


「あんたに出逢ってから、俺の人生、散々だよ」


 それはまた、大仰な。行平は笑って立ち上がった。クーラーを入れるなと厳命されている所為で、ひどく暑い。光に照らされた呪殺屋の髪は、純粋な黒色ではなく行平の目に映る。


「お互いさまなんじゃないのか、きっと」


 十五年前のあの日も、この髪は藍色に濡れていた。


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