第七章:空白の点描
意識は、深い泥濘の底から、ゆっくりと、引き上げられるように浮上した。瞼が、接着剤で貼り付けられたかのように重い。それを無理やりこじ開けると、まず目に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。白い、何の変哲もない天井。けれど、それが現実のものだと認識するまでに、ひどく長い時間がかかった気がした。
身体が、まるで鉛の塊になったかのようだ。指一本動かすことさえ億劫で、全身の筋肉が石みたいに硬直している。頭の芯が、鈍く、重く痛む。そして、胃のあたりには、まだ不快な吐き気の残滓が渦巻いていた。これは、いつものソーダの後遺症とは明らかに違う。もっと深く、もっと重い。
(…どれくらい…?)
時間の感覚が全くない。最後に意識があったのは、いつだっただろうか。窓の外を見る。空の色は、朝なのか夕方なのか、判別がつかない。ぼんやりとした頭で枕元のデジタル時計に目をやると、表示されている日付にぎょっとした。嘘でしょう? 私が最後にソーダを飲んだ日から、一週間近くが経過している。そんなに、眠っていたというのだろうか。学校は? どうなっているんだろう。
重たい身体を無理やり引きずり、リビングへと降りた。そこには、ソファに座って静かに本を読んでいる母の姿があった。私が現れたことに気づくと、母はゆっくりと顔を上げた。その表情が一瞬、ほんの一瞬だけ、硬直したように見えたのは、気のせいだろうか。すぐに、いつもの、穏やかで、けれど感情の温度が読めない微笑みが浮かべられた。
「あら、目が覚めたのね。気分はどう?」
「……別に……普通」
嘘だ。全然普通じゃない。身体も、頭も、何もかもがおかしい。でも、本当のことを言う気にはなれなかった。母の目が、私を値踏みするように、じっと観察しているのを感じる。居心地が悪くて、視線を逸らした。
「…あの、私…どれくらい…」
「疲れていたのよ。少し長く眠っていただけ。心配いらないわ」
母は、私の言葉を遮るように言った。その口調は、有無を言わせない、有無を言わせない響きを持っていた。あの日のこと、あの激しい感覚の嵐のこと、そして母が私に何をしたのか、聞きたいことは山ほどあった。けれど、喉まで出かかった言葉は、母のその態度によって、再び飲み込まれてしまった。聞いても、きっと本当のことは教えてくれないだろう。そんな確信があった。
自分の部屋に戻り、シャワーを浴びることにした。温かいお湯が身体に触れると、少しだけ強張りが和らぐ気がした。ぼんやりと自分の腕を眺めていると、左腕の内側に、見慣れない痣のようなものができているのに気がついた。淡い紫色。いつ、どうしてできたのか、全く記憶にない。触れても、痛みはなかった。ただ、そこにあるという事実だけが、妙に不気味だった。
そして、感じる。以前にも増して、常に誰かに見られているような、あの粘つくような視線。背中に、首筋に、それは冷たくまとわりついて離れない。シャワーを浴びていても、一人で部屋にいても、その感覚はずっと続いている。あの「黒い影」は、本当に消えたのだろうか?
あの日の記憶は、驚くほど抜け落ちていた。ソーダを飲んで、すぐに視界が歪み始めたところまでは覚えている。けれど、その後のことは、まるで厚い霧に覆われたように、何も思い出せない。母親の部屋に入ったこと、鏡の中の影、植物図鑑、影山くんの顔… それらが本当にあった出来事なのか、それとも全てが幻覚だったのか、区別がつかない。ただ、断片的なイメージ――暗い部屋の隅、冷たい誰かの手、そして自分を飲み込もうとする巨大な闇――が、悪夢の残滓のように、不意にフラッシュバックしては、私を混乱させた。
リビングを見回しても、あの古い植物図鑑はどこにもなかった。母が片付けたのだろうか。それとも、やはりあれは幻だったのか。確かめようにも、母に尋ねることはできなかった。ただ、図書室で見た影山くんの、あの難しい顔だけが、やけに鮮明に思い出された。彼は、元気に学校に来ているだろうか。そればかりが、なぜか気になった。
一週間も休んでしまったのだから、明日からは学校へ行かなければならないだろう。そう思い、制服に着替えようとした。しかし、立ち上がった瞬間、強いめまいと倦怠感に襲われ、その場にへたり込んでしまった。とてもじゃないが、外に出られる状態ではなかった。
リビングでその様子を見ていた母は、「無理することはないわ。もう少しゆっくり休みなさい」と、静かに言った。その言葉は優しさから出たものなのだろうけれど、今の私には、まるで檻の中に閉じ込めようとする監視人の言葉のように聞こえた。
結局、その日も私は自分の部屋のベッドに横たわっていることしかできなかった。窓の外では、車が通り過ぎる音や、子供たちの声が聞こえる。世界は、何も変わらずに続いている。でも、私だけが、どこか取り返しのつかない場所に来てしまったような気がした。失われた記憶の空白。身体に残る奇妙な痣と、消えない視線の感覚。母への、拭い去ることのできない不信感。
そして、心の奥底で、小さな声が囁くのだ。
あの黒い影は、まだ、すぐそばにいるのではないか、と。
あるいは、もう、私の内側に…?
答えの見えない恐怖に、私はただ、目を閉じることしかできなかった。ソーダへの渇望は、今はその恐怖によって、かろうじて抑え込まれていた。