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愚者の園  作者: 木原あざみ
案件3.天狗の遠吠え
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07:探偵と呪殺屋

「雨がすごいね」


 事務所のソファに大人しく座っていたこのみが、ぽつりと呟いた。幼い瞳は行平の背の奥の窓を見ている。

 窓を叩く雨音の強さに、行平も視線を外に向けた。遠くでは雷が光っている。行平が子どもだったころと違い、夏の涼やかな夕立というよりも南国のスコールに近いそれだ。


「わんちゃんのお散歩、できるかなぁ」


 このみにあまり懐かなかった犬は、犬一匹分の距離を置いてソファに座っている。その犬にこのみは視線を落とした。


「雨だもんね」

「あと一時間もしたら止むかもしれないぞ? 今日はこのみがリードを持ってみるか?」

「うーん、どうしようかなぁ」

「大丈夫。そいつならこのみでも負けないよ」


 八歳のこのみの腕にもすっぽり納まる大きさの犬である。暴れるようなこともない。行平は笑った。


「もちろん、俺も一緒に行くから」

「うん」


 否とも応ともなく頷いて、このみが小さな足を揺らす。この事務所に来てからというもの、このみは外に出かけたがらないのだ。

 子ども用の新しい服だけは一緒に買いに行ったものの、「これがいいの」と元々着ていた服を脱ごうともしない。


「うん」


 どうともとれる返事を繰り返すこのみの前に、行平は屈み込んだ。


「このみ」


 妹の幼い瞳に年を重ねた行平が映る。このみがゆっくりと首を傾げた。


「なぁに、お兄ちゃん」

「なにか、したいことあるか?」


 もし、妹が望むことがあるのなら、なんでもしてやれる自信が行平にはあった。妹の丸い瞳が、窺うように行平を見つめる。子ども特有の白い瞳はどこまでも綺麗だった。

 世界から音が消えたように、雨音が消える。ガチャンと粗雑な音が鳴ったのは、このみがなにかを話そうとした瞬間だった。しゃん、しゃん、と鈴の音のような音が響く。


 ――錫杖、だ。


 瞳をぱしりと瞬かせたこのみが、ソファから立ち上がった。ぱっと行平の背後に隠れる。入口に現れた脅威から逃れるように。


「呪殺屋」


 ついていた膝を浮かせ、行平は立ち上がった。小さな手が行平のシャツを握っていることに気づき、その手を握りしめる。

 いつもの笑顔をどこに捨て去ったのか、呪殺屋はひどく不機嫌な顔をしていた。この雨にやられたのか、いつもの法衣ではなく藍色の着流しを引っかけている。だが、肩にかけられた錫杖は、いつもどおりだった。問題があるとすれば、濡れそぼったままの髪の毛くらいのものである。


「滝川さん」


 不愛想な声だった。呪殺屋の険のある視線が行平から、行平の背後へと移り変わる。タンと短い音を立てて床に突き立った錫杖は、エアコンの微風しかないはずの空間で、不思議と鳴り続けていた。

 まるで、あの夜みたいだ。


「呪殺屋」


 否定したくて、行平は語気を強めた。


「それ、止めろ。近所迷惑だろ」

「この階にはあんたの部屋しかないだろう」


 呪殺屋が鼻を鳴らした。


「それに」


 行平の背後を射抜いた視線が緩慢に動き、行平を捉える。


「これは俺の意思で鳴らしているものじゃない。あんたもご存知の通りだ」


 呪殺屋の台詞に応えるように、錫杖は鳴り響いている。頭が痛くなりそうな音だった。ひどく耳障りな。

 知らず行平は妹の手を握る指先に力を込めた。


「滝川さん」


 行平の行動にか、顔をしかめた呪殺屋が前髪をかきやる。錫杖は鳴りやまない。


「この世には持っていて良いものと駄目なものがある。それは、駄目なものだ」

「意味がわからない」


 喘ぐように応じた行平に、呪殺屋は嘆息した。


「わかってるくせに。それとも、それの前で、俺に全部を言わせたいの?」

「悪いが、今日は帰ってくれ。客がいる」


 妹が、いる。呪殺屋に逢わせるわけにはいかない、妹がいる。呪殺屋は「そうだね」とようやく笑んでみせた。悪魔的な笑みだ。


「招いたら駄目な客が、ね」


 呪殺屋は行平から視線を逸らさない。逸らしたのは、行平のほうだった。

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