第八章:錆びた歯車
時間は、粘度の高いシロップの中をゆっくりと進むみたいに、重たく流れていった。ベッドから起き上がり、家の中を歩き回れる程度には回復したけれど、身体には常に薄い膜のような倦怠感が張り付いている。頭痛は鈍痛となって居座り、時折、世界がぐらりと傾ぐようなめまいが襲ってくる。そして、あの視線。背中に、首筋に、常にまとわりつく冷たい感覚。それはもう、恐怖というより、不快な日常の一部になりつつあった。
食事の時間になると、リビングで母と顔を合わせた。食卓に並ぶのは、相変わらず彩りのない、安全なだけのメニュー。会話は、天気の話、テレビのニュース、そんな当たり障りのないことばかりが、空虚に交わされる。
「顔色、少し良くなったんじゃない?」
「…そうかも」
「もうすぐ、学校にも行けそうね」
母の言葉には、抑揚というものが欠けている。まるで、台本を読み上げているかのようだ。私は、母が時折、私の左腕――まだ痣が薄く残っている――に、気づかれないように素早く視線を送っていることに気づいていた。その度に、胸の奥が冷たくなる。母は、何を知っているのだろう。そして、何を隠しているのだろう。
体力が少し戻ってくると、あの失われた日の記憶を取り戻したいという衝動に駆られた。自分の部屋を改めて見回す。何か、手がかりになるようなものは? あの日の痕跡は? けれど、部屋はいつも通り、母によって完璧に整頓されている。まるで、何も起こらなかったかのように。母親の部屋のドアは、今は固く閉ざされ、鍵までかかっているようだった。あの部屋には、私の知らない何かが、まだ隠されている気がしてならなかったが、近づく勇気はなかった。
部屋の隅に、黒い靄のようなものがゆらりと揺らめいて見えることがある。目を凝らすと、それはすぐに消えてしまう。ドアがきしむ微かな音。壁の中から聞こえるような、カリカリという引っ掻くような音。以前なら、きっと恐怖で身動きが取れなくなったはずだ。でも今は、どこか諦めに似た感情で、それを認識している自分がいた。「ああ、またいるな」と、ただ思うだけ。まるで、厄介な同居人がいるかのように。この奇妙な日常に、私の感覚は、少しずつ麻痺し始めているのかもしれない。
そして、ようやく学校へ復帰する日が来た。久しぶりに袖を通した制服は、少しだけ身体に馴染まない気がした。重い足取りで校門をくぐる。生徒たちの喧騒、笑い声、駆け回る足音。それらが、まるで遠い国の祭りのように、現実感なく響く。教室に入ると、いくつかの視線が私に注がれた。心配そうな顔を向けるクラスメイトもいれば、好奇の光を宿した目を向ける者もいた。けれど、そのほとんどは、すぐに興味を失い、自分たちの世界へと戻っていった。結局、私が一週間何をしていようと、この教室の日常には何の影響もないのだ。その事実が、改めて私の孤独を浮き彫りにした。
自分の席に座ると、自然と視線が斜め前の席へと向かう。そこに、影山くんがいた。彼は窓の外を眺めていたが、私の存在に気づくと、ゆっくりとこちらを向いた。そして、目が合った。ほんの一瞬。彼はすぐに視線を逸らしたが、その時の彼の表情は、以前の戸惑いとは明らかに違っていた。そこには、戸惑いに加えて、何か…心配するような、あるいは、何かを問いかけたいような、複雑な色が混じっているように見えた。どきり、と心臓が跳ねるのを感じた。
昼休み。足は、無意識のうちに図書室へと向かっていた。あの古い植物図鑑。あれは幻覚ではなかったのではないか。そんな思いが、日に日に強くなっていた。書架を丹念に見て回るが、それらしき本は見当たらない。諦めきれず、カウンターにいる司書の先生に尋ねてみた。
「すみません、古い植物の図鑑で、革装の…」
「ああ、あれね」先生はすぐに思い当たったように言った。「少し変わった絵のたくさん載ってるやつでしょう? 少し前まで、二年B組の影山くんがずっと借りていたのよ。でも、つい最近返却されたはずだわ。ええと、確か…あっちの棚の隅の方に置いたと思うんだけど…」
先生が指差す棚へ行ってみる。けれど、やはりその図鑑は見つからなかった。影山くんが、また借りていったのだろうか?
授業中、窓の外を流れる雲を眺めていると、ふと、あの「水槽のソーダ」の感覚が、生々しく蘇ってきた。世界の色が飽和し、音が歪み、身体が軽くなる、あの瞬間。現実の、この灰色で退屈な手触り。身体の奥底に巣食う、鈍い不調感。周囲から切り離された、どうしようもない疎外感。それら全てから解き放たれる、唯一の方法。
(…だめだ)
頭を振る。あの恐怖を、忘れたわけではない。けれど、同時に、あの甘美な感覚への渇望が、心の底からじわじわと湧き上がってくるのを、否定することもできなかった。錆びついた歯車が、またゆっくりと回り始めるような、不吉な予感。
放課後。雑然とした廊下を歩いていると、前方から影山くんが歩いてくるのが見えた。彼は私に気づくと、少し立ち止まり、何か言いたげな顔をした。けれど、結局、彼は何も言わずに、黙って私の横を通り過ぎていった。その瞬間、彼の腕に、古びた革装の本が抱えられているのを、私は確かに見た。間違いない。あれは、あの植物図鑑だ。
彼の秘密。私の失われた記憶。そして、私の日常に潜む「黒い影」。それらが、まだバラバラの点として存在している。けれど、いつか、それらが一本の線で繋がる日が来るのではないか。そんな漠然とした予感と、拭いきれない不安を抱えながら、私は一人、夕暮れの光が差し込む、静かな校舎を後にした。