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愚者の園  作者: 木原あざみ
案件3.天狗の遠吠え
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16:悔恨

「お兄ちゃん、こっちだよ」


 暑くはないのだろうか。真夏の山道を、妹は汗もかかず平然と歩いていた。行平が遅れそうになるたびに振り向いて、幼い手を差し伸べる。その手は、微かに透け始めていた。


「こっちだよ、あともうちょっと」


 妹がいなくなった場所だった。行平も何度とも知れず訪れた場所。街中から二時間ほど車を走らせたところにあるキャンプ場だった。

 人の手の入った林道を外れ、妹はどんどん道なき道を進んでいく。小さな妹の手を掴んで、行平は空を仰いだ。妹に着せたレインコートは最早意味をなしていない。レインコートだけがはっきりと浮いて見えているのだ。行平の頬を止めどなく雨水が伝っていく。

 山道を行くにまったく適していない、荒天。それなのに。ぬかるみに足をとられることもなく、妹は進んでいく。


「このみは、この道を歩いたのか? あの日も」

「そうだよ」


 衒いなく答えて、妹は笑った。


「今日はお兄ちゃんがいるから、このみちっとも寂しくないよ」


 もうちょっとだから頑張ってね。

 そう励ます妹の笑顔は、行平の記憶の底にあるものと、なんら変わりない。本物の妹でないことは、何度でも言うがわかっているのだ。知っている。

 けれど。すべてが偽物とは限らないのではないか、と。やはり思うのだ。例えば、もしかしたら、本物のこのみの思念をもとに造られたものではないか、だとか。このまま一緒に過ごしていれば、本物のこのみに変わるのではないのか、だとか。そんなことを、ずっと。行平は考えていた。


「お兄ちゃん?」


 立ち止まった行平に、このみが首を傾げる。心底不思議そうに。


 ――妹と、記憶にある妹と、寸分違わぬ声で「お兄ちゃん」と呼ばれるとどうしようもなかった。


「なんでもないよ」


 可愛くないわけなんてあるか。俺の所為かもしれないと後悔しなかった日など、あるものか。俺は。

 俺は、妹を助けてやりたかった。


「ねぇ、早く。お兄ちゃん。このみと一緒に来て?」


 降り止まない雨のせいだろうか。妹の笑顔が不意にぼやけた。ひとりは寂しいよ。妹の声が木霊する。

 そうだよな、寂しいよな。

 おまえ、甘えたがりだったもんな。なんで、俺はおまえの後を追ってやれなかったんだろう。ごめんな。ごめんな、このみ。

 小さな手は行平の目前に差し伸べられている。もう『妹』の形をとることすらできないのか、その手は半分透明になっていた。

 それでもいい。たしかに行平はそのとき思った。この妹だけでも救えるのなら、それでいい、と。思っていた。

 身体を打つ雨の冷たさも、淀む夏の湿気も。

 そのすべてが、消え去った気が、たしかにした。

 妹は笑っている。その笑顔が、好きだったんだ。守りたかったんだ。それは、兄として当たり前の感情だと思っていたんだ。


 ――それは、あんたの妹でもなんでもない。


 ふと脳裏に過ったのは、いつかの呪殺屋の台詞だった。

 違う。いや、違わない。ただ、それでもいいと願ったのが、俺だった。


「お兄ちゃん」


 妹の声が脳を揺さぶる。行平の指先が妹のそれに触れかけた瞬間。

 雨の音が耳に届いた。夏の湿度も。蝉の声も。

 そして、――鐘の音がした。

 行平を揺さぶる、澄んだ錫杖の、音。


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