第六章:沈黙の介抱
目の前の景色が、割れた鏡の破片みたいに散らばっては、意味不明なパターンを描き出す。赤、青、黄色。光の洪水。音が、ぐしゃぐしゃに潰れた塊になって、頭の中で反響している。ここはどこ? 私は誰? 床は、冷たくて硬いはずなのに、今は粘り気のある沼みたいに、身体が沈み込んでいく感覚。壁が、天井が、波打ち、溶け落ち、空間そのものが融解していく。自分の手足さえ、どこにあるのか分からない。意識が、明滅する。点いたり、消えたりする、壊れかけの電球のように。
(…あ…)
その、混沌とした視界の中に、巨大な影が現れた。ゆっくりと、こちらに近づいてくる。それが母親だと認識するまでに、途方もなく長い時間がかかった気がした。母親の顔が、すぐ目の前にある。けれど、その表情は、能面のように平坦に見えたかと思うと、次の瞬間には、まるで歪んだ鏡に映したように、ぐにゃりとねじ曲がって見える。唇が動いている。何かを言っている。でも、その声は、深い水の底から聞こえてくるみたいに、くぐもって不明瞭だ。意味のある言葉として、鼓膜に届かない。
母親の手が、私の肩に触れた。冷たい。その手が、私を抱え起こそうとしている。身体に力が入らない。抵抗しようにも、指一本動かせない。母親は、驚くほど冷静だった。床に転がっていた「水槽のソーダ」の空き瓶を、慣れた手つきで拾い上げると、近くにあったタオルか何かで素早く包み、どこかへ隠した。まるで、見られてはいけない証拠を隠滅するかのように。
そして、私の手首を取り、脈を測る。額に手を当てる。その仕草は、心配しているようにも見えるけれど、どこか医者が患者を診るような、事務的で、感情の温度が感じられない手つきだった。
「…………また………たのね……」
「………すこし……すぎた…………?」
「……だいじょうぶ………おちつくから……」
母親の呟きが、ノイズの合間を縫って、断片的に耳に届く。それは、私に言い聞かせているのか、それとも独り言なのか。その声色には、いつもの母親とは違う、何か別の響きがあった。まるで、秘密を共有する共犯者に語りかけるような。
(…いや…ちがう…)
違う、と言いたかった。これは、いつもの「落ち着く」過程とは違う。何かが、根本的におかしい。身体の内側から、何かが蝕まれていくような感覚。そして、すぐそこに、「あれ」がいる気配。あの、黒い影。
「…み、てる……そこに……」
か細い声が、勝手に漏れた。母親の動きが、一瞬止まった気がした。彼女は、私の視線の先を追うように、部屋の中を見回した。もちろん、そこには何もない。
「…疲れているのよ。…少し、眠りなさい」
そう言って、母親はどこからか持ってきたグラスを、私の口元に運んだ。中には、ただの水のように見える液体が入っている。反射的に口を閉じようとしたが、もう遅かった。液体が、有無を言わさず喉の奥へと流し込まれていく。抵抗する力は、もう残っていなかった。
その液体が身体に染み渡ると、急速に感覚が鈍麻していくのを感じた。激しく点滅していた光は和らぎ、耳障りなノイズは遠のいていく。身体の痛みも、吐き気も、薄らいでいく。まるで、麻酔を打たれたみたいに。
意識が、ゆっくりと薄墨の中に沈んでいく。
遠のいていく感覚の中で、最後に、はっきりと感じたものがある。
あの、黒い影。
それはもう、部屋の隅にいるのではない。すぐ目の前に、私のすぐそばに迫っていた。そして、私を包み込むように、その不定形な身体を広げている。それは、圧倒的な恐怖のはずなのに、なぜか、同時に、抗いがたいほどの甘美な誘惑のようにも感じられた。このまま、この影に飲み込まれてしまえば、楽になれるのかもしれない。この苦しみも、孤独も、すべて消え去るのかもしれない。
(……ああ……)
色も、音も、形も、思考も、すべてが混ざり合い、溶けていく。最後に残ったのは、ただ、深く、暗く、冷たい水の中へと、どこまでも沈んでいくような感覚。静かで、穏やかで、そして、底なしの闇。
*
娘が完全に意識を失ったのを確認すると、母親はそっとその身体を抱え上げ、寝室のベッドへと運んだ。規則正しい寝息。青白い顔。母親は、娘の額に張り付いた髪を優しく払い、しばらくその寝顔を見つめていたが、やがて静かに部屋を出た。
リビングに戻ると、テーブルの上には、なぜか娘が普段読むことのない、古い植物図鑑が開かれたまま置かれていた。奇妙な植物の挿絵のページ。母親はそれに一瞥もくれず、キッチンの棚の奥から、先ほど隠した空の硝子瓶を取り出した。それを丁寧に洗い、ラベルを剥がし、他のゴミとは別に、厳重に袋に入れて口を縛った。
全てを終えると、母親は窓辺に立ち、外を見た。日はとっぷりと暮れ、街灯がぽつぽつと灯り始めている。その光景を、彼女はただ、何の感情も浮かばない、能面のような無表情で見つめていた。部屋には、時計の秒針の音だけが、静かに響いていた。