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愚者の園  作者: 木原あざみ
案件3.天狗の遠吠え
26/61

02:探偵と大家

 一週間後の八月一四日、妹は二十四歳になる。


 警察署に駆け込むやいなや、行平は待ち構えていた相沢に腕を掴まれた。いつもであれば、汗臭いだのなんだのと軽口を飛ばしただろうに、彼の口は真一文字に結ばれている。

 効きすぎているきらいのある空調に、行平は眼を眇めた。


「妹は、靴を履いていましたか」

「あ? あぁ、履いていたぞ、両方とも」


 会う前から『妹』と断定している行平に、か。あるいは、不可思議な質問に、か。相沢が怪訝な視線を寄こす。


「そうですか」


 応じたきり黙り込んだ行平に、「保護室だ」と相沢は行先を告げた。この人に限って自分に根負けしたわけではないだろうが、今はなにを言っても無駄と判断した可能性は高い。

 連れられて歩きながら、行平はそっと一度息を吐いた。

 妹の靴の片方は、十五年前に見つかっている。どうしたって人間には登れないような天狗岩の上で。その靴は、今も警察署内に資料として保管されているはずである。

 保護室からは、相手をしているらしい婦警の声が漏れ聞こえていた。このドアの奥に妹がいる。力の入った行平の肩を相沢が叩いた。


「滝川このみと名乗ったのは本人だ。姿かたちも行方不明当時のおまえの妹によく似ている。八歳だと申告しているのに、今が令和だと知っている」

「開けてもいいですか」

「おまえの妹だとは限らない」

「開けてもいいですか」


 繰り返した行平に、相沢はそれ以上を説かずドアを叩いた。中から顔を出した婦警が、行平を見止めて僅かに驚いた色を見せる。

 行平の記憶にはないが、もしかすると同じ署内で働いていたのかもしれない。けれど、そんなことはどうでもよかった。


「ちょっと席を外してくれるかな。親戚の方がみえたから」


 なぜ、兄と言わないのか。些細な言葉尻に苛立つ心を自覚しながらも、婦警と入れ違いに中に入る。


「このみ」


 認識するよりも早く、その呼び名が口をついていた。


「このみ!」


 長い髪をふたつに結んだ少女は、長椅子に腰かけて紙パックのジュースを握りしめていた。色あせていないジャンバーもスカートも、靴も、すべて妹のものだった。見間違えるはずがない。見間違えるはずがないのだ。

 少女の丸い瞳が一段と丸くなり行平を見た。そうして、笑む。心底嬉しそうに。


「お兄ちゃん!」


 少女が立ち上がる。ぴょこんとリズムをつけて椅子から下りる仕草に、あぁ、と胸がいっぱいになった。妹だ。妹だった。

 入口で固まっていた脚がようやく動き出す。小さな身体を力いっぱい抱きしめる。温かかった。


「痛いよ、お兄ちゃん」


 くすぐったそうに妹が笑う。甘えた調子の高い声も、ずっとずっと耳の奥に残っていたものだった。

 顔が見たくて、そっと腕の力を緩める。自然と顔を上げた妹と、息が触れそうな近距離で向かい合う。子ども特有の白い瞳が行平を見上げていた。


「このみ」


 今までどこにいたのだ、とか。大丈夫だったのか、だとか、なにがあったのか、だとか。

 訊くべき言葉のすべてを呑み込む。なにを言えばいいのか、言うべきでないのか。なにひとつわからないまま、行平はただ呻いた。


「おかえり、このみ」


 ずっとずっと言いたかった台詞だった。十五年間、待っていた。

 妹が小さく目を瞬かせて破顔する。顔をくしゃくしゃにした、幼い笑顔。


「ただいま、お兄ちゃん」


 ずっと、待っていた。妹の帰りを。ただひたすら、待っていた。たまらなくなって行平はもう一度、妹を抱き込んだ。ほのかな温もりに、目の奥が熱くなる。

 母が好きだと言っていた太陽の匂いは、なぜかしなかった。それでも愛おしさが変わることはない。


「おまえの妹だって言うのか」


 保護室のドアを閉めて、外に出る。妹を置いて出たのは、相沢にそう問われるとわかっていたからだ。けれど、ドアの前から離れるつもりもない。

 深く息を吐いて、行平は顔を上げた。


「俺の妹だと思ったから、相沢さんは俺に連絡をくれたんじゃないんですか」

「仕方ないだろう」


 相沢が眉を上げた。


「俺が見つけたんじゃないんだ。保護者が現れない限り、迷子のままになっちまうだろうが」

「理由になってないですよ」


 苦笑しようとして失敗した。代わりに断言する。


「妹です。滝川このみです。間違いない」

「だったら、おまえの母親にも逢わせられるのか」


 相沢の見据える瞳に、行平は視線を足元に落とした。


「なぁ、滝川。おまえの妹の件は十五年前のヤマだろう。本来だったら、もう二十歳を超えているはずだ。その子どもが八歳のままの姿で現れて、二十六のおまえを一目で兄と視認した」

「それはっ……!」


 昔、縋るようにひたすらに眼を通した神隠しの伝承譚。行方知らずだった子どもが数年経って、行方不明になった当時と同じ姿で戻ってくる。いなくなっていたあいだの記憶はない。そんな記述を何度も読んだ。

 そうであってくれたらと、願っていた。


「おまえに都合がよすぎるんだ」


 溜息じみた声だった。行平は応えない。応えることができなかった。


「俺がおまえを呼んだのは、本物か、そうでないのかを判断してほしかったからだ」

「だから、本物の……本当の、妹です」

「本当に?」


 探るように相沢が目を細める。負けないように行平は目に力を込めた。だって、妹だと思ったのだ。信じることができたのだ。


「ただ、母に逢わせるのは、様子を見てからにしようと思います」

「それがいい」


 行平をじっくりと眺めたあと、相沢は言った。


「ついでに、呪殺屋に見てもらえばいい。おまえの『妹』が、本物なのか、そうでないのか」

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