表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

第五章:昼光の眩暈

カチリ、と乾いた音がして、硝子瓶の蓋が外れた。もう迷いはなかった。躊躇は、一瞬前にどこかへ消え去っていた。瓶を傾け、淡い水色の液体を一気に喉へ流し込む。金属のような後味が舌に広がり、ひんやりとしたそれが食道を通って胃へと落ちていく。昼間の、まだ明るい光の中でこれを飲むのは、ほとんど初めてのことだった。いつもは夜の帳に隠れて、ひっそりと行う儀式。白日の下に晒されるそれは、どこか後ろめたく、禁忌を犯しているような感覚を伴った。


(…あれ?)


いつもなら、効果が現れるまで少し時間がかかるはずなのに。飲み干して、まだ息をつく間もないうちに、視界がぐにゃり、と歪んだ。まるで、熱せられたアスファルトの上に見える陽炎のように、部屋の景色が揺らめき始める。壁紙の模様が、見たこともない節足動物みたいに蠢きだし、壁を覆い尽くしていく。色彩が、急速に飽和していく。窓から差し込む光は、ただの白い光ではなく、虹色の粒子を含んだ奔流となって部屋に流れ込んできた。


「……っ!」


変化が、速すぎる。身体が、ふわりと浮き上がるような感覚。いや、実際に浮いているのかもしれない。自分の意思とは関係なく、身体がゆっくりと部屋の中を漂い始める。床が、まるで水面のように波打ち、足が沈み込むような、あるいは弾かれるような、奇妙な感触。


気づけば、私は廊下にいた。廊下の壁が、ゼリーみたいにぷるぷると震えている。突き当たりにある、普段は固く閉ざされているはずのドア。母の部屋だ。なぜか、今日は少しだけ開いている。隙間から、薄暗い部屋の内部が覗いている。


吸い寄せられるように、その隙間に身体を滑り込ませた。母の部屋に入るのは、何年ぶりだろうか。整然と片付けられすぎて、かえって生活感のない、よそよそしい空間。空気までもが、私のものではない匂いがする。化粧台の上に置かれた香水の瓶が、宝石のように光を放っている。


ふと、化粧台の大きな鏡に目が留まった。そこに映っているのは、私のはずなのに、まるで知らない子供のように見えた。目は大きく見開かれ、顔色は青白く、表情は怯えているようでもあり、恍惚としているようでもある。


(だれ…?)


鏡の中の自分に問いかける。答えはない。ただ、その像が、ゆっくりと歪んでいく。そして、その歪んだ私の背後に、ゆらり、と黒い影が揺れたのを、確かに見た。


「ひっ…!」


慌てて振り返る。もちろん、そこには誰もいない。ただ、壁があるだけだ。けれど、もう一度鏡に視線を戻すと、そこにはまだ、あの黒い影が映り込んでいる。それは、定まった形を持たず、煙のように揺らめいている。でも、確かに「いる」。そして、じっと、私を見ている。あの、首筋にまとわりつく、冷たい視線。その主が、今、すぐそこに…?


恐怖で身体が竦む。逃げ出したいのに、足が縫い付けられたように動かない。視線を逸らそうとして、本棚が目に入った。母が読むような小説や実用書が並ぶ中に、一冊だけ、場違いな本が紛れ込んでいるのに気づいた。革装の、古い植物図鑑。なぜこんなところに?


吸い寄せられるようにそれを手に取る。ページを開くと、精密に描かれた、奇妙な形の植物の絵。見たこともない花、毒々しい色の茸、蔦のような、触手のような植物…。その絵を見ているうちに、図書室で見た、影山くんの難しい顔が脳裏にフラッシュバックした。彼が見ていたのも、こんな図鑑だったのだろうか。彼の、あの少し戸惑ったような目が、今は何かを探るように、私を射抜いているような気がした。この図鑑は、彼と何か関係があるのだろうか? それとも、これも幻覚?


(いたい…)


突然、こめかみを針で刺されたような鋭い痛みが走った。視界が、激しく点滅する。色彩が、暴力的に溢れ出し、あらゆるものの輪郭が溶けて混ざり合っていく。壁も、床も、家具も、ぐにゃぐにゃに歪み、まるで生き物のように脈打っている。音が、割れる。ガラスが砕けるような甲高い音、低いうなり声、意味不明な囁き声。それらが混ざり合って、鼓膜を突き破らんばかりに鳴り響く。


「う…っ!」


強い吐き気がこみ上げてくる。立っていられない。身体が、内側からバラバラに引き裂かれていくような感覚。これが、いつもの「水槽のソーダ」の効果なのか? 違う。これは、何かがおかしい。制御できない。危険だ。


(たすけて…だれか…)


声にならない叫びが、喉の奥で押し殺される。


その時、遠くで、カチャリ、と音がしたような気がした。玄関の鍵が開く音? 母が帰ってきた? あるいは、すぐ耳元で、甲高い金属音が鳴り響いているようにも感じた。電話の呼び出し音? 何かの警告音? 現実なのか、幻聴なのか、判別がつかない。ただ、その音が、歪んだ空間の中で、悪意を持って反響しているように感じられた。


床に蹲り、両手で頭を抱える。目の前が真っ暗になったかと思うと、次の瞬間には閃光が走り、網膜に奇妙な残像を焼き付ける。自分がどこにいるのか、今がいつなのか、もう何も分からない。時間の感覚は完全に消え失せ、ただ、激しい感覚の嵐の中に放り込まれている。


そして、感じる。すぐそばまで、「何か」が迫ってきている気配。あの黒い影か? それとも、もっと別の、名状しがたい何かか? その得体の知れない恐怖だけが、この狂った世界の中で唯一、確かなものとして、私の全身を支配していた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ