01:ゆめのはなし
暗闇の中に、少女が一人立っている。どこが地面かもしれない深い深い闇の中。そうだと言うのに、少女の顔がはっきりと見えることが不思議だった。
――おにいちゃん。
ごく自然と甘えて響く舌足らずな声。何度も何度も思い返した妹の声だった。
――ねぇ、おにいちゃん。
ピンク色のジャンパーに白いフレアスカート。グレーのタイツに黒色のスニーカー。妹が好んだ組み合わせだ。妹が笑う。顔全体をくしゃりと歪めた幼い笑顔だった。ぷくぷくとした手のひらが、行平に向かってまっすぐに伸びる。
あの日も、妹はこの服を着ていた。トントンといつものようにつま先を鳴らして、手を振って。そして、二度と帰ってこなかった。
――ねぇ、おにいちゃん。
不意に妹から笑みが消え、真顔になる。
――どうして私は助けてくれなかったの?
そして、唐突にその顔が崩れた。
――あの子は助けたのに、どうしておにいちゃんの右手は、私を助けてくれなかったの?
目を開けた瞬間、おのれの手の甲が視界に飛び込んできた。なにかを求めるように天に突き出されたそれに、行平は小さく息を吐いた。力の抜けた右手がシーツに落ちる。
外はまだ暗い。明け放したままの窓から入り込む夏の温い夜風が、カーテンを軽く揺らしていた。パジャマ代わりのTシャツは、びっしょりと汗ばんでいる。一年の中で最も短いはずの夜さえも、まだ明けていない。
寝返りを打つ気にもなれず、行平はブランケットを跳ね除けて身を起こした。汗ばんだシャツを脱ぎ捨てて、前髪を後ろにかき上げる。警察官だったころには考えられない長さになっていると、今更になって気が付いた。
こんな長さになったのも、あのころ以来かもしれない。
夢見の所為か、いつもに増して感傷的になっている。そんな自身に苦笑して、行平は立ち上がった。
部屋の電気を点ける気になれないまま、暗闇に慣れた目で机の引き出しを漁る。たしか、まだ吸いさしが残っていたはずだ。
昔からの惰性で選んでいるラッキーストライク。見つけ出した箱から一本取り出して、窓辺へと足を向ける。カーテンを引いて、桟に肘を乗せた。
紫煙がゆっくりと夜の闇に溶けていく。あと数時間もすれば、ラジオ体操に向かう子どもたちの賑やかな声が聞こえてくるはずだ。
――あの少女はどうしているだろう。
覚えた疑念を打ち消すように、行平は煙草を呑んだ。鳴沢英佳は幸い両足の骨折だけで済んだらしく、後遺症も残らないだろうと聞いた。明島恭子の家に参ったらしいことも聞いた。
けれど、だからと言って、あの少女の心がすぐに晴れることはないのだろう。
まだ朝は来ない。誰もいない暗がりで、行平はゆっくりと息を吐き出した。俺は生きているのだと主張する行為に、どこか似ていた。




